「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第67話 IT企業の風雲児
IT企業の風雲児と呼ばれ、「秒速で1億円を稼ぐ男」と呼ばれた人物が
知人のつてで、ある老舗お茶屋に上がったことが有る。
本来ならこんな成り上がり男が、のこのこと上がれるようなお茶屋ではない。
京都の花街は、「一見(いちげん)さんお断り」で有名だ。
初めての客は簡単に受け入れませんという、昔からのしきたりが有る。
だが祇園において、いまだに一見さんが入れない店は、お茶屋と一部の料理屋ぐらいだ。
祇園にひしめいている沢山のお店の数からみれば、数%にも満たない。
しかしその数%の中に、祇園という世界が存在している。
どうしてこんなシステムがまかり通っているのか、不思議に思っている人も多い。
酒を呑む場は、雰囲気が一番大切になる。
酒場へ通う常連客は、そこの雰囲気が気に入ってその場にとどまる。
雰囲気の異なるお客が入ってくると、其処はもう、酒場としてはだいなしになる。
馴染みのお客さんによっては、足が遠のいてしまう場合も生まれる。
得体の知れない一見さんを断り、馴染みのお客に店の雰囲気を保証するシステムが、
祇園の「一見さんお断り」という習慣だ。
裏で、よほど大金が動いただろうと、当時の人たちは憶測した。
金で買収されたのは、お茶屋ではない。
心を動かしたのは、長年、お茶屋に通っていた常連客たちだ。
「重要な客だから」と女将に念を押したうえで、舞妓としてデビューしたばかりの
佳つ乃(かつの)に、白羽の矢を立てた。
呼ばれたのは、佳つ乃(かつの)だけではない。
法外な花代(華やかな花に見立てて花代と呼ぶ。玉代とも言う)を払い、
綺麗どころと人気芸妓を、10人近くお座敷にかき集めた。
6時頃からはじまった宴席が、えんえんと深夜の1時過ぎまで続いた。
酔いに任せたIT企業社長の乱行が、深夜の零時頃からはじまった。
懐から札束を、ドンと取り出した。
「面白いものを見せた奴には全部やる」と見せびらかす。
「ならばウチが見せてあげましょう」と、最初に佳つ乃(かつの)が立ち上がった。
一同が見守っている中、グラスに溢れるまでなみなみと日本酒を注ぐ。
佳つ乃(かつの)が、満杯になったグラスを頭上高く持ち上げる。
「どこのどなた様かは存じませぬが、祇園で札束を見せびらかせて、
芸妓に面白いことをやれとは、しきたりをしらぬ愚の骨頂。
あなたが本物のIT企業の風雲児と言うなら、私がそそぐお酒の滝を、
ものの見事に登って来てください。
お姉さんがた。賑やかに鳴り物などをお願いします」
そう宣言した瞬間、佳つ乃(かつの)が、大量のグラスの酒を
社長の頭上から、あっという間に浴びせかけてしまう。
老舗お茶屋のお座敷が一瞬にして、大混乱に陥ったことは言うまでもない。
真夜中だというのに福屋の女将が、電話で「とにかく一大事だ」と呼び出された。
当の佳つ乃(かつの)は、「もう夜も遅い故、ウチは、お先に失礼をいたします」と
涼しい顔をみせて、お座敷を後にしてしまう。
女将は、米つきバッタのように畳に頭をこすりつけ、居合わせた面々に
何度も何度も、平謝りに謝り続けた。
だが佳つ乃(かつの)に「数日休め」と音沙汰が有ったきり、
それ以降は、なんの処分もやって来ない。
女将にも、厳重注意と書かれた文面が検番から届いたきりで、
その後の話はうやむやになった。
負けを自ら認めたIT企業の社長が、いさぎよく京都を後にしたからだ。
この日以来。デビューしたばかりの舞妓・佳つ乃(かつの)に、
「じゃじゃ馬佳つ乃(かつの)」の異名がつく。
「そういえば、そんな昔もありましたねぇ」と、佳つ乃(かつの)が
ふたたび頬を赤くする。
「ひとたびお座敷に上がれば、何が起こるか見当がつきまへん。
聖人君子がお酒を呑んで、芸の優等生が舞を披露するだけでは祇園のお座敷は、
盛り上がりまへんからなぁ。
少しばかり破天荒な子がいて、酔狂なお客さんがいてこそ場も盛り上がります。
けどなぁ。あんたの場合は例外や。
何度真夜中に呼び出され、ペコペコ頭を下げたことやら数えきれまへん。
それから見たら、おちょぼのサラなんか可愛いもんや。
あんたを台風に例えれば、サラは街角に吹くつむじ風のようなもんどす。
うっふっふ。でも懐かしいどすなぁ、あのころが・・・」
女将が懐かしそうに目を細めて、遠い昔のことを思い出している。
第68話につづく
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