覇王の家(司馬遼太郎 新潮文庫)
「どうする家康」を見ていて、三河一向一揆の顛末が知りたくなって読んでみた。多分3回目くらいのはずなんだけど、一向一揆のことは殆ど書いてないことを忘れていた。
前半は、妻(築山殿)と息子(信康)を信長の命で殺した事件を描き、後半は小牧長久手戦いを描く。三河一揆だけじゃなくて姉川も三方原も関ヶ原も大阪城も登場しないという(家康を主人公としたものとしては)異例の構成。
もっとも、主人公が家康というのも結構怪しくて、築山殿の事件ではもっぱら重臣筆頭の酒井忠次を中心にして展開し、小牧長久手ではもう一人の重臣の石川数正の動向を追っている。
家康というのは三河武士団の中核機関である法人のような存在で、作者いわく「徳川家康というのは、虚空にいる。ということは、地上にいる生の人間とは思えないほど、この男は自分の存在を抽象的なものにしようとしていた。」
というか、そういう風な主題で家康を描こうすると、本書のように主人公なのに物語の中にあまり登場しない、という具合にならざるを得ないのだろう。
ナマの家康が登場するのは死ぬ間際の数ヶ月を描いた終末部分のみである。
本田忠勝曰く、殿はハキとは言わぬ人、らしく、家康はの指示は常に曖昧で、具体的な方策は、命令されたものの才覚か、家臣団の合議で決めていたらしい。
トップの指示が曖昧で、下々のものがその真意を推測して動く集団というと現代の三河が本社の自動車会社が思い浮かぶが、日本の(オーナー支配でない)サラリーマン会社の一典型とも言え、日本社会や経済の宿痾だと指摘されることもある。
一方で、スポーツなどでは、監督やコーチが全て指示するチームは強くなれず、選手自身が考えて行動できる組織が評価されるようになっている。
三河武士団も歴史上の評価は毀誉褒貶のはなはだしいものがある。物事にはウラとオモテがある、ということ。