syuの日記・気まま旅

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広島 西条の安芸国分寺

2014-06-04 | 気まま旅

広島県東広島市、県中南部「賀茂郡西条」。古代安芸国国分寺が置かれ、近世の山陽道宿場町。
西条と云えば、米どころ・水どころ・杜氏の町、灘・伏見と共に日本酒造地と広島大学・賀茂学園都市になった。
駅を出ると、造り酒屋のレンガ煙突が飛び込んで來る。

「山陽本線JR西条駅」
東広島市の中心駅、広島市玄関口で、新幹線の停車する東広島駅もある。
市は、広島市からおよそ35KM程のところにある。JR山陽本線に、「東広島」という駅は無い。
山陽新幹線の駅「東広島」は、はるか南になる。

市街地中心部に位置する西条駅の方が乗降客数は圧倒的に多いと云う。
広島大学の最寄り駅でもあり、西条の酒蔵に程近いため観光駅としての顔もある。
毎年10月第2土曜・日曜は西条中央公園で「酒まつり」が開かれるため県内・県外の観光客で賑わう。
1月に行われる大学入試センター試験で、広島県東部から広島大学に向かう受験生輸送のため、臨時列車が大門駅 - 西条駅に設定される。

1894年・明治27年開業している。


「教善寺」
山号ー南命山、浄土真宗本願寺派のお寺。

室町時代の開基で庫裏は幕末の広島藩の隠れ城、志和の八条原城の行動を移築したとある。
八条原城は、1868年、戊辰戦争勃発とともに、広島城では長距離砲に対処できないとし、ひそかに志和に城を移すために計画。
広島藩は戦乱の拡大と、外国軍艦の干渉等不測の事態に備えた、、、。
幕末に組織された神機隊の頓営の地に幕府に届けることなく学問所として建築されたとも云う。
幕末の貴重な資料。

教善寺                     山門                    鐘楼
      

                            本堂


「安芸国分寺跡」
西条盆地の東北部,北に山をおい南に盆地の低平地を望む緩やかな傾斜地に位置。
1932年、寺域の南西に存在した聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられる塚状の地点を発掘し、基壇と礎石群が検出され,塔跡が明瞭になり,
昭和11年・1936年に「安芸国分寺塔跡」として史跡に指定された。

「奈良平城京」
741年、聖武)天皇は、当時の政治不安や悪疫流行をしずめるために、諸国に国分(僧)寺、尼寺(にじ)を設け、国家の平安を祈るよう詔を出した。 
694年藤原京・天武天皇(天皇中心国家に)天武天皇の妻持統天皇女帝・文武天皇・元明天皇710年「平城京遷都」
奈良時代の天皇は、元明天皇(708~714)女帝・元正天皇(715~723)女帝・
聖武天皇(724~751)後半期から光明皇后が実権をもつ・孝謙天皇(752~758)女帝・
淳仁天皇(759~763)実質的には孝謙天皇が実権をもっていた。称徳天皇(764~769)女帝 (孝謙天皇の再即位)・光仁天皇(770~773)と続く。

聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺 のシンボルとして東大寺と大仏を、国分尼寺のシンボルとして法華寺を建立。

光明皇后は、聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代) の三女。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

西条盆地の東北部,北に山をおい南に盆地の低平地を望む緩やかな傾斜地に位置する。
昭和7年(1932)寺域の南西に存在した聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられる塚状の地点を発掘したところ,基壇と礎石群が検出され,塔跡が明瞭になり,昭和11年(1936)に安芸国分寺塔跡として史跡に指定された。

    

昭和44年(1969)以降平成12年(2000)まで12次の発掘調査が行われ,奈良時代の遺構は,門,金堂,講堂,僧坊が南北の伽藍中軸線上に配置されており,北辺では築地と溝があったと推定される。
なお,南方5kmの三永水源地北畔には,国分寺と同様な瓦を出土する窯跡があり,この付近で国分寺の瓦を生産したと考えられる。

  

奈良時代に聖武天皇の勅令によって全国60か国に建立された国分寺のうちの一つ。寺域内に南大門跡,中門跡,金堂跡,講堂跡等が南北に縦に並び西に塔が建つ伽藍配置,塔跡に10数個の礎石が残る。

  

安芸国の国分(僧)寺は、古代の山陽道が通る西条盆地、現在のJR山陽本線西条駅の北側に建立されていた。広島県教育委員会が行った発掘調査によると寺域は、現在の国分寺を中心に東西約200m、南北約130mの広さがあり、南門、中門、金堂、講堂が南北の中軸線上に並ぶ東大寺式伽藍配置を基本としている。南門跡は東西10m、南北7m、中門跡は東西14m、南北10mの基壇があるが、金堂跡は版築による盛土があるだけで規模は明らかでない。講堂跡は東西28m、南北16mで、乱石積の基壇が確認されている。中軸線から西に離れた位置にある塔跡は、一辺10m、高さ1.2mの基壇をもち、心礎をはじめとする礎石が残されている。また、寺域の北辺では築地と溝が確認されており、周囲に築地と溝が巡っていたことが推察されている。
  
露出した塔礎石
  

国分寺は、奈良時代に諸国に命じて設置させた寺。
国ごとに僧寺と尼寺をつくらせたので、普通国分寺及び国分尼寺と呼ぶ。国分寺は、「金光明四天王護国之寺」が正式名称で、
20人の僧と金光明最勝王経が置かれた。
国分寺の建立は諸国にまかせられたようで、一定の規格はなく、既存の寺を利用したものもあった。
備後の国分寺は、神辺町にあったと云う。

  

国分寺と井戸
井戸跡ー井戸枠は良く解らない。一般的に、巨木をくり抜いて作られ、平面形か楕円形をなしている。 流し溝の痕跡も残っている。
井戸の上には、4本の柱に支えられた覆屋が設けられ、これは、柱を建てた痕跡がある。
再現されたものであろう判りやすい。
  

「安芸国分寺」
西条町伽藍、真言宗御室派
現在の「安芸国分寺」は小さなお寺。天平の「国分寺跡」を伝えるものは、山門を入ってすぐ右側にある「南門跡」と書いた「木杭」と、
復元整備された「塔跡」である。
  

現国分寺の近辺は住宅街。
現国分寺の少し西の住宅に囲まれたところに「塔跡」がある。
「塔跡」は、石垣で作られた基段の上に発掘された礎石を復元したもの、その前に「史跡安芸国分寺塔跡」と書いた石碑が立っていた。
この塔跡は石柱で作られた柵で囲まれており、門に鉄扉がついていて、第一印象は大型の墓所であったと云う。

    

天平の「安芸国分寺」が西条にあることから、古代の国府はやはりこの近くにあったはずであるが、
「安芸国府」を示す地名の現「府中町」は広島市の中で浮き島のような位置になると云う。

                              本堂


次回は、西条の酒蔵へ。