「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第62話 舞の仕上がり

「舞の仕上がりが一番大切どす。
舞妓としてお披露目する前に、ちゃんと舞が仕上がっていなければなりまへん。
いうてみれば舞妓としてのデビューは、舞の仕上がり次第です。
そやからそろそろ舞妓になる時期やいう子供へのお稽古は、
一段ときつうなるんどす」
サラが今日も、別の屋形のお母さんを捕まえた。
午前中の稽古を終え、祇園甲部の歌舞練場を出たサラは、必ず、
花見小路のお茶屋街を通って自分の屋形へ帰る。
花見小路通りを行くことは、回り道ではないが近道でもない。
此処を歩くサラの目的はただひとつ。
通りで見かけたお茶屋のお母さんに、遠くから声をかけることだ。
だが運悪く、通りにこの日の獲物が見当たらない。
そのまま足を伸ばして、通りを上り、四条の通りに出た時のことだ。
八坂神社の方向から、足早に戻って来るひとりの女将さんを見つけ出した。
(おっ、あたらしい獲物や・・・)
早速飛び出したサラが、路上でお母さんを捕まえる。
「舞のお稽古の話どすかぁ。長くなりますなぁ。
まぁ、ええやろ。ウチも青い目のおちょぼさんには興味があります。
そのへんのカフェで、お茶でもしますかいな?」
快く応じてくれた女将が、目ですぐ近くにある喫茶店を指し示す。
「目標に近づけば近づくほど、お稽古は厳しくなるわけどすか・・・
それが仕事ですさかい。厳しくなるのは、当たり前になるんどすなぁ」
「そうや。けどサラちゃんが本当に怖い目に遭うのは、これからや。
井上流には『おとめ』というのがあるのどす。
おさらいをさぼったり、あまりにも呑み込みが悪いと、お師匠さんが怒らはります。
家に帰してもらえんと、お稽古場に足止めされるんどす。
『分かるまで、そこにいなはれ』と、怒られたら最後、
外が暗ろうなっても、家には帰してもらえまへん。
お師匠さんの家では夕食がはじまり、ええ匂いがお稽古場まで漂ってきます。
こちらは泣いて泣いて大泣きして、疲れ果てて、おまけにお腹もペコペコどす。
すきっ腹に夕食の匂いが入ってきますし、もう、なんともたまりまへん。
ずっと家に帰れんのやないかと思うたら、情けのうなって、
また泣けてくるんどす。
そうこうしているうち、家からの迎えの者が来て、ようやく帰されるんどす。
ほて、次の日はお祖母さんやらお母さんやらが一緒に謝りに来てもろうて、
ようやくまた、再出発するんどす。
子ども心にも地獄でしたぇ、舞の『おとめ』は。
もう2度といややと思うても、また同じことをして、あたしは3度ほど
『おとめ』を食らいました」
サラは目を大きく見開いて、人の話を、食い入るように真剣に聴く。
砂漠に、水がしみこんでいくようだ。
こぼさず知識を吸収していく姿勢に、多くの人が好感を持つ。
催促されたかのように、屋形の女将の舌がさらに饒舌になっていく。
「あたしはお祖母さんが屋形をしていることもあって、
実家から舞妓になる支度ができたんどす。
そやさかい、よその屋形さんで奉公せず自前で支度をし、屋形「草月」の
内娘としてデビューしました。
そうでない場合は、芸妓や舞妓を抱えている屋形と8年とか5年とかの
年季契約を結びます。
仕込み、またはおちょぼと呼ばれる見習いの時期を過ごさないけません。
舞妓になるまでに、えらいお金がかかるんどす。
女紅場のお稽古代、支度、ご祝儀・・・なんぼかかりますことやら。
それをみんな、屋形のお母さんに出してもらいます。
そのかわり、舞妓になった後は、給料なしで屋形のために働くんどすなぁ。
いわゆる年季奉公です。
舞妓になるための住み込みの仕込み期間は、昔は2年から3年。
舞妓になりたい子は、8歳から9歳で祇園に来ました。
いまは法律が整備されたため、中学を卒業してからの1年間どす。
そのあいだに、屋形のお母さんやお姉さんから、舞妓としての立ち振る舞いや
挨拶の仕方などを、日ごろの生活の中で鍛えてもらうんどす」
「古いお母さんたちがウチのことをさして、おちょぼと呼んではります。
なんのことかと不思議でしたが、ようやく意味が分かりました。
へぇぇ。呼び方にも、歴史が有んのどすなぁ」
「そうや。昔はおちょぼと呼びましたが、いまは「仕込みさん」どす。
仕込みさんの仕事は、奥の女中さんのお手伝いです。
昔は何処の屋形にも、女中さんがおりました。
炊事、掃除、洗濯は女中さんがする仕事どす。
仕込みさんは玄関周りの掃き掃除やら、ちょこっとしたお使い、
お姉さんの身の周りのお世話などが、主な仕事どす。
ゆくゆくは舞妓として、綺麗にして出さはるのですから、
汚れが染み付くような下働きはやらせまへん。
ただ、朝は忙しいおす。
朝ごはんの手伝いをして、寝ぼけのお姉さんが稽古に行くのを起こします。
自分もさ~と朝ごはんを流し込み、女紅場へ行かなあきまへん。
女紅場のお師匠さんたちは、寝ぼけを異様なまでに嫌います。
お稽古の順番が一番最後になると、よう見てもらえへんからどす。
そやからみんなビリにならんように、あせってお稽古場へ飛んで行くんどす。
けどなぁ。午後になると、もうひとつの大切な仕事が、
「仕込みさん」には、有るんどす」
「えっ・・・・もうひとつの、大切な仕事?」
サラがブルーの瞳をさらに大きくして、女将の顔を覗き込む。
第63話につづく
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