蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

現代小説のレッスン

2008年08月26日 | 本の感想
現代小説のレッスン(石川忠司 講談社新書)

「北村薫の創作表現講義」で、優れた評論として紹介されていたので読んでみた。
純文学=近代文学の「エンタテイメント化」が主題。純文学につきものの、「描写」、「内言」、「思弁的考察」は、「エンタテイメント化」を阻害する要因だが、村上龍は「描写」を、保坂和志は「思弁的考察」を、舞城王太郎は「内言」を、それぞれの仕方で解決した、という。

その他に村上春樹について詳細に述べているが、その中で中村光夫の評論から次の引用がされている。
「文学者が明治・大正時代を通じて、その仕事によって国民に浸透しようとした、個人の意識とか、幸福追求の権利とか、要するに広い意味の個人主義といっていいかと思います。そういうものが、敗戦という事実によって、いきなり人々の間に普及してしまった。
つまり近代文学が人間解放の文学だとしますと、人間の解放が敗戦の結果、文学とは縁のないところで出来上がってしまった。それは完全にできたとは云えないけれども、少なくとも明治・大正の文学者が意識したところよりもかえって徹底した形で実現してしまったと云えるかと思います。だから、近代文学は、知らない間にその使命を果たしてしまった。ところが新しい使命というものはまだ見つからない。こうなると文学の通俗化というか、娯楽化というか、そういうことが一種の必然であるということも考えられるわけであります」(「明治・大正・昭和」)

「北村薫の創作表現講義」で指摘されていたが、純文学というのが商業ベースで生き残っているのは日本くらいで、他の国では大学の研究室みたいなところでしか創作が行われていないそうだ。大戦前から個人主義みたいなのが確立されていた国では「娯楽化」はもっと早く始まっていて、日本でもその傾向がはっきり現れてきたということだろうか。

現代日本においては新たに「個人の意識とか、幸福追求の権利」をおびやかす要因が頭をもたげてきているとも言われる。衣食は足りたが礼節(を払われる機会)は十分ではなくて、(野放しの資本主義に)個人の人格とか旧来の共同体が脅かされている、みたいな主張がときおり聞かれる。「蟹工船」の異例の大ヒットなんかが一つの表れだと。

あとがきで、著者は、本書と社会の動向をストレートに結び付けないように注意した、と言っていて、このような方向性の主張はない。そしてそれは、とても良いポリシーだったと思う。上に書いたようなことを書かれると、この手の本としてはとてもしらけてしまいそうだから。
コメント
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