落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第72話 大正から昭和初期

2014-12-27 12:56:20 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第72話 大正から昭和初期




 昭和の初期。祇園新地とよばれていた祇園に、お茶屋の数は370軒余。
芸妓は、900人以上いたと言われている。
舞妓の数も、おそらく、100人を越えていただろう。


 時代をさかのぼって、明治40年のこと。
作家の吉井勇が22歳の時、与謝野寛、北原白秋らと九州旅行へ行った帰りに、
京都に立ち寄り、祇園へ足を運んでいる。
これがきっかけになり、以後吉井は、どっぷりと祇園の世界にはまり込む。


 吉井が初めて上がったのは、”むさしの”というお茶屋だ。
呼ばれて同席した舞妓の、あまりもの美しさに思わず我を忘れたと言う。
胸を大いにときめかしたという、エピソードが伝わっている。



 「最近、舞妓さんと芸妓さんの数がすくのうなりました。
 いまは舞妓さんが30人くらい。芸妓さんは90人くらいやと思います。
 少ないさかい、いまの舞妓さんはみんな売れっ子どす。
 お座敷がかからんいうことは、まずないのとちがいますか。
 あたしらが舞妓になった時分は、舞妓だけでも、100人近くおりました。
 舞妓と芸妓をあわせて800人ぐらいが、祇園におりました。
 大正12年に関東大震災が起こり、映画の中心が京都にうつって来たんどす。
 そのため祇園は、えらい景気がよかったんどすなぁ。
 そやけど、あたしらひょっこは、まったく売れへんかったぇ。
 あたしの前の年にで出はったんが、春勇姉さん。
 同じ年に出たのが、初子さん、ひろ子さん。
 別嬪さんやら、明るく楽しいひとが、たっぷりと揃うてはりました。
 お呼びがかかるのは、別嬪さんからどした。
 あたしは小さいし、おとなしゅうて地味やったさかい、
 あんまりお声がかからへんかったのどす。
 たいてい、お茶屋の女将さんがお客さんの注文に合わせて、舞妓さん何人、
 芸妓さん何人と、屋形に頼みはります。
 そのとき、誰に声をかけるかは、女将さんの胸3寸どすなぁ。
 『今度、○○さんから出た妓、えらい可愛らしいんやて。呼んでみよかいな』
 てなぐあいに人選が決まります。
 あとは、店出しの時に引いてくれはったお姉さんが、面倒見のええお方で、
 しかも売れて売れて、お花(お座敷)のようつく人の場合は、
 『今度ウチの妹が出ましたんえ。呼んでやっておくれやす』と
 客はんに頼んでくれはるんどす。
 ま。そないなお姉さんが居やはらへん場合は、自分できばらなあかんのや。
 まず、舞のお稽古に精出して、励むことどす。
 舞妓の場合。別嬪さんの次は、『今度の妓、よう舞うで。いっぺん呼んでみよか』
 と、舞の上手な妓が呼ばれるのどす」



 「芸は身を助けるの、見本どすなぁ」とサラが、またまた相槌を入れる。
「よう知っとんなぁその若さで。誰ぞにおそわったんかいな。そないな格言を?」
屋形の女将の問いかけに、「母に教わりました」とサラがおおきく胸を張る。



 「いいとも財団の末娘のことかいな。あの子も器量良しの子やったなぁ。
 英語の留学なんぞに行かなければ、今頃は祇園の売れっ子芸妓に育っていたはずや。
 勿体ないことをしましたなぁ、あの子は。ほんまに」

 「え・・・母がむかし、祇園で舞妓を目指していたんどすか!」


 「なんや。知らんのか、あんたは。
 あんたのお母はんという人は、子どもの頃から舞の素質が有ってなぁ。
 ひさびさの逸材やと、みんなが将来を期待しとったんや。
 けどなぁ。幸か不幸か人並みはずれて、英語が得意やった。
 少し勉強してくると香港へ留学させたのが、つまずきのはじまりや。
 あ。いけん、あんたを前にして言うべき話や、ないなぁ」



 「わたしが舞妓になりたいと言い出した時。
 なんも言わずに背中を押してくれたのには、そういう事情があるんやな。
 そうかぁ。ウチは舞妓になり損ねたお母さんの、代打なんどすなぁ」


 「そうや。あんたは18年ぶりに祇園に戻って来た、大型新人の代打や。
 責任はずしっと重いでえ。そのくらいの覚悟は、とうに出来てんやろうなぁ」


 「はい。母の分まで、ウチが頑張ります!」


 
 屋形の女将が、鋭い視線でサラを見つめる。
見つめられたサラも、一歩も後に退かない。
『まかせといてな」とこぶしを小さく握りしめて、
『母の分まできばります~』と、ガッツポーズをとってみせる。


第73話につづく

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