「毛利元就1497ー1571」が、毛利家繁栄の基礎を築いた。
吉田郡山城は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった城。
安芸国の戦国大名毛利氏の居城。城跡は、「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定、
郡山城は、江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山、築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。
後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。
「史跡・広島城」
中区基町、美術館・市民球場・中央公園・近くに太田川(本川)が流れ、緑の多い位置にある。
1590年「毛利輝元」が築城、明治以降外堀は埋め立てられたのは残念。城郭の輪郭は、比較的によく保存されている。
天守閣・太鼓櫓は、原爆で破壊している。現在は、内濠・本丸・二の丸等の石垣が部分的に残って、1958年天守閣(内部は、郷土館に)復元。
日本100名城の一つ,(東京ドーム約3個分の広さであった)
築城前の広島 古代~中世(平安~室町時代)・毛利氏の台頭 ・広島城築城 中世~近世(室町~安土桃山時代)・毛利輝元の時代 城造りに。
「黒田 孝高」が、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・軍師・大名。
諱(実名)は初め孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは出家後の号をとった「黒田 如水」として広く知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
福島氏の入国と改易 近世(江戸時代初期)・福島正則の時代 ・浅野氏の治世 近世(江戸時代)・浅野氏の時代 が続く。
「毛利輝元」 1553-1625 関ケ原西軍総大将。 「三本の矢」元就の長兄「毛利隆元」(1523-1563)の長男が「輝元」
毛利家を継ぎ、叔父に「吉川元春」「小早川隆景」の補佐を得て領土拡張、将軍「足利義昭」を迎えてー「織田信長」と対立。
後に、「豊臣秀吉」に従い転戦し、中国7ヶ国などを安堵された。
「徳川家康」に敵対ー関ヶ原の戦いで総大将にー家督相続後も実権を握っていたと云う。広島城は1600年まで、
別称、「鯉城」。広島城があった一体は昔「己斐浦」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと云う。
広さ約12万㎡。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもの、。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城。
「福島正則」(1600-1619)は、尾張国海東郡二寺村(愛知県海部郡美和町)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えた伝えられ、正則の名が広く知れ渡るのは、1583年の「賤ケ岳合戦」で、正則は一番鑓・一番頸の活躍をしました。これにより、正則ら七名は 「賤ケ岳の七本鑓」 として称賛され、正則の働きは他の面々より上とされた。
恩賞では別格の扱いを受けました。その後、天正15年・1587年には、伊予国今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、1595年には、
尾張国清洲(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領している。
秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となる。
浅野氏入国は、元和5年・1619年、福島氏の改易が決定。
二代将軍徳川秀忠は、「中国の要め」 である広島に、紀伊和歌山城主の「浅野長晟」を配置することとし、安芸一国と備後八郡、合わせて「42万6,500石」を与えた。
加増・転封にあたっては、長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視されたものと考えられ、福島氏と同じく、毛利氏に対する牽制も期待されたと考えられている。
長晟は、まず広島城請け取りのための家臣を出発させた後、和歌山を発ち海路広島へ向い、長晟が広島城へ入城したのは、数月後の、 8月8日のことと
伝えられている。浅野家と広島城は、1619-明治4年まで
1619-1632 浅野長晟・1632-1672 光晟・1672-1673 綱晟・1706-1752 吉長・1752-1763 宗恒・1763-1799 重晟・1799-1830
斎賢 1830--1858、、、、。
「毛利家の城、安芸高田・郡山城」は、山城跡と毛利家の墓、旅行に予定したが悪天候、国道29号線光井山と甲山に狭まれた山で不便である。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城。
江戸時代中期に書かれた「広島藩御覚書帖」で、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていたと云う。
1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では、岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)。
この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた。
「承久の乱」以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし
「厳島の戦い」で陶氏(大内氏)に勝利したことにより、毛利氏によって支配されることになる。
それまでの毛利氏の居城である「吉田郡山城」は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、
領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた。
毛利輝元時代の天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを
城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代。
山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭な地域。
そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めたのであろう。
1588年、毛利輝元は、豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。
一説には、1558年-1569年の輝元の祖父である「元就」のころから、現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあったという。
縄張を秀吉の側近で築城の名手である「黒田如水」が思案した。如水が築城に絡んだ理由として以下のことが語られていると云う。
黒田如水この築城は同時期に進行しつつあった秀吉の朝鮮出兵に於ける前線基地となった名護屋城と、秀吉の拠点である大阪城や聚楽第を海路で繋ぐ中継基地(秀吉の宿泊所)としての期待をされたため、秀吉が築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣したという話。
平らな低湿地帯へ築城することに決まった際、家臣団の中で比治山山頂に築城する案と揺れ、そこで輝元の叔父である小早川隆景の友人である黒田如水にアドバイザーとして参加を依頼。
黒田如水は堅城となりうるとして低地案を推進し縄張を考案。
後日、秀吉がこの城を見物し「要害が悪い。水攻めをされたらひとたまりもない。」と評価した。
毛利輝元は黒田如水に騙されたと憤慨したが、小早川隆景は、「要害の悪い城だからこそ安全。毛利の城の要害が良かったら、謀反の恐れあり、と警戒される。」と諌めたと云う。
秀吉は、毛利氏を弱体化させるため(浅瀬に築城したため島普請に相当な出費をしたことからも)に黒田如水を派遣した、という話もある。
1864年、第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。
この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。
戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。
広島城全域が広島城址公園。となっており、復元された大天守は、歴史博物館として利用。
公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は財団法人広島市未来都市創造財団が指定管理者として、
広島護国神社は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理。
次回は、平和公園へ。
吉田郡山城は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった城。
安芸国の戦国大名毛利氏の居城。城跡は、「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定、
郡山城は、江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山、築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。
後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。
「史跡・広島城」
中区基町、美術館・市民球場・中央公園・近くに太田川(本川)が流れ、緑の多い位置にある。
1590年「毛利輝元」が築城、明治以降外堀は埋め立てられたのは残念。城郭の輪郭は、比較的によく保存されている。
天守閣・太鼓櫓は、原爆で破壊している。現在は、内濠・本丸・二の丸等の石垣が部分的に残って、1958年天守閣(内部は、郷土館に)復元。
日本100名城の一つ,(東京ドーム約3個分の広さであった)
築城前の広島 古代~中世(平安~室町時代)・毛利氏の台頭 ・広島城築城 中世~近世(室町~安土桃山時代)・毛利輝元の時代 城造りに。
「黒田 孝高」が、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・軍師・大名。
諱(実名)は初め孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは出家後の号をとった「黒田 如水」として広く知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
福島氏の入国と改易 近世(江戸時代初期)・福島正則の時代 ・浅野氏の治世 近世(江戸時代)・浅野氏の時代 が続く。
「毛利輝元」 1553-1625 関ケ原西軍総大将。 「三本の矢」元就の長兄「毛利隆元」(1523-1563)の長男が「輝元」
毛利家を継ぎ、叔父に「吉川元春」「小早川隆景」の補佐を得て領土拡張、将軍「足利義昭」を迎えてー「織田信長」と対立。
後に、「豊臣秀吉」に従い転戦し、中国7ヶ国などを安堵された。
「徳川家康」に敵対ー関ヶ原の戦いで総大将にー家督相続後も実権を握っていたと云う。広島城は1600年まで、
別称、「鯉城」。広島城があった一体は昔「己斐浦」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと云う。
広さ約12万㎡。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもの、。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城。
「福島正則」(1600-1619)は、尾張国海東郡二寺村(愛知県海部郡美和町)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えた伝えられ、正則の名が広く知れ渡るのは、1583年の「賤ケ岳合戦」で、正則は一番鑓・一番頸の活躍をしました。これにより、正則ら七名は 「賤ケ岳の七本鑓」 として称賛され、正則の働きは他の面々より上とされた。
恩賞では別格の扱いを受けました。その後、天正15年・1587年には、伊予国今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、1595年には、
尾張国清洲(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領している。
秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となる。
浅野氏入国は、元和5年・1619年、福島氏の改易が決定。
二代将軍徳川秀忠は、「中国の要め」 である広島に、紀伊和歌山城主の「浅野長晟」を配置することとし、安芸一国と備後八郡、合わせて「42万6,500石」を与えた。
加増・転封にあたっては、長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視されたものと考えられ、福島氏と同じく、毛利氏に対する牽制も期待されたと考えられている。
長晟は、まず広島城請け取りのための家臣を出発させた後、和歌山を発ち海路広島へ向い、長晟が広島城へ入城したのは、数月後の、 8月8日のことと
伝えられている。浅野家と広島城は、1619-明治4年まで
1619-1632 浅野長晟・1632-1672 光晟・1672-1673 綱晟・1706-1752 吉長・1752-1763 宗恒・1763-1799 重晟・1799-1830
斎賢 1830--1858、、、、。
「毛利家の城、安芸高田・郡山城」は、山城跡と毛利家の墓、旅行に予定したが悪天候、国道29号線光井山と甲山に狭まれた山で不便である。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城。
江戸時代中期に書かれた「広島藩御覚書帖」で、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていたと云う。
1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では、岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)。
この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた。
「承久の乱」以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし
「厳島の戦い」で陶氏(大内氏)に勝利したことにより、毛利氏によって支配されることになる。
それまでの毛利氏の居城である「吉田郡山城」は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、
領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた。
毛利輝元時代の天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを
城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代。
山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭な地域。
そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めたのであろう。
1588年、毛利輝元は、豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。
一説には、1558年-1569年の輝元の祖父である「元就」のころから、現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあったという。
縄張を秀吉の側近で築城の名手である「黒田如水」が思案した。如水が築城に絡んだ理由として以下のことが語られていると云う。
黒田如水この築城は同時期に進行しつつあった秀吉の朝鮮出兵に於ける前線基地となった名護屋城と、秀吉の拠点である大阪城や聚楽第を海路で繋ぐ中継基地(秀吉の宿泊所)としての期待をされたため、秀吉が築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣したという話。
平らな低湿地帯へ築城することに決まった際、家臣団の中で比治山山頂に築城する案と揺れ、そこで輝元の叔父である小早川隆景の友人である黒田如水にアドバイザーとして参加を依頼。
黒田如水は堅城となりうるとして低地案を推進し縄張を考案。
後日、秀吉がこの城を見物し「要害が悪い。水攻めをされたらひとたまりもない。」と評価した。
毛利輝元は黒田如水に騙されたと憤慨したが、小早川隆景は、「要害の悪い城だからこそ安全。毛利の城の要害が良かったら、謀反の恐れあり、と警戒される。」と諌めたと云う。
秀吉は、毛利氏を弱体化させるため(浅瀬に築城したため島普請に相当な出費をしたことからも)に黒田如水を派遣した、という話もある。
1864年、第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。
この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。
戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。
広島城全域が広島城址公園。となっており、復元された大天守は、歴史博物館として利用。
公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は財団法人広島市未来都市創造財団が指定管理者として、
広島護国神社は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理。
次回は、平和公園へ。