西安の城外西13キロの所に秦の始皇帝(在位前247~前210)が建設しようとした阿房宮の遺跡がある。
始皇帝が即位すると、それまでの咸陽宮が手狭であると言うことから新たな宮殿を建造することになり阿房の地に前殿が造られた。前殿は東西600―800m、南北113―150mあり、1万人を収容できたと言われるが、秦の滅亡で未完成に終わった。
阿房宮の遺跡の土台は、版築工法で造られている。これは板で枠を作り、土をその中に盛って1層ずつ杵で突き固めるもので、新石器時代から現在に至るまで中国に伝えられている工法である。基壇の規模は東西1270m、南北426m、高さ9~12mと言うから、気の遠くなるような作業である。
中央の部分は復元されたもの。
今も版築の跡が見られる。
基壇の上は、今では広い畑や雑木林になっているが、前殿の広壮さが想像できる。今でも時折、瓦の破片が見つかるそうである。
阿房宮は秦王朝を滅亡させた楚の項羽によって焼き払われ、3ヶ月間燃え続けたと歴史書にあるが、最近の調査では草木の灰や焦土の痕跡は発見できず、燃やされたのは咸陽宮だったのではないかと言われているそうだ。
阿房宮跡の近くに阿房宮の前殿を復元した場所がある。テーマパークのようなものであるが、特にイベントをやっているでもなく、閑散としていた。大きな割に空虚な感じがする面白くないものだった。
「阿房宮」とあるが、この名称は後世のものである。
始皇帝が即位すると、それまでの咸陽宮が手狭であると言うことから新たな宮殿を建造することになり阿房の地に前殿が造られた。前殿は東西600―800m、南北113―150mあり、1万人を収容できたと言われるが、秦の滅亡で未完成に終わった。
阿房宮の遺跡の土台は、版築工法で造られている。これは板で枠を作り、土をその中に盛って1層ずつ杵で突き固めるもので、新石器時代から現在に至るまで中国に伝えられている工法である。基壇の規模は東西1270m、南北426m、高さ9~12mと言うから、気の遠くなるような作業である。
中央の部分は復元されたもの。
今も版築の跡が見られる。
基壇の上は、今では広い畑や雑木林になっているが、前殿の広壮さが想像できる。今でも時折、瓦の破片が見つかるそうである。
阿房宮は秦王朝を滅亡させた楚の項羽によって焼き払われ、3ヶ月間燃え続けたと歴史書にあるが、最近の調査では草木の灰や焦土の痕跡は発見できず、燃やされたのは咸陽宮だったのではないかと言われているそうだ。
阿房宮跡の近くに阿房宮の前殿を復元した場所がある。テーマパークのようなものであるが、特にイベントをやっているでもなく、閑散としていた。大きな割に空虚な感じがする面白くないものだった。
「阿房宮」とあるが、この名称は後世のものである。