蟻の街のマリア 1958年(昭和33年)
蟻の街(ありのまち)とは、1950年(昭和25年)1月頃[1]、現在の隅田公園(東京都墨田区)の一角で、言問橋(ことといばし)のそばにあった廃品仕切場および「蟻の会」という労働者の生活協同体があった一帯を指す。マスコミ報道によって付けられた呼び名である。文献によってはアリの街[2]、アリの町とも書く[1]。1960年に東京都の代替地斡旋により、東京都江東区深川8号埋立地(現在の潮見)に移転した[3]。
北原怜子と子供たち
北原怜子の活動は、松居桃楼のマスコミへの働きかけで「蟻の街のマリア」として新聞・雑誌に記事として取り上げられるようになる。肺結核を病んでいた北原は、病身にもかかわらず蟻の街の子供たちのために奉仕した。松居の説得で、一度は療養のために蟻の街を去ったが、余命が短いと医師に判断された後は、蟻の街に移り住んで療養を続け、蟻の街の住民として死んだ。
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