アイラブ桐生・第三部 第三章
(34)第2章 レッドカードの街(3)
「コザ暴動について」
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(沖縄に有る米軍基地を包囲する、人間の鎖)
コザ暴動とは、1970年12月20日の未明に、
アメリカ軍施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄市)で発生した事件です。
市民たちによる自然発生的な暴動のことで、アメリカ軍の車両と施設に対する
焼き討ちに発展をしました。
そのきっかけとなったのは
コザで発生した米兵による交通事故です。
戦後25年にわたる占領支配のもとで、常に虐げられてきた沖縄では、
祖国への復帰運動をはじめ、人権をめぐるたたかいなどが大きな転換期を迎えました。
軍政ともいえる圧制のもと、長年にわたる人権侵害にたいし、
沖縄では全土にわたって強い不満が鬱積をしていました。
12月20日の午前1時すぎ、
コザの中心街にある胡屋十字路から南に、約200mほどの地点で
最初の交通事故が発生をします。
キャンプ桑江に在籍する米軍人が、酒気帯び運転で軍雇用の沖縄人をはね、
全治10日間の軽傷を負わせました。
現場には、5台のMPのジープと、1台の琉球警察のパトカーが到着をします。
負傷者の病院搬送と現場検証のさなか、隣接する中の町社交街から
市民たちが現場に集まり始めました。
MPによる事故処理にたいし「第二の糸満事件にするな!」
「犯人を逃がすな!」と騒然となります。
加害者がコザ警察署に移送されて、この騒ぎは一時的には鎮静化をします。
事故車両の移送が済んだ午後1時35分頃、ガールフレンドを連れた米兵が
現場を通りかかりました。
これを見た群衆が、この二人を挑発します。
MPが二人を乗せて移動しようとしましたが、群衆はジープを取り囲み
横転させようとして暴徒化をします。
他のMP隊員の応援でジープは現場から脱出をしますが、
群衆は続いて、このMPのジープも横転させようと襲いかかります。
この時点で群衆は、すでに数百人規模に膨れ上がっていました。
その人員の大半は、前日に一万人規模で開催をされた
「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」の参加者たちです。
※毒ガス漏えい事件は、
コザ市に隣接する美里村で致死性の毒ガスが米軍施設に秘密裏に備蓄され、
1969年7月8日に漏えい事故が発生し、軍関係者24人が
病院に搬送されたという出来事のことです。
またこの集会は、1970年9月18日に発生した糸満事件
(酒気帯びの米兵による沖縄人婦人のれき殺事故)で軍法会議が
被害者への賠償は認めたものの、加害者には、証拠不十分として無罪判決を
くだしたことへの抗議の意味合いも含んでいました。
半ば暴徒と化した群衆は、公然と車道にでて
黄色ナンバー(米軍人、軍属の車両)の走行を妨害し、道路を制圧してしまいます。
午前2居10分頃になって、反対車線で米兵が民間車両と衝突をして
第二の交通事故が発生をします。
暴徒がこれを取り囲み、投石とともに運転手に暴行をくわえます。
またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカ―を
横転させ車両には火を放ちました。
隊伍を組みなおしたMPは午前2時15分頃、
拳銃による威嚇発砲をおこない、暴行を受けていた運転手を救出します。
しかしこの発砲によって、一旦はひるんだ暴徒たちは、
かえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分ころから
沿道に駐車中の米軍車両や放置されたMPカ―を道路中央に押し出して、
これにも次々と放火をしました。
午前3時に、琉球警察が全警察官1200名の最大動員を発令します。
MPも完全武装の兵員配備を要請しますが、暴動発生現場の制圧は不可能として、
いったんは周辺に退きます。
最終的には警察官が500人、MP・沖縄人警備員が300人、
米軍武装兵約400人が動員されます。
道路にあふれた暴徒は、ふた手に分かれて進みます。
約200人が、現場から600mに位置する嘉手納基地第二ゲートから
火のついた車両を押した立てて基地内へ侵入をしました。
基地内では、ゲートに設けられているガ―ドボックスや米人学校が放火されてしまいます。
米軍は威嚇発砲や放水で対抗をして、それ以上の基地内への侵入を抑えました。
またもう一方で、約2000人が現場から
南西へ1キロほど離れた島袋三差路まで押し出して、武装兵たちと対峙をします。
車両への放火や投石が繰り返され、即席の火炎瓶なども使用されます。
午前5時すぎに、米軍はベトナムでも使用していた手投げ催涙ガス弾の
使用を許可して、暴徒の分断と鎮静化の着手をしました。
午前5時55分に琉球政府の副主席が現地に到着をします。
警察も宣伝カーを繰り出して群衆に帰宅を呼び掛け、午前7時30分までに
暴動は自然収束をします。
この結果、車両は75台以上が炎上し、双方合わせて100名近くが負傷をしましたが
暴動にはつきものの、民家や商店からの略奪行為などは一切発生をしていません。
暴動の矛先が、米軍人と軍属のみを標的にした行動だったことを
ここで見事に立証をしています。
またさらに特筆すべきこととして、
政治色や組織的な指導や指揮があったわけではなく、
あくまでも、自然発生的な市民たちによる自発的な行動であったという事実です。
米軍からの利益をうけている立場のAサインバーの従業員たちが(逮捕者も含めて)
積極的に暴動に参加をしていたという特徴もありました。
<後記>
事件はこれだけにとどまらず、
第2次のコザ事件が、わずかその半年後にさらに発生をします。
翌1971年8月17日に発生したこの暴動事件は、前回とは異なり白人・黒人間の
人種差別問題なども絡んだ、きわめて複雑な事件となりました。
泥沼化の様相を呈してきた、ベトナム戦争の後期、
アメリカ本国で盛り上がってきた反戦の機運と公民権を求める運動は、
沖縄に駐留する黒人兵たちの間にも波及をしてきました。
事件が起きた1971年には、キャンプ・シュワブや
普天間基地などの基地内で、いくつかの反人種差別暴動が起きています。
当時のコザ市の歓楽街は、人種ごとに二分をされていました。
ゲート通りやセンター通り(現中央パークアベニュー)が「白人街」、
照屋地区が「黒人街」と区分されていました。
そのために黒人が「白人街」に、白人が「黒人街」に来ると
即座に叩き出されるという争いが常に絶えません。
黒人の一部急進派は「白人街から白人を締め出して、コザ市全域を黒人街にしよう」
と呼号し、ゲート通りやセンター通りに集団で繰り出すようになりました。
1971年8月17日午前0時半、
黒人グループ約50人がセンター通りで「反人種差別」を掲げてデモ行進をして、
白人御用達のバーやクラブなどを襲撃しました。
これを見ていた地元の住民たちが激怒をして、約100人が
黒人グループたちのと睨み合いになります。
琉球警察コザ警察署(現・沖縄警察署)から署員たちが到着をすると、
黒人グループは一目散に逃げ出し、群集は追いかけますが結局見失ってしまいます。
ちょうどその時に黒人が運転する車が
タクシーとの接触事故を起こし、米軍憲兵が駆けつけていたことから、
今度は抗議の矛先が、この憲兵たちに向けられました。
憲兵がコザ署に逃げ込んだために、群衆はコザ署へ押しかけ、
「黒人の暴動を許すな」と叫びながら投石を繰り返し、署の窓ガラスを割りました。
第二次コザ暴動と呼ばれたこの事件は、その後に機動隊が駆けつけたことで、
約2時間あまりで沈静化をします。
米軍当局は、その後しばらく
「コンディション・グリーン」を発令して再発の防止に努めました。
※米軍当局による規制措置のことで、
対象地域内では米軍関係者(家族も含む)は、車での
通過以外の立入が禁止されました※
72年に実現した沖縄の本土への復帰も
多くの火種を残したままの主権の回復になってしまいます。
沖縄県民があれほど強く要望をしていた、
『軍事基地抜きの本土復帰』は果たされることなく
米軍の基地を満載したままの本土復帰は、その後も米軍兵による
悲惨な事件を引き起こします。
沖縄県民の願いは、一向に果たされることなく
あれから40年近くたった今でも基地問題はくすぶり続けています。
昨日の米大統領は、東南アジアにおいて
同盟国による一層の軍事協力を強調しました。
これがいまでも続く、沖縄の実態、そのものといえるでしょう。
・後記の部分は、2012・1/7に追加しました。
■本館の「新田さらだ館」は、こちらです
http://saradakann.xsrv.jp/
(34)第2章 レッドカードの街(3)
「コザ暴動について」
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(沖縄に有る米軍基地を包囲する、人間の鎖)
コザ暴動とは、1970年12月20日の未明に、
アメリカ軍施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄市)で発生した事件です。
市民たちによる自然発生的な暴動のことで、アメリカ軍の車両と施設に対する
焼き討ちに発展をしました。
そのきっかけとなったのは
コザで発生した米兵による交通事故です。
戦後25年にわたる占領支配のもとで、常に虐げられてきた沖縄では、
祖国への復帰運動をはじめ、人権をめぐるたたかいなどが大きな転換期を迎えました。
軍政ともいえる圧制のもと、長年にわたる人権侵害にたいし、
沖縄では全土にわたって強い不満が鬱積をしていました。
12月20日の午前1時すぎ、
コザの中心街にある胡屋十字路から南に、約200mほどの地点で
最初の交通事故が発生をします。
キャンプ桑江に在籍する米軍人が、酒気帯び運転で軍雇用の沖縄人をはね、
全治10日間の軽傷を負わせました。
現場には、5台のMPのジープと、1台の琉球警察のパトカーが到着をします。
負傷者の病院搬送と現場検証のさなか、隣接する中の町社交街から
市民たちが現場に集まり始めました。
MPによる事故処理にたいし「第二の糸満事件にするな!」
「犯人を逃がすな!」と騒然となります。
加害者がコザ警察署に移送されて、この騒ぎは一時的には鎮静化をします。
事故車両の移送が済んだ午後1時35分頃、ガールフレンドを連れた米兵が
現場を通りかかりました。
これを見た群衆が、この二人を挑発します。
MPが二人を乗せて移動しようとしましたが、群衆はジープを取り囲み
横転させようとして暴徒化をします。
他のMP隊員の応援でジープは現場から脱出をしますが、
群衆は続いて、このMPのジープも横転させようと襲いかかります。
この時点で群衆は、すでに数百人規模に膨れ上がっていました。
その人員の大半は、前日に一万人規模で開催をされた
「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」の参加者たちです。
※毒ガス漏えい事件は、
コザ市に隣接する美里村で致死性の毒ガスが米軍施設に秘密裏に備蓄され、
1969年7月8日に漏えい事故が発生し、軍関係者24人が
病院に搬送されたという出来事のことです。
またこの集会は、1970年9月18日に発生した糸満事件
(酒気帯びの米兵による沖縄人婦人のれき殺事故)で軍法会議が
被害者への賠償は認めたものの、加害者には、証拠不十分として無罪判決を
くだしたことへの抗議の意味合いも含んでいました。
半ば暴徒と化した群衆は、公然と車道にでて
黄色ナンバー(米軍人、軍属の車両)の走行を妨害し、道路を制圧してしまいます。
午前2居10分頃になって、反対車線で米兵が民間車両と衝突をして
第二の交通事故が発生をします。
暴徒がこれを取り囲み、投石とともに運転手に暴行をくわえます。
またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカ―を
横転させ車両には火を放ちました。
隊伍を組みなおしたMPは午前2時15分頃、
拳銃による威嚇発砲をおこない、暴行を受けていた運転手を救出します。
しかしこの発砲によって、一旦はひるんだ暴徒たちは、
かえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分ころから
沿道に駐車中の米軍車両や放置されたMPカ―を道路中央に押し出して、
これにも次々と放火をしました。
午前3時に、琉球警察が全警察官1200名の最大動員を発令します。
MPも完全武装の兵員配備を要請しますが、暴動発生現場の制圧は不可能として、
いったんは周辺に退きます。
最終的には警察官が500人、MP・沖縄人警備員が300人、
米軍武装兵約400人が動員されます。
道路にあふれた暴徒は、ふた手に分かれて進みます。
約200人が、現場から600mに位置する嘉手納基地第二ゲートから
火のついた車両を押した立てて基地内へ侵入をしました。
基地内では、ゲートに設けられているガ―ドボックスや米人学校が放火されてしまいます。
米軍は威嚇発砲や放水で対抗をして、それ以上の基地内への侵入を抑えました。
またもう一方で、約2000人が現場から
南西へ1キロほど離れた島袋三差路まで押し出して、武装兵たちと対峙をします。
車両への放火や投石が繰り返され、即席の火炎瓶なども使用されます。
午前5時すぎに、米軍はベトナムでも使用していた手投げ催涙ガス弾の
使用を許可して、暴徒の分断と鎮静化の着手をしました。
午前5時55分に琉球政府の副主席が現地に到着をします。
警察も宣伝カーを繰り出して群衆に帰宅を呼び掛け、午前7時30分までに
暴動は自然収束をします。
この結果、車両は75台以上が炎上し、双方合わせて100名近くが負傷をしましたが
暴動にはつきものの、民家や商店からの略奪行為などは一切発生をしていません。
暴動の矛先が、米軍人と軍属のみを標的にした行動だったことを
ここで見事に立証をしています。
またさらに特筆すべきこととして、
政治色や組織的な指導や指揮があったわけではなく、
あくまでも、自然発生的な市民たちによる自発的な行動であったという事実です。
米軍からの利益をうけている立場のAサインバーの従業員たちが(逮捕者も含めて)
積極的に暴動に参加をしていたという特徴もありました。
<後記>
事件はこれだけにとどまらず、
第2次のコザ事件が、わずかその半年後にさらに発生をします。
翌1971年8月17日に発生したこの暴動事件は、前回とは異なり白人・黒人間の
人種差別問題なども絡んだ、きわめて複雑な事件となりました。
泥沼化の様相を呈してきた、ベトナム戦争の後期、
アメリカ本国で盛り上がってきた反戦の機運と公民権を求める運動は、
沖縄に駐留する黒人兵たちの間にも波及をしてきました。
事件が起きた1971年には、キャンプ・シュワブや
普天間基地などの基地内で、いくつかの反人種差別暴動が起きています。
当時のコザ市の歓楽街は、人種ごとに二分をされていました。
ゲート通りやセンター通り(現中央パークアベニュー)が「白人街」、
照屋地区が「黒人街」と区分されていました。
そのために黒人が「白人街」に、白人が「黒人街」に来ると
即座に叩き出されるという争いが常に絶えません。
黒人の一部急進派は「白人街から白人を締め出して、コザ市全域を黒人街にしよう」
と呼号し、ゲート通りやセンター通りに集団で繰り出すようになりました。
1971年8月17日午前0時半、
黒人グループ約50人がセンター通りで「反人種差別」を掲げてデモ行進をして、
白人御用達のバーやクラブなどを襲撃しました。
これを見ていた地元の住民たちが激怒をして、約100人が
黒人グループたちのと睨み合いになります。
琉球警察コザ警察署(現・沖縄警察署)から署員たちが到着をすると、
黒人グループは一目散に逃げ出し、群集は追いかけますが結局見失ってしまいます。
ちょうどその時に黒人が運転する車が
タクシーとの接触事故を起こし、米軍憲兵が駆けつけていたことから、
今度は抗議の矛先が、この憲兵たちに向けられました。
憲兵がコザ署に逃げ込んだために、群衆はコザ署へ押しかけ、
「黒人の暴動を許すな」と叫びながら投石を繰り返し、署の窓ガラスを割りました。
第二次コザ暴動と呼ばれたこの事件は、その後に機動隊が駆けつけたことで、
約2時間あまりで沈静化をします。
米軍当局は、その後しばらく
「コンディション・グリーン」を発令して再発の防止に努めました。
※米軍当局による規制措置のことで、
対象地域内では米軍関係者(家族も含む)は、車での
通過以外の立入が禁止されました※
72年に実現した沖縄の本土への復帰も
多くの火種を残したままの主権の回復になってしまいます。
沖縄県民があれほど強く要望をしていた、
『軍事基地抜きの本土復帰』は果たされることなく
米軍の基地を満載したままの本土復帰は、その後も米軍兵による
悲惨な事件を引き起こします。
沖縄県民の願いは、一向に果たされることなく
あれから40年近くたった今でも基地問題はくすぶり続けています。
昨日の米大統領は、東南アジアにおいて
同盟国による一層の軍事協力を強調しました。
これがいまでも続く、沖縄の実態、そのものといえるでしょう。
・後記の部分は、2012・1/7に追加しました。
■本館の「新田さらだ館」は、こちらです
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