中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

三大珍味

2008-10-11 09:10:32 | 身辺雑記
 冷蔵庫の隅からトリュフの小さい瓶詰めが出てきた。数年前に何かの折に手に入れたものだが忘れてしまっていた。

 トリュフはフランスやイタリアに産する食用茸として有名で、西洋松露というようだ。瓶を開けてみると、薄い黒色でスライスしてあり、これは黒トリュフと呼ばれるフランス産のもので、瓶のラベルにも「原産国フランス」とある。独特の強い香りがあって、豚や犬に嗅がせて掘り出すことでよく知られている。ビンの中身を嗅いでみたが特に強い香りはない。やはり生でないと香りは落ちるのだろう。

 Wikipediaより

 トリュフは鵞鳥や鴨の肝臓の加工品であるフォアグラや、チョウザメの卵の塩漬けであるキャビアとともに高級食材として珍重され、世界三大珍味と称されている。フォアグラやキャビアも以前口にしたことはあるが、それなりの味ではあったが、こんなものかと思った程度だったし、今回のトリュフに至っては無味で無臭に近く、旨いものとは思えなかった。

 世界三大珍味とか「三大何々」と言うものはかなり主観やこじつけもあるようだ。三大珍味と言っても、フランスかせいぜい欧米あたりのグルメと称する贅沢に慣れた者が言い出したものだろうが、今では一種のステータスシンボルのようにもなっているのだろう。珍味と言うなら他にもどこにでもあるだろうし、各民族の味覚はさまざまだから、それぞれ自分達の好む食材や料理の中に珍味があるはずだ。日本でも酒好きの者ならアユのうるかやボラのからすみ、ナマコのこのわた、雲丹こそが珍味と言うかも知れないし、酒があまり飲めない私でも、この方がずっと旨いと思う。

 縁があって我が家にやってきた珍味のトリュフだから、何かよい食べ方はないかと思ったが、このような高級食材を使う料理など思いつかない。それで瓶のラベルにあったようにクラッカーに乗せて食べてみたが、しょせん私のようなグルメでも何でもない野暮な者にとっては猫に小判というものだった。



教材研究

2008-10-10 09:32:22 | 身辺雑記
 教師にとって、授業のための準備=教材研究は欠かすことができないものです。教材研究と言っても、教える内容、板書の構成などの教え方、それらをまとめたノートの作成、副教材の選定、作成などいろいろあります。私は高校の理科生物の教師でしたから、実験の計画、実験材料の準備、実験の進め方のプリントの作成などもしなければなりませんでした。

 念願叶って教師にはなってみたものの、すぐに教師の仕事というものがどんなに厳しいものかを思い知らされました。もちろん高を括っていたことはなく、それなりの覚悟とフレッシュな意気込みはあったのですが、とにかく教材研究の大変さを思い知らされました。当時は1年生の生物を担当しましたが、5単位の科目、すなわち1週間に50分授業が5コマあるのです。分厚い教科書を開いて授業のためのノートを作ろうとしたときに、あまりにも調べなければならないことばかりで、いったい大学4年間とその後の2年間、生物専攻の学生として何をしてきたのかと、我ながら嘆かわしくなるほどでした。

 1週間の5コマのうち2コマは連続授業で生物実験に充てられていましたから、その教材準備も必要です。実験に必要な器具などの準備は実習助手がやってくれますが、実験そのものはもちろん指導しなければならず、それまでやったこともないようなものも多くあり、これにも悩まされました。私自身が初めての実験をもっともらしく教えなければならないのですから、いかに高校程度のものと言っても大変でした。

 1年生が3クラスの他に、受験用の問題集を使って授業する3年生の1クラスもありましたが、この方がまだやりやすかったですね。とにかく1年生の授業の教材研究に、家ではもちろん学校での空き時間にも追い回されました。毎晩1時、2時まで準備をし、時には授業の直前までやったりして、一夜漬けどころではありませんでした。今から思うと当時の生徒達には恥ずかしいような、申し訳ないような気がします。

 ノート用紙にも気を遣い、最初は市販のルーズリーフを使いましたが、後には当時はやっていた京大式情報カードの体裁のものを自分用に特注し、これは高校教師をやめる時まで使いました。カード式にしたのは小項目ごとにまとめられ、書き換えも、差し替えもきくからでした。同じノートを何年でも使っているなど言われる教師も時折いますが、それはしたくないという気持ちもありました。今でも私の名前をローマ字で印刷してあるそのカードが机の引き出しから出てきたりすると、懐かしくなります。休みの日には神戸の古本屋に出かけては教材研究に必要な本を集めたりして、思えば教材研究にどっぷり浸かっていたような生活でした。もちろん教師生活が長くなるにつれて教材研究に使う時間は減ってきましたが、それは京大式カード方式のお蔭だったとも思います
 
 当時、一番エネルギーを費やしたのは、授業で生徒に配る資料の作成でした。特に生物の分類にはかなりの時間を使うようになっていましたから、動植物の紹介のための資料が必要でした。今ならきれいなカラー版の図集が市販されていますが、当時はなかったので、すべて手書きしました。今頃の人たちにはもう分からなくなっているでしょうが、当時はガリ版で資料を作りました。ガリ版は特殊な紙にワセリンなどを塗った蝋原紙と言うものを鉄の鑢板の上に置き、鉄筆で書いて印刷原版を作っていくもので、これを原紙を切ると言い、そのときのガリガリという音から名づけられたものです。毎日のようにガリガリとやっていました。今でもあの音と鉄筆の感触を思い出すことができます。動物の解剖図などを描くときにはとても時間がかかり、1時間の授業のために図の作成も含めて10時間くらいを教材研究に使ったこともありました。若かったからできたのだと思います。今では適当な資料から必要な図や表などをコピーして紙に貼り付け、それを原版にして印刷までできる装置があるのですから、隔世の感がありますね。

 定年退職した後は、再び教壇に立つ気持ちはありませんでした。希望すれば私学にでも口はあったと思いますが、生物学は私が高校を離れてからの10数年の間に非常に発展し、新しい知見が取り入れられていたこともあり、またあの教材研究をやり直さなければならないのかと思うと、億劫さが先に立ちました。若い頃には教材研究は面白く、やり甲斐のあるものでしたが、しんどさもひとしおで、もう一度やりたいとは思いません。



しあわせ

2008-10-09 11:34:14 | 身辺雑記
 東京の施路敏(シ・ルミン敏敏)がチャットで次のような歌(?)を教えてくれた。

  幸福、就是小猫吃小魚、小狗齦骨頭、奥得曼打打小怪獣
  (幸福は、猫が魚を食べ、犬が骨を齧り、ウルトラマンが怪獣をやっつけること)

 子どもの歌なのか、冗談なのか、敏敏は友達に教えてもらったと言った。「大きな幸福でなくても、小さな幸福でいいと言うことだな」と書き送ったら「そうそう」と返ってきた。

 敏敏はつい先日失恋した。付き合っていた彼が、以前上海で7年間付き合ってから別れた女性が忘れられないからというのが理由らしく、電話で泣いていた敏敏はその理由が悔しいと言っていた。直後のチャットには「想回上海想回家」(上海に帰りたい 家に帰りたい)とあってかわいそうに思ったが、まだ若いのだからささやかでいいから幸せを手にしてほしいと願った。それがこの「幸福は・・・・」に変わったので落ち着いたようだ。

 だいぶ前に「あなたにとって幸せとは何ですか」だったか「あなたは今幸せですか」だったか、街頭で尋ねている番組があった。この番組の狙いは何だったのか、質問を受けた人達がそれぞれどのように答えていたかは忘れてしまったが、私が聞かれたらちょっと答えに窮してしまうのではないかとそのときには思ったし、ちょっと下らないとも感じた。もちろん私もこれまでの人生の中で、幸せを味わったことは少なくない。大学に合格した時、就職が決まった時、親になった時など人生の節目のような時にはもちろん大きな喜びを感じたことは間違いないが、しみじみと「ああ、幸せだなあ」と思ったりした記憶はない。卑俗な言い方になるが「やったあ」という感じに近い。もっとも何年かの付き合いの結果結婚できた時には、文句なしに幸せだと思ったことは間違いない。

 幸福と言うものは、案外大きなものではなく、何気ない日常の生活の中でふと感じるささやかなことで、仰々しいものではないようにも思う。そういう何でもないような幸せ感は、たとえば良い音楽を聴いている時などに感じることがある。もっともそれも「幸せだなあ」というような改まったものではなく「いいねえ・・・」というくらいのものだ。街で幼い子どもの無邪気な表情を見ると「ああ、可愛いなあ」と思い、胸の中に暖かいものが流れる、これも幸せなことなのだろう。そうすると幸せなどというものは、案外どこにでもある平凡なものなのかも知れない。豪華な薔薇も美しいが、路傍の小さな草花も美しい。

 もし改まって「あなたにとって幸せとは」と聞かれたらどう答えようか。やはり平凡ながら「この年になるまで病気らしいこともせずに元気でこられたことです」くらいにしておこうか。だが正直なところ、聞かれたらそう答えても、本当はそれは何か当たり前のようで、特に幸せなことだとは思ってはいないのだ。素直でないかな。

                    

緊張感

2008-10-08 08:41:30 | 身辺雑記
 前(8月28日)に、小林勇『夕焼』(文藝春秋 昭和49年)に収められている「夕焼」というエッセイの中のこのような1節を紹介した。

 「人はその一生にどれだけ緊張した時間を持ったか。その量の多寡によってその人間の価値が決まるように思う。言うまでもなく自分一個の、欲望のためにのみ緊張することから美しいものは育たない。」

 若いころを振り返ると教師としての生活には緊張感が多かった。それが私の価値を決めたかどうかはよく分からないが、その緊張感は今振り返ると快いものでもあった。学校を離れて教育委員会の事務局に入ったが、ここでは緊張感と言うよりもストレスの方が多く、とても快いなどと言う毎日ではなかった。やはり生徒と向き合って過ごすことの方がはるかに充実感があり、仕事をしても達成感が大きかったが、教育委員会では事務に追われているという感じが強かった。

 とりわけ懐かしく思い出すのは、担当の授業が少し始まる前に職員室や理科準備室を出て教室に向かう時のかすかな緊張感だ。それは教室に近づくにつれて高まっていくが、教師になりたての頃のような胸がどきどきすることはなくても、表現できない緊張だ。とりわけ夏休みなどの長期休みが明けた最初の日の緊張感は強いもので、今思い出すと、いつまでたっても新米教師の感覚のようだった。それがある年の冬休み明けの最初の授業に行く途中で、何か緊張感がなく、ふらりと教室に入ってしまったことに気づいた。なぜなのかよく分からなかったのだが、それから程なくして、年度末に急に教育委員会の事務局への辞令が出た。私にとって生徒達から離されることは大きなショックで、その時になって緊張感が感じられなかったのはマンネリズムに陥っていたからだろうと気づいた。そして罰が当たったのだと思った。

 今の無職の年金生活者の日々は特に波風も立たない平穏なもので、ストレスらしいものもない。それはいいのだが、しかし同時に適度な緊張感もほとんどない。何かしらだらだらと時が流れているようで、これはあまり良くないことだと思う。「ふるさと」について書いたブログの中で、島根のふるさとに帰って生活しているAさんのことにちょっと触れたら、Aさんからメールが来た。メールには、ブログを見た日には釣りに行っていてキスを37匹釣ってきて、大自然の恵みの中で「ふるさと」で生かしてもらっていることに感謝していること、自治会の一大イベントの町の運動会があること、夜は近所の寺に集まって食事会をすることなどが綴られていた。充実した生活だと思う。畑をつくり、時には釣りをし、地域の行事にも参加する、これが悠々自適の生活というものなのだろう。羨ましい限りだ。


                    



変異

2008-10-07 08:22:33 | 身辺雑記
 定年退職以来自然観察をライフワークのようにしている弟と食事をした時、ある小雑誌を見せてくれた。アマチュアの昆虫研究家などが寄稿するもののようで、その中にタマムシだったか、ある種の甲虫がずらりと並んだカラー写真のページがあった。どれも同じように見えるのだが、体の紋様がごく僅かに違う個体を集めたものだった。「こういうのはあまり好きじゃないね」と弟は言った。弟はフィールドで地道に生物の生態の観察をしているから、同じ種のものの僅かな違いに目をつけて多数採集するようなマニアックなことには関心はなく、むしろ好きではないようだ。

 「それにしても、人間の顔は実にさまざまだと感心してしまうなあ」と弟は言った。同じ種の生物の個体間の差異を変異と言うが、多くの動物に比べると顔の部分をとっても、人間の変異の多様さは際立っている。白人種、黒人種、黄色人種の違いはもちろんだが、民族によって特徴があると言っても、一人ひとりの顔つきは、1人として同じではない。一卵性双生児は非常によく似ていることはあるが、それでもまったく同じではない。顔つきだけでもさまざまなのに、身体全体をトータルに見た場合にはさらに多様になる。その点、例えば大量に獲れる鰯などの魚は、皆同じ顔をしているし、大きさもほとんど変わりがない。高等動物になるほど個体差が出てきて、猿などの野生動物を観察し研究する場合には、顔などの特徴によって個体識別して名前をつけたりする。確かにチンパンジーなどは素人が見ても区別できるさまざまな顔つきをしているが、それでも人間の多様さにはとても及ばない。

 街を歩き、行き交う人たちを眺めていると、改めて実にいろいろな顔があるものだと感心することがある。当たり前のことでも時々、どうしてこんなにいろいろな顔があるのだろうと不思議にもなる。そして、宇宙人に収集マニアがいたら、地球人を見れば狂喜して、片っ端から「採集」してコレクションに加えることだろうなどと他愛もないことを思ったりする。

                 





上海水族館

2008-10-06 10:58:04 | 中国のこと
 唐怡荷の結婚式は夕方の6時半からなので、それまでの時間つぶしに上海水族館に行った。

 案内してくれたのは昨年11月に上海や蘇州を訪れたときにガイドをしてくれた梁莉(リャン・リ)、愛称莉莉で、今回の上海での3日間はずっと世話をしてくれ結婚式にも出席した。何かの弾みで莉莉は「海賊館」と言い間違えておかしそうに笑い、「実は上海海洋水族館と言いますから、略して海賊館です」と冗談を言った。

 この水族館は上海のシンボルのようになっている東方明珠電視塔の東側にあり、外観はさほど大きくないように見えるが、アジア最大級の規模を誇る水族館と言われる。内部はかなり広く、8つのゾーンに分かれており、世界各国から集められ展示されている水生動物も豊富で300種1万匹以上、初めて見た珍しいものもあり、展示にも工夫されていて、約2時間見て回って堪能した。


 鰭に毒のある身のカサゴの仲間。このコーナーにはさまざまな毒のある魚などが陳列されている。






ユーモラスな顔。


カエルアンコウの仲間。奇怪なようなかわいいような姿。


長江にすむ淡水魚。


南米の魚。


ハイギョ。


海底観賞トンネル。全長約155mで世界最長と言う。




莉莉


結婚式

2008-10-05 10:01:13 | 中国のこと
 上海の友人の唐怡荷(タン・イフ)の結婚式に出席した。夫君は上海のガラス製造企業に勤務する陳瑋(チェン・ウェイ)君。式は旧フランス租界にある興国賓館で挙げられた。興国賓館は2002年に建てられたもので、クラシックな内装の落ち着いたホテルだった。
 興国賓館のホームページから

 式はいろいろと変化に富んだ華やかな楽しいもので、すべて怡荷がいくつかの結婚式を参考にして計画したと言う。

 玄関を入ると、フルートとハープが演奏されていて、やわらかな雰囲気をつくっていた。


 新郎新婦の入場。


 新郎新婦はステージに上がって向かい合い、誓いの言葉を述べ合う。


 その後で新郎の上司が祝辞を述べた。それが終わると参列者は食事になった。招待客は約100人で、これは中国としては規模が小さいようだ。2人は既に一昨年の秋に結婚登録を済ませているから、この程度になったのだろう。式場には多くの花が飾られ華やかで都会的な雰囲気だった。


 第2部はまず私の祝辞。それが終わるとケーキカット。私を中にして3人でカットした。2人から私にプレゼントが贈られた。

 シャンパンを積み上げたグラスに注ぎ、2人が腕を組み交わして飲む。日本でもよく行われるセレモニー。




 両家の両親がそろってステージに上がる。向かって左側が新郎の両親。


 新郎新婦が両親に茶を進呈する。中国の習慣か。それが終わると両家の母親がそれぞれ挨拶した。新郎の母親はもと大学の教員、新婦の母親はもと幼稚園の園長で、はっきりと淀みない挨拶だった。挨拶は父親でなく母親というのが興味があった。


 怡荷がステージで歌った。日本語で「亜麻色の髪の乙女」。日本から参加した私へと言うことらしかった。怡荷はなかなか歌が上手で、私の息子は上海出張のときに一緒にカラオケに行ったそうだが、とても上手いと言っていた。


 客へのサービスも行き届いていて、スクリーンに客の顔写真を映し、コンピュータ処理ですばやく入れかえていき、停止させたときの客が当選と言うことでステージに上がるという趣向で、6人が選ばれた。それぞれはスクリーンに映されたクイズに答えていき、最後にプレゼントをもらう。みな楽しそうだったが、このようなこともすべて怡荷が計画したそうで感心した。

 最後は新郎新婦のデュエット。有名な「月亮代表我的心」(月は私の心を表す)をなかなか上手に歌った。


 いつの間にか宴は終わっていたようで、司会者が特に終わりの挨拶もなしに引き上げた後は、客はしだいに席を立っていく。外では2人が縁起物の甘い菓子(喜糖シイタン)を渡しているようだった。そのうちにまだ客が残っているのに、業者が花やステージの飾りを撤去し始めた。残って話をしている客達も別に意に介する様子もなく、このおおらかな様子が中国的と言えるのだろう。 

 この結婚式は中国としては都会的で西欧風のスタイルなのだろうが、日本の披露宴のようにかしこまった雰囲気はなく、ほとんどの客は普段着で、気楽な雰囲気だった。わたしの性には合うようだ。


ふるさと

2008-10-04 09:11:43 | 身辺雑記
 藤沢周平のエッセイ集『帰省』(文藝春秋)を読んだ。

 藤沢周平は『用心棒日月抄』や『蝉しぐれ』など数多くの時代物小説で知られた作家で、1927年に山形県庄内平野の城下町鶴岡に生まれ、1997年に没している。このエッセイ集には表題の『帰省』をはじめ、生まれ故郷に関することを記したものが多い。『帰省』は家族連れで鶴岡を訪れたときのことを描写した小品である。私的なことを綴った何気ないような文章だが、さすがにうまいなと思う。

 帰省とはふるさとに帰ることであり、帰省子という夏の季語もあるが、私にはふるさとというものがないから、帰省ということにも無縁である。帰省が父母の住む家に帰ると言うことであれば、学生時代に夏休みなどに滋賀県の大津の家に帰ったことや、正月に家族連れで帰ったこともあるが、そこは戦後にたまたま住み着いた所で生まれ故郷ではない。

 私の父はサラリーマンで何度か転居を繰り返したし、祖父も故郷の大分から上京して大学に入り、その後は司法官としてやはり何度も転居したから、五男であったこともあって、故郷に戻ることはなかった。母方の祖父は岐阜県の大垣の出身であるが、これも若くして上京し大学卒業後は銀行員になったから、故郷とは無縁となった。そんなことで私は父祖の地を一度も訪れたことはない。いまや大津にも両親はいないから、その地にも何の縁もないことになってしまった。そのせいもあってか、私はずっと「ふるさと」ということばに何かあこがれのような感情を抱いてきた。

  「ふるさと」は故郷とも古里とも、あるいは故里とも書かれるが、やはり「ふるさと」が一番ぴったりする感じだ。そして想像の中のふるさとは、よく歌われてきている『故郷』の「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」のような情景だ。しかし、このようなふるさとや、その思い出を持っている人は、もうそれほど多くはないのではないだろうか。交通の便がよいところでは、地方でもしだいに都市化の波が寄せてきて「いなか」と呼べるような風情はどれくらい残っているのだろう。

 とりわけ農村からは若い人たちは都会に出て行って町の人間となり、そこで結婚をし家庭を持つ。だから、ふるさとはもはや「こころざしを果たして いつの日にか帰らん」と言う地ではなくなっている。時折は都会の生活に魅力を失って帰農する例はあっても、ごくわずかだろう。知人のAさんは退職後ふるさとの島根に帰り畑作りをしたり魚釣りをしたりしながら生活しているが、羨ましく思うことがある。昔の教員仲間のTさんも、退職してから広島の奥地のふるさとに帰り、悠々と日を送っているようだ。私のようにふるさとがなく、都会生活しか知らない者にとっては、田舎暮らしというものは想像の外にあるものだが、やはりいつまでも「帰りなん いざ」という気持ちを呼び起こすものがふるさとなのだろう。


               


国会

2008-10-03 09:29:00 | 身辺雑記
 新首相の所信表明から始まって、型どおり野党党首の代表質問、首相や閣僚の答弁と続いている。
 
  最初の最大野党の党首の質問も首相の答弁も内容は明らかに選挙を意識したようなもので、まるで街頭での選挙演説の観があった。答弁と言っても、あらかじめ事務方に提出された質問書をもとに官僚が作成した答弁書を読み上げているのだろうから、一見激しくやり合っているように見えても、何とはなしにセレモニーのようにも思われてくる。その点では委員会でのやり取りのほうが面白いとも言える。

 毎度のことながら与野党ともに議員達の野次で議場が騒がしい。これも選挙が近いということがあるのだろうが、ほとんど罵倒に近いものだ。その野次、罵倒の嵐の中で表情も変えずに平然と質問や答弁を続けるのを見ていると、さすが海千山千のつわものだと妙に感心してしまった。おそらく内容などはそっちのけで、ただ野次を飛ばしている連中もいるのだろう。野次係もいると聞いたことがある。何を言っているのかは聞き取れなかったが、テレビに向かって「黙れ!うるさい!」と叫びたくなった。これが国民の代表と称し、税金から多額の歳費を得ている「選良」達かと思うと悲しくもなる。プロ野球の応援の方がまだマシではないか。

 国会の議場での議員達の品性の乏しい野次については、今年1月のブログにも書いたが、今回も改めて、品のない政治家達には辟易した。どうもいろいろな点で、私達庶民とはかけ離れたキャラクターの持ち主が政治家に、いや、政治屋になっているのではないか。それとも志を抱いて政治家になっても、政治屋に堕してしまうような空気が永田町にはあるのかも知れない。


                    

シラミ(2)

2008-10-02 10:24:54 | 身辺雑記
 女の子のアタマジラミも厄介で、こいつはコロモジラミと似ているが、黒いからちょっと見ても毛髪に紛れてすぐには分からない。私は一緒に疎開した妹のアタマジラミをとってやったことがある。毛髪の根元に卵が産み付けられていて、その卵と成虫を潰してやったが、まるで猿の兄妹のようだ。これもいくらとってもきりがなかった。毎朝全校で町の神社に参拝したが、他の学校も来ていて、その中に1人、頭を丸坊主にした5、6年生くらい女の子がいた。あまりにもシラミが多かったので丸刈りにしてしまったらしい。まるで尼僧のようなその子は恥ずかしいためか沈み込んだような表情をしていたが、その色白の愁い顔を今でも思い出す。

           アタマジラミ(インタネットより)

 シラミは吸血し、そのときにかゆみを覚える。そのかゆさはたまらないほどで、体が熱くなる。皆手を衣服の下に突っ込んでボリボリ掻いていたが、掻くほどにかゆくなるのだった。思えば哀れな光景だった。

 戦火も熾烈になり、同居していた祖父の家も焼失したので、両親達は大阪豊中の母の実家に身を寄せ、私達兄妹も引き取られた。その途中で神奈川県藤沢市の父の姉の家に立ち寄った。そこには祖父母も移っていた。着いた日の夜に衣服を換える時に、シラミを祖母や伯母が見て驚いた。そのときにはごく僅かしかついていなかったのだが、祖母は身をかがめて目を近づけ、「まあ!観音様なんて初めて見たよ」と感嘆したような声をあげた。私だって疎開するまではシラミなど見たことはないし、シラミを観音様と言うのは初めて聞いたが今調べると、その形態が千手観音のように見えるので江戸時代からそのような異称があったようだ。異称と言えば、虱という文字から「半風子(はんぷうし)」とも呼ばれたそうだ。

 シラミは戦後も都市住民にも多く寄生し、発疹チフスを媒介すると恐れられ、当時の占領米軍(進駐軍と呼んでいた)の指示でDDTが散布され、だいぶ収まった。戦後まもなく豊中の家から大阪の梅田に行った時、駅の改札口の前には白衣を着た現在の保健所の職員のような男達がが並んでいて、改札口を出る前に、服の襟首から大きな噴霧器を差し込んでDDTの粉末を吹き入れた。DDTには毒性があり、今思うと乱暴なようだが、当時としてはかなり有効なものだったようだ。

 戦中戦後に限らず、昔は寄生虫がのさばっていて、シラミの他にも何となくユーモラスな感じで白いシーツの上を飛び跳ねるのを追いまわしたノミ、昼間は古い柱の割れ目などに身を潜めていて夜になると這い出して血を吸い、ひどいかゆみと赤い刺し跡を残して明け方には戻っていく陰険なナンキンムシ、微小で吸血すると真っ赤になってどうにか姿が見られるイエダニなどいろいろ経験したが、今思っても体がむずかゆくなるような、とんでもない時代だった。

 シラミの思い出を長々と書いてしまった。侘しくも懐かしい思い出だ。思い出と言えば、ノミにもナンキンムシにもダニにもあるが、止めておこう。