落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(63) 第三幕・第一章「慢性リンパ性白血病」 

2012-10-26 10:59:04 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(63)
第三幕・第一章「慢性リンパ性白血病」

 
 
 体調不良がきっかけで精密検査を受けた座長が、その血液検査の結果から
下された病名は「慢性リンパ性白血病」です。
白血病は大きく、急性型と慢性型、白血球の種類から
骨髄性とリンパ性に分類をされています。
「急性骨髄性白血病」、「急性リンパ性白血病」、「慢性骨髄性白血病」、
「慢性リンパ性白血病」の4つに大別をされます。



 このうち慢性リンパ性白血病は、
通常非常にゆっくりとした経過をとることで知られています。
発症は緩(ゆる)やかで非常にゆっくりした経過をとるために、初期の段階では
ほとんど自覚症状がありません。

 そのために、診断される患者さんの少なくとも25%程度が、
定期健康診断や他の病気の検査などで、白血球の増加をきっかけに
偶然に発見をされています。
自覚症状がない状態で発見されてから、症状が出現するまでは
平均で、約4年はかかるといわれています。
一部に進行が早く生存期間が1年未満という場合もありますが、
10年から20年と長い経過をとることが多く、個人によっても経過は異なります。




 「それでも油断はできません。
 急激に症状が変化することもあるようです。
 完治する病気ではなく長期にわたる治療が必要で、それも一般的には
 延命治療が中心になるようです」



 「座長の場合はどうなるのですか。
 いつから治療が必要になのか、
 普通に生活を続けるためには、どんな対応をするのか、
 いろいろと注意事項なども・・・・」




 うろたえる順平の手を、レイコが静かに押さえました。




 「落ち着いて、順平。
 白血病であることが判明したけど、それはまだまだ先のはなしなの。
 骨髄性の白血病と違って、慢性リンパは
 病気の進行には、大きな個人差のでる「ガン」なのよ。
 ・・・・やだ、順平ったら、
 1985年に亡くなった夏目雅子の病気と勘違いをしているわ。
 向こうは、急性骨髄性白血病による感染死で、
 座長は、慢性リンパの診断なのよ。
 これから白血病と闘うという点では同じでも、生存率は格段に違うのよ。
 たしかに不治の病と言われているけれど、
 すべてが白血病で死んでしまうと決まったわけじゃないの。
 まだまだ希望はあるんだから」



 時絵ママの顔を見上げて、レイコが静かに笑いました。




 「順平は、夏目雅子の大ファンなの。
 絶世の美女といわれた女優さんなのに、西遊記の三蔵法師役を演じた時、
 その役作りのために、実際に剃髪をしたという逸話もあるの。
 この人ったら、すっかりそれにはまってしまって、
 映画館に毎日通っていたわ。
 ああいう感じの、清楚で美しい女性が大好きなのよ・・・
 だからそのせいで、白血病と聞いただけでも異常に反応するの。
 ねぇ、順平」



 「あらまあ、順平君の好みは夏目雅子ですか。
 そういえば、レイコちゃんにも、どことなくそんな雰囲気もありますねぇ。
 それはともかく、それでも予断はできません。
 それでね、もうひとつ座長の決意があるの。
 先のことは解らないにしても、今できることは精一杯やろうということで
 実家に戻って、農業をやるためも決めたそうです。
 どこまで働けるのかは解りませんが、
 本人なりに、農家の長男としての『けじめ』も、
 考えたのだと思います」



 「そうなると・・・・
 ちずるさんを説得することが
 さらに難しくなってしまう、ということですね」



 レイコが、あらためて時絵ママの目を覗き込みます。
その意味をしっかりと受け止めた時絵ママが、レイコの肩に手を置きました。




 「男なんか、頼りにならないわね。
 いざとなるとうろたえているばかりで話にもならない。
 ねぇ、レイコちゃん。
 大変なことは承知の上で、
 ちずるの説得役をお願いできるかしら。
 それも一週間以内と言う期限付きだけど、どう出来る? 」



 「よろこんで引き受けます。
 でも、本当に時絵さんは、それでいいのですか。
 座長にプロポーズをされている立場だと言うのに、
 それでは、逆の行動になりますよ。
 ちずるさんに、あえて一歩ひいているような気もしますけど」



 「するどいわね、レイコちゃんも。
 好きか嫌いかと聞かれれば、今でも男性としての座長は大好きです。
 でもね、もうあれから10年以上も経ったのよ。
 私は座長を選ぶよりも、5歳になる我が子の方を選びます。
 女であるけれども、同時に私は5歳になる男の子の母親だもの。
 どう、これで納得してくれた?
 今の私は、30すぎの座長の面倒を見るよりも
 5歳児を育てる方が性に合っているの。
 こっちのほうが、よっぽど可愛いし、素直に言う事も聞くもの。
 レイコちゃんも早く子供を作って育ててみればわかるわよ。
 順平くんよりも、よっぽど可愛くなるから・・・・
 あら、保母さんに余計な説教だわね、
 あたしったら」



 「そうだわよねぇ。
 私もさっき、雄二さんのところで、女の赤ちゃんを抱っこしたら
 急に子供が欲しくなっちゃった・・・・
 でもさぁ、その子供が出来なくて、たしかちづるさんは身をひいたのよね。
 座長は実家に戻ると言うし、難問ずくしの前途だわ。
 それでも正面から突破するしか道はないみたいですね。
 日立市でしたっけ、ちづるさんは・・・・」







 ■参考資料


 慢性リンパ性白血病は最終的には完治が困難な疾患とされています。
また、治療をしなくても、日常生活に特に支障が出ないまま
一生を過ごすというケースもあります。
治療は主に症状の改善と、生存期間の延長を目的に行われているようです。


 いつから治療を開始するかについては、
米国国立がん研究所のグループのガイドラインなどがあります。
これらの項目のいずれかが認められれば、治療を開始するべきであるといわれています。




 <慢性リンパ性白血病の治療開始のガイドライン>


(1)疾患に関連した症状のうち以下の少なくとも1つが認められること

 (a) 過去6ヶ月間で10%以上の体重減少
 (b) 重篤な倦怠感(仕事不可能、通常の日常生活に支障)
 (c) 2週間以上続く38度以上の発熱
 (d) 感染症を伴わない寝汗



(2)骨髄抑制の進行:貧血、血小板減少の出現、進行

(3)ステロイドホルモン治療に抵抗性の自己免疫性溶血性貧血・血小板減少

(4)左季肋下6cm以上の脾腫あるいは進行性の脾腫

(5)直径10cm以上のリンパ節腫脹あるいは進行性のリンパ節腫脹

(6)2ヶ月で50%以上のリンパ球増加あるいは6ヶ月以内の2倍以上のリンパ球

(7)著しいガンマグロブリン値の低下あるいは蛋白の出現 

 

  しかし最近の研究結果では、
 以下の検査結果が得られた場合は生存期間が短くなると
 報告されているため、特にガイドラインの条件を満たさなくても、
 速やかに治療を開始することが考慮されています。





・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
 

「舞台裏の仲間たち」(62) 第三幕・第一章「時絵ママの、いい話と悪い話」 

2012-10-25 09:59:56 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(62)
第三幕・第一章「時絵ママの、いい話と悪い話」



 

 「とりあえず、雄二さんが元気そうでよかった。
 それでねぇ、時絵さんに連絡をいれたら、
 別の話もあるので帰りに、お店に寄ってくださいって言われたわ」


 「病室で、雄二君とどんな話をしたのか聞かないの?」



 「もう顔に書いてあるもの、大方の察しはつくわ。
 それよりもさぁ・・・・
 赤ちゃん可愛かったわね~ 
 欲しくなっちゃったな・・・・ねぇ順平」



 「おいおい、勘弁しろよ。
 それよりも時絵ママの話ってなんだろう 」



 「いい話がひとつあるけど、でも・・・内容は複雑だそうです。
 もうひとつ、悪い話もあるそうですが、
 とても大事な話ですので、そちらも是非に聞いてほしいそうです。
 雄二さんの容態については大まかに報告をしましたので
 そちらは安心しているようです」



 まもなく午前0時になろうとしている平日の繁華街は閑散としていました。
時絵ママの店でもすでに看板は消されていて、入口の小さな明かりだけが
ぼんやりとひとつ点いているだけでした。
ドアを開けると、カウンターの向こうで時絵さんが頬杖をついています。



 「ご苦労さま。
 先ほど、雄二君の奥様から電話がありました。
 突然のことでびっくりしたようですが、大事にいたらなくてよかったわ。
 就職の話も、よろこんでいたみたい、
 まずは、お疲れさまでした。
 遅い時間なのに、呼び出したりしてごめんなさい。
 こちらもさっきまで取り込み中だったの・・・・
 といっても、野暮な話ですけどねぇ。
 あっ、座って頂戴、
 今、一本つけるから。
 レイコちゃんも呑めたわね」



 奥の厨房からは、時絵ママの何気ない鼻歌が聞こえてきます。
徳利を手にして戻ってきた時絵ママは、やはり上機嫌な様子でした。
注いでもらった緒子を反対の手に持ち替えたレイコが、徳利を受け取ると
時絵にも一杯目を勧めました。



 「時絵さん、ずいぶんと良い事があったんでしょう。
 とりあえず乾杯をしてから、その良いことから話してくださる?」



 レイコの徳利を受けながら、時絵ママがまた思い出したように頬を染めます。
色白の時絵ママは、上気すると耳たぶまでほんおりと桜色にかわります。
そんなママの様子を見ながら、思わずレイコも目を細めます。




 「そうね、長い話になるけれど、まずは良い話のほうからはじめましょうか。
 実は十年ぶりに口説かれまして、私は今、しみじみと「女」を実感しているところなの。
 柄にもなく、ときめいてしまいました」



 「水商売なら、口説かれるのは日常茶飯事だと思いますが、
 ときめいたとなると、ただ事ではありませんね、
 もしかして、時絵ママを口説いたお相手と言うのは、座長のことですか?」



 「あら、正解だわ。
 台湾でずいぶんと女性を理解してきたみたいですね、順平君。
 たしかに先ほどまで座長さんがここに居て、プロポーズをされてしまいました。
 それはそれとして、私も嬉しく受け止めました。
 30歳を過ぎたとはいえ、私もまだ女としてまんざらではないと
 つい先ほどまで、自己満足に浸っておりました。
 ほんの一瞬だけですけどね・・・・」



 「微妙な表現ですね。
 裏が色々とあるという意味ですか?」




 「その通りなの。
 ついては、お二人にどうしても手伝ってほしい事があるので、
 こうして呼び出してしまいました。
 その話を全部聞いてから、後から気が変わったというのでは私も座長も困るので、
 なにも聞かないうちに、協力をすると約束をしてくださる?
 無理は承知のうえでのお願いですが・・・・」


 
 レイコがすかさず手を上げました。



 「私は、全面的に時絵さんに協力をします。
 時絵さんの大ファンだし、どんな事情があるにせよ協力を惜しみません。
 でも、ほんの一瞬だけだったと言うときめきの意味が、気にかかります。
 誰かのためにひと肌を脱いでほしいという意味ならば、
 もっと喜んで、私は協力をします」



 「ありがとうレイコちゃん。
 で、どう出るのかしら順平君は、武士に二言があるかしら?」



 すこしだけ意地悪そうな時絵ママの視線が、チラリと順平を見つめます。
レイコはとぼけて頬杖をついたまま、順平と時絵ママを交互に見て
二人のやりとりを楽しんでいます。


 
 「解りました。
 全部の話を伺いますので、すべて話をしてください。
 全面的に協力をしろという意味と、他言無用という2つの意味があるわけですね。
 それもすべて承知をしましたので、安心してください。
 では、本当の良い話と悪い話をそれぞれにお聞きしたいと思います」



 時絵ママがにこりと笑って、順平の緒子へなみなみと日本酒を注ぎました。
レイコが手招きをすると、カウンターを一回りした時絵ママが
レイコが空けた席に腰をおろしました。


 
 「レイコちゃんと順平くんには、私の本心から先に話しましょうね。
 確かに座長からプロポーズをされて、女としては一瞬だけはときめきましたが
 私には、座長と結婚する意志はありません。
 ただしその場では応えずに、一週間だけ考える時間をくださいと
 お答えをしておきました。
 レイコちゃんだけは知っていますが、
 私には5歳になる男の子がいます。
 この子が私の生きがいで、今の私はこの子のためにだけ
 生きていると言っても過言ではありません。
 別に皆さんにまで秘密にする必要はありませんでしたが、
 たまたま水商売ですので、レイコちゃんには口止めをお願いしていました。
 なでしこ保育園にお願いしていますので、
 もしかしたら、順平君は、それとは知らずに行き会っているかもしれません」



 「では、その良い話の結論というのは・・・・もしかして」



 「そう。
 その、もしかしたらの相手は、ちずるです。
 座長と復縁をするのは私ではなく、そのちずるです。
 しかし悪い事に、座長には残された時間があまりないようです。
 実は、ここから先がもうひとつの悪い話です。
 つい先日の精密検査で、座長には不治の病が見つかりました。
 たまたま体調を崩した時に、念のためにと血液検査までおこなった結果、
 その病気が見つかったそうです・・・・」


 
 レイコと順平の視線が凍りついたまま、時絵ママの口元に引き寄せられました。





 

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
 

「舞台裏の仲間たち」(61) 第三幕・第一章「雄二の自殺未遂」

2012-10-24 11:16:33 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(61)
第三幕・第一章「雄二の自殺未遂」




 「お願い順平、
 そんなに怖い顔をしないで頂戴。
 話をする前から、雄二さんを責めたりしないでくださいね。
 あなただって今回のいいさつの裏側は、全部知っているはずだもの、
 雄二さんだって、本当に死ぬつもりはなかったはずよ、
 そうでなければ、睡眠薬を多量に飲むなんてしないわよ。
 本気なら、別の方法で自殺をするわ」



 台湾撤退の会議から一週間もたたないうちに、
亀田金型の雄二が、睡眠薬の多量服用による自殺を企ててしまいました。
その一報を受けて、病院へと急ぐ順平の車内です。
レイコは助手席から順平をなだめ続けていました。



 「誰だって、おかしくなるわょ
 この2カ月余り、仕事に追いまくられた揚句に、
 社長が消えてしまい、工場の閉鎖まで決まってしまえば、精神的にも落ち込むわ。
 精神的に弱い男を、順平が大っ嫌いなことはよく知っているけれど
 それとこれとは問題が違うでしょ。
 あんたみたいに、なんでもかんでも誰もが精神的にタフじゃないの。
 つっかい棒が外れてしまえば、みんな弱くなるの。
 あんたが今やるべきことは、雄二君を責めることではなく
 外れたつっかい棒を、元に戻すことでしょう」



 はい、と、一口ふかした煙草を、苦虫をかみつぶしたような
順平の口元にレイコが無理やり突っ込みます。
まだ不満そうな順平を横目に見て「そこで停めて」とレイコが命令を出します。
そこはもう、雄二が収容された救急病院が川の向こう側に見える
堤防上の、人気のない道路上でした。



 助手席から降りたレイコが運転席側に回り静かにドアを開けました。



 「ほらぁ、頭をひやさなくちゃ。
 見てよ、
 もう間もなく深夜だと言うのに、
 まだ起きていて明かりのついている家もある。
 寝静まっている家もたくさんいるけれど、
 みんなひとつひとつに、それぞれの生活が有って、行き方が有る。
 たくさんの人たちが、いいろいろなことを抱え込みながら毎日を生きているの。
 でもね、真剣に生きているからこそ、病気になる事もあるし
 時には心が傷ついて、まともに考えられなくなることもあるの。
 あんたは心底タフだからいいけど、
 私みたいに、ほんのささやかなことでも傷ついてしまう人間も居るのよ。
 え? そんなことは無いだろうって、
 ・・・・うふふ、ほら、やっと笑った。
 その笑顔が大切なの、順平。
 お願いだから、その笑顔を雄二さんにも見せてあげて。
 あんたも雄二君と一緒に、金型を通じて、台湾での悪夢を見た仲間でしょ。
 戦友じゃないの。
 いじめてどうするの・・・・
 んん、どうした、そんなに私の顔を見つめて」



 「・・・・いい女だな、お前って」



 「ば~か、遅いわよ。
 でもさ、雄二さんには優しくしてあげて。
 心からの優しさが、なによりの力になる時もあるんだから。
 もう、社長はいないし、
 従業員はみんないなくなっちゃったんだもの
 金型仲間といえば、もうあんたしか残って居ないじゃないの。
 あんたにしか、できないこともきっと有るでしょう」



 「そうだな・・・・その通りだ。
 つい、頭に血がのぼっちまったようだ。冷静さを欠いていた」



 
 集中治療室での胃洗浄を終え、
個人病室に移された雄二くんは、天井を見上げながらぼんやりとしていました。 
レイコがドアを開けた瞬間に赤ん坊を抱いた奥さんが、気配を感じて立ち上がります。
足音を忍ばせて入室したレイコは手を差し伸べて、奥さんの腕から赤ちゃんを受け取ります。
二人は至近距離に顔をよせて、小さな声で挨拶を交わします。


「余り、長い時間にならないようにね」やわらかく赤ちゃんを抱いたまま、
すれ違いに病室を出る瞬間に、レイコが順平に耳打ちをしました。
胸元に抱いた赤ん坊の顔をチラリと順平に見せながら
「もうすこしで一歳になる女の子ですって、可愛いわねぇ~」と出て行きます。
レイコの後を追うように、丁寧に頭を下げた奥さんも、そうっと廊下へ出て行きました。



 「ご迷惑をおかけして、すみません」



 奥さんが掛けていた椅子を目ですすめながら、
雄二が先に口を開きます。




 「どうかしていました・・・・
 工場も閉鎖になるっていう話を聴いてから、
 やりきれずにビールを呑んでいるうちに、いつのまにか睡眠薬も
 気がついたら、多量に服用していました。
 なんでそんな風になったのか、前後の記憶もあいまいなのですが・・・・
 魔がさしたとしか思えません」



 「元気そうなので、実は、ほっとしたよ。
 来る間にもレイコに、説教をされちまってね。
 正直、どんな顔をして病室に入ろうかとずっと病んでいたんだ。
 可愛い赤ちゃんや嫁さんも居るというのに、
 あまり無謀をするなよ、びっくりした」



 「今、振り返ると地獄のような2か月でした。
 なんとか切り抜けようと毎晩遅くまで、必死に頑張ったのに
 社長が居なくなり、工場も駄目になってしまったあの瞬間に
 張りつめていたものがいっぺんに崩れてしまいました・・・・
 順平さんには、毎晩手伝ってもらって支えてもらったというのに、
 思いもかけずに、こんな事態を引き起こしてしまいました。
 どうにも面目がありません。」




 肩を落とす雄二に、順平がほほ笑みます。



 「とりあえず退院をしたら、何も言わずに私の会社を訪ねてくれ。
 今の俺に出来ることと言えば、
 君の再就職を支援することくらいだ。
 うちでも優秀なMC(マシニング)機のオペレーターを募集中だ。
 君なら申し分が無いだろうし、なんとかしたい。
 早く退院して一緒に働らこう、
 待ってるよ。」



 「・・・・順平さん」



 「可愛い女の子だね。
 奥さんのためにも、もう一度頑張る必要が有る。
 あとでゆっくりと話そう。
 とりあえずは、ゆっくり休んで休養をして、
 元気を取り戻すのが先決だ」



 雄二の肩をひとつ叩いてから、順平も病室を出ます。
廊下ではレイコが、目を覚ましてしまった赤ん坊を嬉しそうにあやしていました。
部屋から出てきた順平を見て、奥さんが何か言おうとするのをレイコが目で止めます。
赤ちゃんを手渡しながら、レイコが奥さんの耳元でなにかを囁きました。
うなずく奥さんにもう一度会釈をしながら、レイコが順平の背中を押しました。




 

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/

「舞台裏の仲間たち」(60) 第三幕・第一章「撤退宣言」

2012-10-23 06:36:40 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(60)
第三幕・第一章「撤退宣言」




 プラスチック製品の原型となる金型は、その用途に応じて
重量が5~60㎏の小さなものから、1000㎏を越える大きなものまで実に様々です。
台湾進出を果たした部品会社と亀田金型が共同で開発を進めていたのは、
総重量が2000㎏を越える大型タイプのものでした。



 その第一便が日本に到着をしたのは、順平が帰国をしてから
2週間が経過してからです。
第一回目の試作品の提出まで、残された時間は10日あまりでした。
未完成の金型に最終処理を施して、良品を生産するための仕上げの仕事が急がれました。
不具合部分などをすべて修正をして、サンプルの造りださなければなりません。
亀田金型では、3人の従業員が手分けをして、徹夜で金型の修正作業をはじめました。



 こうして生み出されたプラスチックの試作品は、
部品メ―カ―に持ち込まれ細部にわたって、設計図面との照合が行われます。
自動車に使われるプラスチック製品の寸法精度は極めて厳しく、
1ミリの10分の一や、100分の一というミクロ単位の精度が求められます。
この検査に合格をしない限り、金型は何度でも修正作業が繰り返されます。
この精度検査に合格をしないかぎり、際限のないやり直し作業が待っているのです。



 最初の金型は、予定よりも8日ほど遅れて無事に完成しました。
しかし片付いたのもつかの間で、亀田金型にはつづいて第二便が台湾から到着します。
こちらも前回同様、図面にたいする金型の完成率は低く、
大がかりな改修作業を必要とする状態です。
間違い部分や未加工の部分などまで含めると、前回以上に
かなりの難工事が予測されました。



 「まったく、これでは国内も台湾も、共倒れになりかねないな・・・・」



 今回のプロジェクトでは、東南アジア向け商品として
従来から人気のあった車種のフロント周辺の部品を、すべて一新する予定です。
主だった大きな金型だけでも5つが予定され、全体では10数個の金型が
亀田金型を中心に、台湾の各地で製作をすすていました。
現地での陣頭指揮に駆けまわっている亀田社長には、日本に戻ってくる
時間の余裕さえありません・・・・



 国内で、この改修作業に苦闘しているうちに、
亀田金型では、別の問題が発生をしてしまいました。
無理やりの徹夜仕事が続きすぎたために、すでに受注していた本来の金型にも
支障が出て、重大な納期遅れが発生をしはじめました。
やがて月も変わり、10月の声をきく頃になると亀田金型の操業は、
明日の予定すらつかないほどの、混乱状態に陥ってしまいました。



 くわえて、渡り職人でもあった2人の従業員は、
らちのあかない修理仕事ばかりの繰り返しに、ついに不満の余り工場を辞めてしまいます。
順平らの説得もむなしく、亀田金型の残ったのは雄二ひとりになってしまいました。



 やがて仕事が滞りすぎて
プロジェクト事業そのものが、完全に停止をしてしまいました。
その決定的な原因となったのは、台湾において亀田社長が失踪をしたことでです。
その一報がもたらされるのとほぼ同じ頃に、順平も上層部に呼び出されました。
会議の席上に顔をみせたのは、一連のプロジェクトの責任者たちです



 「台湾での合弁事業は、中国側とほぼ合意と言う決着をみました。
 これ以上の金型製作は、台湾では成果が認められないということで、
 長期にわたって凍結、ならびに最終的には、中止にするという、
 本社からの結論が出ました。
 したがって、台湾に進出をした金型関連会社はすみやかに撤退をして
 次なる目標としてすでに周知済みもである、
 香港進出に備えてください」




 「それでは、亀田金型は・・・・」




 「社長が不在では、どうにもならんだろう。
 それに、もともと我々が狙っていたのは、
 将来的に返還が予定されている、香港からの中国本土への上陸だ。
 ふたつの中国ともいわれている台湾からでは、
 中央突破にも時間がかかりすぎる。
 台湾はあくまでも、香港アプローチへの第一歩だ。
 中国側のメーカーと連携が成立したということで
 台湾進出は、当初の成果を納めたということになる。
 亀田君には気の毒なことをしたが、まあ、名誉の戦死と言うところかな。
 やっこさん、典型的なエコノミックアニマルだからねぇ」



 「亀田社長は相変らず、消息不明のままですか」



 「順平君。
 君もその目で見て来て分かっているように、
 今の台湾の実力では、我々が求めている金型など到底造れないことは
 よく理解していると思う。
 亀田社長だって、それは充分に承知をしていたはずだ。
 国内で挫折寸前だったが、万に一つの可能性に賭けてチャレンジをしたが
 やはり結果的には、時期早尚ということだろう。
 彼の奮戦が、今回の香港への足掛かりを作ったという点で
 評価すべき部分もおおいに有るが・・・・
 プロジェクト自体の赤字は、特別損失と言う形で本社が処理をする。
 ということで、君の会社でも、
 次期の香港に向けての体勢をとってくれたまえ。
 担当を紹介するから顔を覚えておいてくれ、
 次回からは、彼が窓口になる。
 たぶん台湾でも、一度会っているはずだと思うが」



 紹介されたのは、貞園の居た店で
亀田社長が連れてきた、見覚えのある背広姿の営業マンでした。
黒田と名乗った営業マンは、にこやかな笑顔で向こうから握手を求めてきました。
名刺には、東南アジアプロジェクト室長代理とあります。



 「先日はどうも。
 亀田社長のことは大変に残念ですが、
 本社でも、本格的に香港へターゲットを絞りこみました。
 私は成型部門が専門ですので、次回からの香港進出に関しては
 金型の専門家でもあるあなたと、最強のタッグを組む事になります。
 近いうちに香港の下見も予定していますので、そのせつには、
 よろしくお願いします」



 如才なく挨拶をする中で、
彼は意図的に「最強」という部分に力を込めて発音をしました。
ビジネスが全てと言っているわけではありませんが、
この男の背後には巨大な企業の利益の最優先主義が常にうごめいています。
こうしてわずか3カ月余りの展開の中で、台湾プロジェクトは
国内では亀田金型を壊滅させ、国外では亀田社長が失踪をするという結果だけを残して
無期限の凍結で、事実上の撤退を決定してしまいました。



 それにもかかわらず、東南アジアプロジェクトは
すでに次のターゲットを、香港上陸と定めて始動をはじめました。
「俺たちは、いったいどこに向かって進んでいるんだろう・・・・」
企業の強欲さの一端を覗き見た順平は、なぜか背中にひやりとするものを
感じながら、部品工場の会議室を後にしました。






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「舞台裏の仲間たち」(59) 第二幕・第二章 「台湾流のサヨウナラ」

2012-10-22 10:46:00 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(59)
第二幕・第二章 「台湾流のサヨウナラ」


 

 帰路の予定は、午後の飛行機です。
亀田社長と金型工場へ最後の挨拶をするために、貞園の真っ赤なBMWは、
午前6時になる前に淡水のホテルを出発してくれました。
運転中の貞園は、昨日よりずっと艶やかでした。
見送りの礼儀だからと、早い時間から起きて念入りにお化粧を施していました。



 金型工場での会議とひそひそ話は、2時間近くを要しました。
事態は日を追うごとに深刻となり、今後の対応を検討しましたが妙案などはありません。
この先の苦戦を予測させるような暗い空気のまま、ただその深刻さだけを確認しあうという、
実りのすくない打ち合わせになってしまいました。
あいかわらず大汗を流している亀田社長とは、そのまま会議室で別れました。
同席した部品会社の担当者とは玄関先で、握手ひとつでお別れをしました。
さあて、すべて用済みだと背伸びをする暇もなく、もう貞園の真っ赤なBMWが
私の目の前に滑り込んできました。



 「貞園、真っ赤なBMWもいいけれど、やっぱり最後はスクーターがいいな。
 空港までは、君を後ろに乗せて走りたいね。
 最後の想いでのために」



 「それもいいわね、
 じゃ、先に私の家に行きましょう。
 最後に、ローマの休日のように、
 おもいっきり台北を疾走しましょう! 」




 台北は「新しさと古い歴史が混在する都市」と呼ばれています。
町並や建物などもその例外ではありません。
数百年の歴史を持つ中国式の伝統的家屋や、お寺の向こうには、
台北を代表する高層のビルや新光三越といった超高層ビルがそびえる風景が広がっています。
いったい自分がどこの時代にいるのか、迷ってしまうような
そんな少し不思議な気分にもさせてくれる景色です。




 市街地を北へ抜けた貞園のBMWは、小高い丘に向かって進路をとりました。
ほどなくすると前方には、赤いレンガの塀にぐるりと囲まれた伝統的な
四合院建築スタイルの大きな屋敷が近づいてきました。



 台北に残る建物の中でも、最も保存状態のよいという古民家のひとつで、
竣工されたのは、清の時代で1783年に建てられた豪邸です。
200年以上も昔に建てられたというのに、外観は信じられないほどの美しさをいまだに保っていました。


 四合院建築とは、中庭を中心に4棟の建物を対称的に配置をした
明や清の時代の福建省の典型的な建築様式です。
ツバメの尻尾に例えられるそりかえった屋根は、赤い瓦を幾重にも重ねてあり、
微妙なカーブが落ち着いた雰囲気を演出しています。



 建築のスタイルだけでなく、建材も中国大陸産を採用しているのが
この家の持っている大きな特徴のひとつです。
そのほとんどを海を越えた福建省から名産の杉を取り寄せました。



 高温多湿の台湾では鉄釘は錆びやすいために、
ほとんどの木材が、竹や木製の釘で留められています。
壁は赤レンガと土レンガなどに、粘土と石灰を塗って仕上げられています。
庭の石畳に使われている石は紅普石と呼ばれ、中国大陸からの渡航船の船底に重石として置かれ、
バランスをとるために使われたものだそう。
苔が生えず、滑りにくい点が石畳としてぴったりでした。



 「おいおい、貞園、・・・・凄い豪邸だ。」



 「遠慮しないで、誰も居ないし。
 築200年の、ただの大きすぎるタイムカプセルみたいなものだから」




 どっしりとした門をくぐると、
美しく整えられた庭と半円形の池が目に入いってきました。
この池は優雅に「月眉池」と呼ばれています。
半月のように美しく整えられた眉型の池の様子に、
さすがに豪邸は池の名前までもが優雅だと、妙なところで納得をしてしまいました。
また美しいだけではなく、防衛や防火、魚の養殖、邸内の温度調節などと、
さまざまな用途にも使われています。
庭に植えられている花々や草木も、実はほとんどが薬草でした。
美しさと同時に、薬効までも得ているとは住人の知恵ぶりに脱帽をしました。




 「たいしたことはないって。
 たまたま、おじいちゃんが福建省からここへ来て、
 成功をした時に手に入れただけだもの。
 パパは仕事の都合で、市内の新築マンションに住んでいるし、
 ママも時々、私に会いに帰ってくるだけよ。
 ここに残っているものは、建物と同様にただの過去の遺物だけ。
 それでよければさあ、どうぞ」


 
 
 貞園が先にたって歩き始めた建物本体の内部には、
中庭を中心に、門に向かった正面に先祖を祀る廟があり、左右には翼にひろげたように
書斎や寝室など生活のための部屋が、合計で34部屋がつらなっていました。
建物内は窓がほとんど無いため昼でも薄暗いのですが、
天井が高いおかげで圧迫感は感じません。
直射日光が入らないおかげで、夏でも涼しく、また冬も暖かいそうです。





 一部屋ごとの面積は四畳半程度で、
主寝室などはベットと鏡台を置いただけで、もう満杯といった感じです。
これは一部屋一部屋を小さくすることにより、壁の数を多くして、
屋根を支えるという効果を産んでいました。



 壁やドアのいたるところに龍や鳳凰、
桃や蓮の花といった縁起の良い模様が描かれたり、彫刻がなされていて、
これには先祖を敬うという意味もあるそうです。
それを丁寧に見ていくだけでも、時間があっという間に過ぎてしまいます。




 「大富豪で資産家の娘だったんだ、貞園は。
 なるほどね、それで、どこかに育ちの良さがあったわけだ・・・・
 最後になって、やっといまごろ納得だ」



 「今頃になってなにを納得しているわけ。
 満開になったお花は大好きだけど、私みたいにまだまだ中途半端で、
 蕾のままの小娘なんか、少しも眼中にないくせに。
 さぁ、行くわよ」



 すでにスクーターの後部座席では、
ヘルメットをかぶって笑顔の貞園が待機をしています。
台北のはずれから、中正国際空港までは50分ほどかかります。
飛行機の予約が午後3時過ぎということもあり、比較的すいていた道路を
いつものように貞園と二人乗りで、最後のスクーターを飛ばしました。
出発ロビーで航空会社カウンターに荷物を預け搭乗手続きを済ませると
搭乗までは2時間ほどの余裕が残っています。




 機内へ持ち込み用の手荷物検査が終了したころに、貞園がやってきました。
1979年の2月に開港したばかりの、この中正国際空港は、
中華民国の初代総統である蒋介石の名前を冠した新国際空港で、機内のアナウンスなどでは
「蒋介石国際空港」と紹介をされていましす。
広いロビーを挟んで、真新しい免税店や飲食店などが軒を連ねていました。




 住所と電話番号を書いたメモ用紙を手渡すと、
貞園は四隅をきちんと合わせて、丁寧に2つ折りにしてからポケットにしまいこみます。
並んで座った窓際のカフェの大きなガラス越しには、
離陸のために滑走路を静かに移動をしていくいくつもの機影が見えました。




 「上野駅から、一本だけ桐生駅終着の特急電車があるのね。
 一日に、たったの一本と言うのも凄いわね・・・・
 行けるといいなぁ、順平の町に。
 あなたが書きあげると言った、黒光の舞台も是非見たい。
 本気で考えようかしら、留学を」



 「例の女性評論家の、金美齢にも誘われたんだろう。
 おいでよ是非。
 黒光や碌山の故郷、安曇野の大自然も素敵だよ、
 大歓迎で、君を案内してあげる」



 「恋人として?
 それとも、台湾の妹として?
 まあもういいか、あまり順平を困らせても可哀想だし・・・・
 もう行きましょう、搭乗案内がはじまるわ」



 ターミナルの3階に有る出国審査に向かう通路で貞園がまた、立ち止まりました。
その先の階段を上がれば、出国のための通路が始まりその奥には搭乗ゲートでの
別れが待っていました。




 「ローマの休日では・・・・
 愛し合った王女と新聞記者は、階段をはさんで
 静かに目と目をあわせてお互いの心だけに分かる、お別れを交わした。
 でも、台湾流のお別れは、映画とはすこしだけ違うわよ。 来て 」



 貞園に強い力で引かれたまま、階段には背を向けた位置に有る
大きな柱の陰に連れ込まれてしまいました。
通路を行きかう人たちの目を遮り、正面には整備中の飛行機しか見えない空間です。
目を閉じた貞園が、右の頬へ、ついで左の頬へと軽く唇を触れました。
「目を閉じて居てね」そうささやいてから、今度は静かに唇を重ねてきます。
長い時間をかけての貞園のキスがつづきました。


 
 「私をわすれないでね。
 きっと貞園は、いい女になってから会いに行きます」




 一度、唇を離した貞園が、私の瞳をまじかに覗き見るともう一度、
ふたたび目を閉じて、ゆっくりと唇をかさねてきました。



 ※中正国際空港は2006年に「桃園国際空港」と改称されました。






 第二幕 ・完・






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