「許すまじ原爆を」作詞、浅田石二、作曲、木下航二
ふるさとの街焼かれ
身よりの骨埋めし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度、許すまじ原爆を
われらの街に
広島に原爆投下・1945年8月6日ー長崎に8月9日

広島産業奨励館の被曝前後

「原子爆弾」
核分裂の連鎖反応によって、瞬間的に大量の「エネルギー」を放出させる爆弾を云う。
ウラン235・ブルトニュウム239を原料とし、1kgのウラン235が爆発して放出エネは、TNT火薬2万tとほぼ同等。
衝撃波による破壊は、放射線被害と熱放射による火災などで、特に、火傷は、人体を徐々に蝕んでこれと云う治療法が無い。
「原爆ドーム」は、世界遺産。

被曝時・小学3年生ー執筆時・中学3年生の体験記(資料より)
お母さんの座って居る前に、私と同じくらいの女の子がいました。その女の子は、体中に火傷や、怪我をしていて、血が流れていました。
苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、とつぜん私の母に「小母さんの子供、ここにいるの?」と尋ねました。
その子供は、もう目が見えなくなっていたのです。お母さんは、「おりますよ」と返事をしました。
すると、その子供は、「おばさん、これおばさんのこどもあげて」と云って、何かを出しました。それは、お弁当でした。
それは、その子供が朝学校に出掛ける時、その子供のお母さんがこしらえてあげたおべんとうでした。
お母さんが、その子供に「あなた、自分で食べないの?」と聞くと、「私、もうダメ、それをおばさんの子供にたべさせて」と云ってくれました。
しばらく川を下って船が海に出た時、その子供は、「おばさん、私の名前を云うから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね」
と云ったかと思うと、もう息を引き取って死んでしまいました。私は、お母さんと一しょに泣きました。

昭和20年8月6日、一発の「原子爆弾」により、待ち派は、一瞬二して破壊され多くの尊い命が無差別に奪われてしまった。
被曝から6年後に「被曝体験記」情報展示していた。(無料)

祈念館名は、死没者追悼円形空間が中央にある。


「平和公園」
1951年8月6日に、現在の区域を平和記念施設とすることを決定し[5]、1954年4月1日に完成した。
毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。

相生橋から本川と元安川に別れその中洲に、平和の鐘・原爆の子の像・供養塔・平和の泉・原爆死没者慰霊碑・国際広場・資料館(東館)
元安川に沿って追悼平和祈念館・元安橋・爆心地・原爆ドームは、元安川の外・本川に西平和大橋・元安川に平和大橋が架る。

南側に広島平和記念資料館・広島国際会議場、北東に原爆ドームがある。そのほかに、原爆死没者慰霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・などがある。
原爆ドーム・慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸と、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸からなる公園の計画は、当時の若手建築家、丹下健三の設計。
広島二中原爆慰霊碑・広島市商・造船工業学校慰霊碑・広島市立高女原爆慰霊碑 - 公園外の旧校地内に設置・義勇隊の碑(安佐郡川内村温井地区から動員された義勇隊員の慰霊碑)などがある。

「元安橋」
元安川の名はこの橋の名称にちなんで付けられたと伝えられ、原爆ドームと広島平和記念公園を結ぶ橋の1つ。
上流側に元安川と本川(旧太田川)の分流点と相生橋、下流側に平和大橋がある。
安土桃山時代に木橋として築造されたものを、1920年に鋼橋に永久橋化、1945年原爆被災の際、爆心地より約130mに位置し爆心地から最も近い橋。
落橋を免れ、その被災状況から、爆心地特定の手がかりとなったと云う。(日本百名橋の1つ)
被爆当日に被爆者がこの橋付近で特に多く亡くなっており、毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われる。
「リバークルーズ」のコース。
平和記念公園 ~ 宮島を結ぶ海のアクセス、広島の街並みを海から眺めながら世界遺産を移動できる海上交通船がある。
本川と元安川を経て平和公園と宮島を結ぶもので 途中原爆ドーム前を航過致し、宮島へ。
運賃ー片道 2,000円・復路 1,600円。約1時間間隔。(私は、JRで)

次回は、宮島へ。
ふるさとの街焼かれ
身よりの骨埋めし焼土に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度、許すまじ原爆を
われらの街に
広島に原爆投下・1945年8月6日ー長崎に8月9日

広島産業奨励館の被曝前後

「原子爆弾」
核分裂の連鎖反応によって、瞬間的に大量の「エネルギー」を放出させる爆弾を云う。
ウラン235・ブルトニュウム239を原料とし、1kgのウラン235が爆発して放出エネは、TNT火薬2万tとほぼ同等。
衝撃波による破壊は、放射線被害と熱放射による火災などで、特に、火傷は、人体を徐々に蝕んでこれと云う治療法が無い。
「原爆ドーム」は、世界遺産。


被曝時・小学3年生ー執筆時・中学3年生の体験記(資料より)
お母さんの座って居る前に、私と同じくらいの女の子がいました。その女の子は、体中に火傷や、怪我をしていて、血が流れていました。
苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、とつぜん私の母に「小母さんの子供、ここにいるの?」と尋ねました。
その子供は、もう目が見えなくなっていたのです。お母さんは、「おりますよ」と返事をしました。
すると、その子供は、「おばさん、これおばさんのこどもあげて」と云って、何かを出しました。それは、お弁当でした。
それは、その子供が朝学校に出掛ける時、その子供のお母さんがこしらえてあげたおべんとうでした。
お母さんが、その子供に「あなた、自分で食べないの?」と聞くと、「私、もうダメ、それをおばさんの子供にたべさせて」と云ってくれました。
しばらく川を下って船が海に出た時、その子供は、「おばさん、私の名前を云うから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね」
と云ったかと思うと、もう息を引き取って死んでしまいました。私は、お母さんと一しょに泣きました。



昭和20年8月6日、一発の「原子爆弾」により、待ち派は、一瞬二して破壊され多くの尊い命が無差別に奪われてしまった。
被曝から6年後に「被曝体験記」情報展示していた。(無料)

祈念館名は、死没者追悼円形空間が中央にある。


「平和公園」
1951年8月6日に、現在の区域を平和記念施設とすることを決定し[5]、1954年4月1日に完成した。
毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。

相生橋から本川と元安川に別れその中洲に、平和の鐘・原爆の子の像・供養塔・平和の泉・原爆死没者慰霊碑・国際広場・資料館(東館)
元安川に沿って追悼平和祈念館・元安橋・爆心地・原爆ドームは、元安川の外・本川に西平和大橋・元安川に平和大橋が架る。

南側に広島平和記念資料館・広島国際会議場、北東に原爆ドームがある。そのほかに、原爆死没者慰霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・などがある。
原爆ドーム・慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸と、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸からなる公園の計画は、当時の若手建築家、丹下健三の設計。
広島二中原爆慰霊碑・広島市商・造船工業学校慰霊碑・広島市立高女原爆慰霊碑 - 公園外の旧校地内に設置・義勇隊の碑(安佐郡川内村温井地区から動員された義勇隊員の慰霊碑)などがある。



「元安橋」
元安川の名はこの橋の名称にちなんで付けられたと伝えられ、原爆ドームと広島平和記念公園を結ぶ橋の1つ。
上流側に元安川と本川(旧太田川)の分流点と相生橋、下流側に平和大橋がある。
安土桃山時代に木橋として築造されたものを、1920年に鋼橋に永久橋化、1945年原爆被災の際、爆心地より約130mに位置し爆心地から最も近い橋。
落橋を免れ、その被災状況から、爆心地特定の手がかりとなったと云う。(日本百名橋の1つ)
被爆当日に被爆者がこの橋付近で特に多く亡くなっており、毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われる。

「リバークルーズ」のコース。
平和記念公園 ~ 宮島を結ぶ海のアクセス、広島の街並みを海から眺めながら世界遺産を移動できる海上交通船がある。
本川と元安川を経て平和公園と宮島を結ぶもので 途中原爆ドーム前を航過致し、宮島へ。
運賃ー片道 2,000円・復路 1,600円。約1時間間隔。(私は、JRで)

次回は、宮島へ。