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アイラブ、桐生 第4部(42)
第1章 維新の道と高瀬川 (2)
アルバイト探しは簡単でした。
その日のうちに訪ねたホテルの面接は、即決で採用が決まりました
南座の近所です。
阪急四条駅のすぐ近くに建っているステーションホテル・西陣が
私のアルバイト先に決まりました。
こちらは、修学旅行生専門のホテルです。
資格は大学生が限定ということでしたが、
東京の美術大学をただいま休学中と詐称をして、とりあえず面接を受けました。
心配したほどの事はなく、ろくに疑いもせずにあっさりと、午後からでも
すぐに働いてくれと言われてしまいました。
修学旅行生たちの朝食と夕食の面倒を見る、ホール担当の仕事です。
仕事は早朝から午前9時頃まで働いて、その後の昼間は、すべてが自由時間です。
午後は、夕食の準備がはじまる午後4時過ぎからの勤務でした。
住み込み用の寮もあり、3度のまかないもついていました。
仕事用の白い上着と蝶ネクタイを支給されてから、宿舎へ案内をされました。
寮は本館のすぐ裏手に建てられています。
大きなまかないようの食堂と、何時でもはいれる浴場が備えられた三階建てです。
男子たちの部屋はすべて三階で、二階に住んでいる女子従業員たちとは、
使用するエレベーターさえも別扱いになっていました。
男子用のエレベターは、一切この二階には停まりません。
案内されたのは、二段ベッドが二つ押し込まれただけの、きわめて狭い部屋でした。
どう見ても寝るだけのスペースしかない、4人用の相部屋です。
部屋に居たのは2人だけで、どちらも京都産業大学の学生でした。
ギターを弾いていたほうは柳井と名乗り、もう一人は津久井と自己紹介をしてくれました。
今日から一応同僚となる二人です。
よろしくと挨拶すると、俺たちも、いつまで居るかわからないが、
まぁよろしくと会釈を返してくれました。
本館は、鉄筋の5階建てです。
ホテルの割には頑強すぎる外見のビルで、客室は全部で56室があります。
一部屋あたりの定員4人で、ほぼ200人余りの収容力をもっています。
ただし旅行シーズンともなると、連日のように『ご法度』の状態がはじまります。
各部屋へもう一人づつ、余計に詰め込んだり、2つある大広間にも布団を敷いて、
300人近い人数を宿泊させるように小細工をします。
消防法的には『違法』でも、安くあげたい修学旅行のためには
少々の犠牲とご法度はつきものだと、マネージャーは苦笑しながら
『良くあることだ』、と説明を付け加えてくれました。
しかし過剰定員の日になると、そもまま食堂は戦場に変わります。
もともと120人ほどしか入れない食堂は、普通では考えられないほどの勢いで
生徒たちに、朝と夕方の食事を提供しなければなりません。
それが、『早技の2回転』と呼ばれるテーブル・セッティングです。
最初の組に、約30分間ほどで食事を提供した後に、
10~15分ほどの準備時間で、第2陣のための食事をセットします。
季節が良くなり修学旅行がピーク期を迎えると、連日にわたってこれが繰り返されます。
驚いたことに京都へは、一年を通じて修学旅行生たちがやってきます。
観光シーズンを過ぎても、やはり生徒たちが日本の各地からひっきりなしにやってきます。
ピーク時の戦争騒ぎは収まったものの、毎日観光バスが
一体どこからかき集めてくるのかと思うほど、たくさんの生徒たちを運んできます。
まったく・・・・日本には、中学生と高校生が溢れているとしか思えません。
修学旅行とはいえ、夕食はそれなりに豪華です。
すき焼き、焼き肉会席、てんぷら定食セットという3種類が揃っています。
市内と近郊の観光のために充分な時間をとることと、他校とのトラブルを避ける意味で
多くの学校が、必ず同じホテルで連泊をします。
3日間の連泊でも重複をしないための、独自の献立の工夫です。
とはいえ、それでも一人前が6~7点ほどの品数になります。
配ぜんワゴンに山盛りにしてそれらを運び、決められた位置に皿を揃え、
さらにお代わり用のご飯やみそ汁なども、温かいうちに提供をしなければなりません。
ホールでの仕事は、上着を脱いで半袖に蝶ネクタイ姿でも、汗びっしょりの激務です。
男子校の場合などは、もう地獄の沙汰そのものです・・・・
いいえ、女子ばかりの高校でも、やはり似たようなものがあります。
むしろ喧しいという点では、断然こちらのほうが上でした。
そう言う意味では、共学校のほうが男女ともに、すこぶるお上品です。
まったく不思議な現象としかいいようがありません。
朝の献立も3種類で、和食、洋食、和洋食と続きます。
こちらの朝飯は、(早い出発時には)もう午前6時前から始まります。
そんな時には7時を過ぎると暇になり、ホールの後片づけが終わってしまうと
それだけで、午前中の仕事が終了してしまいます。
夕食の準備が始まる午後4時までが、まったくの自由の時間にかわります。
通常でも、午前9時頃には朝の仕事は終ります。
アルバイトたちも朝食をすませると、それぞれの大学へ向かいます。
ちょうど講義に行くこの時間帯が、ホールでの仕事の休憩時間にあたります。
なるほど京都ならではの旨いアルバイトだと感心をしましたが、
ほとんどの学生たちは、ほとんどのように、キャンパスへ顔を出していない、
という事実も、後になってから知らされました。
大学生たちは、大学にも行かず日中は、一体どこへ消えるのでしょうか・・・・
仕事にも慣れてきました。
10日目をすぎたころから、高瀬川と木屋町通りの界隈へ、
スケッチに出掛ける日々がはじまりました。
スケッチブックを抱えては、四条の橋を渡って木屋町通りに向かいます。
やがてそれは、日々の日課になりました。
今日はふと思いついて逆方向へ曲がり、
いつもとは別の道で、五条方面へ下ってみることにしてみました。
寮のまかないのおばさんから聞いた、竜馬のゆかりという鴨料理の
お店になんとなく、興味を抱いたからです。
四条と五条の間で加茂川をまたいでいる橋が、『団栗橋』です。
この橋のたもとにある鳥料理の「鳥弥三」というお店へ、鳥好きの坂本竜馬が
よく出向いたと伝えられています。
幕末の坂本竜馬といえば、幕府がたに命を狙われて、
常に緊張をした切迫した日々を送っていたようなイメージもありますが、
此処に居ると、実はそうでもないような気がしてきます。
幕府がたとしても、徳川政権に対して好ましくない政治活動をしているとはいえ、
破壊工作や要人暗殺を企てているわけでもない坂本竜馬を、簡単に
切り捨てることなどはできません。
竜馬も、それを承知でこの界隈で自由な日々を過ごしていたかもしれません。
激動の時代の中、その先頭に立っていた坂本竜馬が、
「鳥弥三」で好物の鶏を買い求め、それをぶら下げて高瀬川沿いをぶらぶらと歩く・・・
そんな姿と光景を思わず想像してしまいます。
竜馬と海援隊の京都事務所になっていた処が、この三条からほど近くにあります。
高瀬川にかかる大黒橋を西に渡ったところにある材木商・「酢屋」の二階です。
当時の竜馬は才谷梅太郎と名乗り、当主も竜馬と知りつつ
この場所にかくまっていたといわれています。
後年ここも危なくなり、土佐藩出入りの醤油商「近江屋」に身を移しますが、
慶応3年(1867)11月に、中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。
この時にも好物の軍鶏鍋を食いたいと、使いの者を「鳥弥三」にだした直後といわれています。
時に竜馬が33歳、慎太郎は28歳の若さです。
王政復古の大号令までは、あと20日。鳥羽伏見の戦いまではあと50日あまり。
明治と年号が変わるまで、こののちわずか、10カ月あまりに迫っていました。
もう日本の夜明けは、ついそこまで来ていたのです・・・・
また新撰組の名を一躍有名にした寺田屋跡も、この川べりのすぐ近くにありました。
そんな昔をしのばせてくれる石碑や道案内を見つけるたびに、またスケッチを
繰り返す・・・それがすっかり毎日の日課になりました。
北から南に下り、南から北へのぼり、
毎日飽きもせずに勤皇の志士達の足跡を見つけては座りこみ、
その場で、そんな景色ばかりを、ひたすらに書き続けました。
そんな日課が、2か月ほど続いたある日のことです。
突然、妙齢のご婦人から声をかけられてしまいました。
いつもの高瀬川のほとりでの出来事でした。
高瀬舟が置かれている舟入の脇で、いまにも夕立でもやって来そうな
とても蒸し暑い、そんな午後のことでした。
■本館の「新田さらだ館」は、こちらです
http://saradakann.xsrv.jp/