「同期の桜」 作詞不詳
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分ける 仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ
貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け 南の空に まだ還らぬ一番機、、、、、。
1889年(明治22年)半農半漁の呉村に海軍鎮守府が開庁され、海軍工廠が設置し、軍港として発展し派兵の出撃基地「呉」。
昭和20年3月より数回の激烈な空襲により呉軍港、広海軍工廠、呉海軍工廠は壊滅し、 世界的軍港「呉」は、日本海軍の墓場と化した。
戦艦大和の建造でも知られる海軍工廠は東洋一と言われるまでに隆盛を極め、発展を続けた「呉」、
この地に、1890年(明治23年)帝国海軍によって設置された「旧海軍墓地(長迫公園)」
13万3千余柱の呉海軍鎮守府関係の戦没者の英霊が眠っている。
大東亜戦争は、 大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・中華民国などの連合国 との間に発生した戦争、
大東亜戦争 戦没者之碑. 航空母艦. 空母瑞鶴 碑記念樹. 軍艦信濃戦没者之墓 ...
潜水艦. 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 . 伊号第八 潜水艦之碑 伊二九潜戦没者慰霊碑 不朽. 伊号第122潜水艦戦没者 ...
海軍戦没者柔道部員之碑 呉所管看護長・看護師・看護手・看護婦之墓地等が。
浜風は、日本海軍の駆逐艦、陽炎型の13番艦。「武蔵」「金剛」「信濃」の沈没に立ち会い、自身も1945年坊ノ岬沖海戦で「大和」と戦没。
明治期に海軍軍人の埋葬地として開設された「海軍墓地」(現・長迫公園)には、
戦艦大和戦死者の碑など、戦争の死者を弔う91基の合祀碑が並び、献花が絶えないと云う。
島風は、日本海軍の駆逐艦、峯風型駆逐艦の4番艦である。日本の駆逐艦 として公試運転時に40.698ノットの新記録を、哨戒艇に改装
帝国海軍の重要拠点だった各港は、一転して連合国軍の管理下に置かれた。
東シナ海への入り口となる佐世保は米海軍第七艦隊基地として、朝鮮戦争やベトナム戦争で作戦基地、補給基地となった。
1952年に海上警備隊が発足し、呉と佐世保に地方総監部が置かれ、日本の軍港として復活。
戦艦大和の碑
戦艦大和五代目艦長 有賀幸作大佐 •戦艦大和四代目艦長 森下信衛大佐 •戦艦大和三代目艦長 大野竹ニ大佐 •戦艦大和二代目艦長 松田千秋大佐
「戦艦大和の初代艦長、高柳儀八大佐」
第二艦隊参謀長となった森下信衛少将から「戦艦大和」の艦長をひきついだのは、
水雷学校の教頭をしていた、「有賀幸作」大佐、有賀大佐は、戦艦大和最後の艦長となった。
「シーライオン」の魚雷攻撃を受けた。6本の魚雷を発射、12ノットで航行していた「金剛」の左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中。
戦艦「長門」を狙って外れた魚雷1本が護衛の第十七駆逐隊旗艦「浦風」に命中、「浦風」は、轟沈、第十七駆逐隊司令部、艦長以下乗組員全員が戦死。
「戦艦大和」 約137,802,000円 1936年3月 艦政本部試算 。排水量 基準 64,000t・公試 69,000t・満載 72,809t・全長 263.0m・水線長 256.0m
全幅 38.9m・公試吃水 10.4m・主機関 ロ号艦本式缶12缶・艦本式タービン4基4軸・153,553馬力・最大速力 27.46ノット(公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)・乗員 竣工時:2,500名・ 最終時:3,332名
兵装が、新造時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:4基・40口径12.7cm連装高角砲:6基・25mm3連装機銃:8基・13mm連装機銃:2基
最終時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:2基・40口径12.7cm連装高角砲:12基・25mm3連装機銃:52基・25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基 ・装甲 舷側 410mm・甲板 200mm〜230mm・主砲防盾 650mm・艦橋500mm であった。
潜水艦の碑・巡洋艦の碑・駆逐艦の碑・上海満州事変の碑・傷疫の碑・海軍航空隊の碑・戦艦の碑・戦艦大和戦死者の碑等。
「青葉ー重巡洋艦」の最後
潜水艦の攻撃で大破した青葉は、呉で本格的修理を行う予定で「呉」に、あまりも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず、呉工廠近くに
繋留放置されていたと云う。
1945年3月に米軍空母機動部隊による攻撃が開始されると、「青葉」も防空砲台として奮戦したが、7月24日に命中弾1至近弾1、28日に命中弾4を受けて
艦尾はほぼ切断状態となり、艦内は海水で満水となった結果ついに大破着底。
そのままの状態で終戦を迎え、1946年11月より播磨造船の手により解体されたている。
上海満州事変戦没者之碑・昭和8年建立・合祀者49柱)
「戦艦日向」は、進水 1917年・就役 1918年・その後 1945年、 呉軍港空襲により大破着底、終戦後に解体 ・除籍 1945年。
性能諸元、航空戦艦改装時は、排水量 38,872トン(公試時)・全長 219.62 m・全幅 33.83 m・吃水 9.03 m・機関 ロ号艦本式缶8基
艦本式ギアード・タービン4基4軸 80,640馬力 ・速力 25.1 ノット ・航続距離 9,500海里/16ノット・乗員 士官、兵員1,669名
兵装 四一式35.6cm連装砲4基・12.7cm連装高角砲8基16門・25mm3連装機銃19基・搭載機 常用22機(カタパルト2基)
日向(ひゅうが)、大日本帝国海軍の戦艦で「伊勢」型戦艦の2番艦。
太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。
艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、艦内神社は宮崎神宮からの分神。(艦名は帝国海軍ではこの艦のみ)
休山旧海軍墓地から呉街並みと桟橋方面
「海行かば」 大伴家持
海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
呉のドックと呉港・戦前ここで「戦艦大和」が。
「音戸の瀬戸公園」
平清盛が夕日を招き返して1日で切り開いたという伝説のある名勝地、約2、300本の桜、と約8,300本の紅白のツツジが咲き乱れ
真紅の「音戸大橋」とマッチした素晴らしい景観の公園。
約800年余り前、平清盛が、巌島神社に至るために切り開いたと伝えられる、呉市と倉橋島のわずか90mの狭い海路である。
今は瀬戸内海航路の要衝であるが、潮の流れが速いため難所としても知られている。
昭和36年、真っ赤な音戸大橋(アーチ型らせん式高架橋)によって呉市と陸続きになった。
音戸の瀬戸とは、呉市にある本州(警固屋)と倉橋島(音戸町)の間に存在する海峡のことである。
幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など
1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域。
日本一短いとされる海上定期航路(音戸渡船)も就航している。
南端最狭部にはアーチ橋とツツジで有名な音戸大橋が、北端には2本目の橋である第二音戸大橋がかかる。
瀬戸公園登り 阿賀港か
「吉川英治文学碑」が、小説「新平家物語」の執筆中に、音戸の瀬戸を訪れた際に残した感慨の句、
「君よ今昔之感如何」を刻んだ石が、音戸の瀬戸公園の高台の一角に建てられていた。
高島台「平清盛日招像」
この海峡は平安時代に日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。
一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説。
工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたともいわれる。
平清盛ゆかりの土地であることから、開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に扇を向けて立つ姿の2.7mの銅像
「日招像」が瀬戸の東側の高烏山麓「音戸の瀬戸公園」内に1967年、昭和42年に建立。
近年の地質調査では、清盛の時代より遥か以前から、この海峡には船舶の航行に十分な水深があり、本州側と音戸側が地続き、あるいは浅瀬で結ばれていたと考えられている。
江田島 音戸大橋 江田島市大黒神島
「音戸大橋」
音戸の瀬戸上に架けられた日本初のアーチ型らせん式高架橋。
ループ式道路を組み合わせた美しい橋。橋長172m。幅員6m。全長1,184m。
とびしま海道・江田島 公園案内板 絶景が広がる
次回は、岩国へ。
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ国の為
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分ける 仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ
貴様と俺とは 同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 仰いだ夕焼け 南の空に まだ還らぬ一番機、、、、、。
1889年(明治22年)半農半漁の呉村に海軍鎮守府が開庁され、海軍工廠が設置し、軍港として発展し派兵の出撃基地「呉」。
昭和20年3月より数回の激烈な空襲により呉軍港、広海軍工廠、呉海軍工廠は壊滅し、 世界的軍港「呉」は、日本海軍の墓場と化した。
戦艦大和の建造でも知られる海軍工廠は東洋一と言われるまでに隆盛を極め、発展を続けた「呉」、
この地に、1890年(明治23年)帝国海軍によって設置された「旧海軍墓地(長迫公園)」
13万3千余柱の呉海軍鎮守府関係の戦没者の英霊が眠っている。
大東亜戦争は、 大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・中華民国などの連合国 との間に発生した戦争、
大東亜戦争 戦没者之碑. 航空母艦. 空母瑞鶴 碑記念樹. 軍艦信濃戦没者之墓 ...
潜水艦. 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 . 伊号第八 潜水艦之碑 伊二九潜戦没者慰霊碑 不朽. 伊号第122潜水艦戦没者 ...
海軍戦没者柔道部員之碑 呉所管看護長・看護師・看護手・看護婦之墓地等が。
浜風は、日本海軍の駆逐艦、陽炎型の13番艦。「武蔵」「金剛」「信濃」の沈没に立ち会い、自身も1945年坊ノ岬沖海戦で「大和」と戦没。
明治期に海軍軍人の埋葬地として開設された「海軍墓地」(現・長迫公園)には、
戦艦大和戦死者の碑など、戦争の死者を弔う91基の合祀碑が並び、献花が絶えないと云う。
島風は、日本海軍の駆逐艦、峯風型駆逐艦の4番艦である。日本の駆逐艦 として公試運転時に40.698ノットの新記録を、哨戒艇に改装
帝国海軍の重要拠点だった各港は、一転して連合国軍の管理下に置かれた。
東シナ海への入り口となる佐世保は米海軍第七艦隊基地として、朝鮮戦争やベトナム戦争で作戦基地、補給基地となった。
1952年に海上警備隊が発足し、呉と佐世保に地方総監部が置かれ、日本の軍港として復活。
戦艦大和の碑
戦艦大和五代目艦長 有賀幸作大佐 •戦艦大和四代目艦長 森下信衛大佐 •戦艦大和三代目艦長 大野竹ニ大佐 •戦艦大和二代目艦長 松田千秋大佐
「戦艦大和の初代艦長、高柳儀八大佐」
第二艦隊参謀長となった森下信衛少将から「戦艦大和」の艦長をひきついだのは、
水雷学校の教頭をしていた、「有賀幸作」大佐、有賀大佐は、戦艦大和最後の艦長となった。
「シーライオン」の魚雷攻撃を受けた。6本の魚雷を発射、12ノットで航行していた「金剛」の左舷艦首と2番煙突下の缶室に合計2本の魚雷が命中。
戦艦「長門」を狙って外れた魚雷1本が護衛の第十七駆逐隊旗艦「浦風」に命中、「浦風」は、轟沈、第十七駆逐隊司令部、艦長以下乗組員全員が戦死。
「戦艦大和」 約137,802,000円 1936年3月 艦政本部試算 。排水量 基準 64,000t・公試 69,000t・満載 72,809t・全長 263.0m・水線長 256.0m
全幅 38.9m・公試吃水 10.4m・主機関 ロ号艦本式缶12缶・艦本式タービン4基4軸・153,553馬力・最大速力 27.46ノット(公試成績)
航続距離 16ノットで7,200海里(13,334km)・乗員 竣工時:2,500名・ 最終時:3,332名
兵装が、新造時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:4基・40口径12.7cm連装高角砲:6基・25mm3連装機銃:8基・13mm連装機銃:2基
最終時 45口径46cm3連装砲塔:3基・60口径15.5cm3連装砲塔:2基・40口径12.7cm連装高角砲:12基・25mm3連装機銃:52基・25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基 ・装甲 舷側 410mm・甲板 200mm〜230mm・主砲防盾 650mm・艦橋500mm であった。
潜水艦の碑・巡洋艦の碑・駆逐艦の碑・上海満州事変の碑・傷疫の碑・海軍航空隊の碑・戦艦の碑・戦艦大和戦死者の碑等。
「青葉ー重巡洋艦」の最後
潜水艦の攻撃で大破した青葉は、呉で本格的修理を行う予定で「呉」に、あまりも大きすぎる損傷のために修理の見込みが立たず、呉工廠近くに
繋留放置されていたと云う。
1945年3月に米軍空母機動部隊による攻撃が開始されると、「青葉」も防空砲台として奮戦したが、7月24日に命中弾1至近弾1、28日に命中弾4を受けて
艦尾はほぼ切断状態となり、艦内は海水で満水となった結果ついに大破着底。
そのままの状態で終戦を迎え、1946年11月より播磨造船の手により解体されたている。
上海満州事変戦没者之碑・昭和8年建立・合祀者49柱)
「戦艦日向」は、進水 1917年・就役 1918年・その後 1945年、 呉軍港空襲により大破着底、終戦後に解体 ・除籍 1945年。
性能諸元、航空戦艦改装時は、排水量 38,872トン(公試時)・全長 219.62 m・全幅 33.83 m・吃水 9.03 m・機関 ロ号艦本式缶8基
艦本式ギアード・タービン4基4軸 80,640馬力 ・速力 25.1 ノット ・航続距離 9,500海里/16ノット・乗員 士官、兵員1,669名
兵装 四一式35.6cm連装砲4基・12.7cm連装高角砲8基16門・25mm3連装機銃19基・搭載機 常用22機(カタパルト2基)
日向(ひゅうが)、大日本帝国海軍の戦艦で「伊勢」型戦艦の2番艦。
太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。
艦名の由来は宮崎県の旧国名からで、艦内神社は宮崎神宮からの分神。(艦名は帝国海軍ではこの艦のみ)
休山旧海軍墓地から呉街並みと桟橋方面
「海行かば」 大伴家持
海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ
呉のドックと呉港・戦前ここで「戦艦大和」が。
「音戸の瀬戸公園」
平清盛が夕日を招き返して1日で切り開いたという伝説のある名勝地、約2、300本の桜、と約8,300本の紅白のツツジが咲き乱れ
真紅の「音戸大橋」とマッチした素晴らしい景観の公園。
約800年余り前、平清盛が、巌島神社に至るために切り開いたと伝えられる、呉市と倉橋島のわずか90mの狭い海路である。
今は瀬戸内海航路の要衝であるが、潮の流れが速いため難所としても知られている。
昭和36年、真っ赤な音戸大橋(アーチ型らせん式高架橋)によって呉市と陸続きになった。
音戸の瀬戸とは、呉市にある本州(警固屋)と倉橋島(音戸町)の間に存在する海峡のことである。
幅はわずか90m程度、可航幅が60mしか無く、一日の船舶の通行量は約700隻で、最大で4ノットと潮流が早く、狭い所を広島市と松山市を結ぶ定期船など
1000トン級の船が行き交う船舶の往来が激しい海域。
日本一短いとされる海上定期航路(音戸渡船)も就航している。
南端最狭部にはアーチ橋とツツジで有名な音戸大橋が、北端には2本目の橋である第二音戸大橋がかかる。
瀬戸公園登り 阿賀港か
「吉川英治文学碑」が、小説「新平家物語」の執筆中に、音戸の瀬戸を訪れた際に残した感慨の句、
「君よ今昔之感如何」を刻んだ石が、音戸の瀬戸公園の高台の一角に建てられていた。
高島台「平清盛日招像」
この海峡は平安時代に日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。
一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説。
工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたともいわれる。
平清盛ゆかりの土地であることから、開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に扇を向けて立つ姿の2.7mの銅像
「日招像」が瀬戸の東側の高烏山麓「音戸の瀬戸公園」内に1967年、昭和42年に建立。
近年の地質調査では、清盛の時代より遥か以前から、この海峡には船舶の航行に十分な水深があり、本州側と音戸側が地続き、あるいは浅瀬で結ばれていたと考えられている。
江田島 音戸大橋 江田島市大黒神島
「音戸大橋」
音戸の瀬戸上に架けられた日本初のアーチ型らせん式高架橋。
ループ式道路を組み合わせた美しい橋。橋長172m。幅員6m。全長1,184m。
とびしま海道・江田島 公園案内板 絶景が広がる
次回は、岩国へ。