吉野桜-奈良県中央部・吉野郡吉野町にある吉野川南岸から大峰山脈へと南北に続く約8kmに及ぶ尾根続きの山稜の総称を云う。
吉野桜に劣らない「桜の名所」、私の子供の頃の王子へよく出掛けた。
また王子は、「名主の滝」「飛鳥山の千本桜と夜桜」「太田道灌・徳川吉宗鷹狩り」「昔は、カワラ投げの出来る山」「トロリーバスと都電荒川線」
駅は、本郷通りであったように記憶している。
公園は、明治6年に定められた我が国最初の公園の一つで、浅草・上野・芝・深川・飛鳥山が「東京市5大公園」であった。
このあたりは、古墳・遺跡が多く、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されている。
飛鳥山という地名は、鎌倉時代末の1321~24年に、豊島佐衛門が紀州熊野の飛鳥明神と若一王子社(後の王子神社)を遷したところからと云う。
昔、この丘の地主山(昔展望台があった所)には、飛鳥明神の祠が祀られていたとも云う。
八代将軍吉宗は鷹狩りの際に、良く、飛鳥山を訪れ、1720年から翌年にかけて1270本の山桜の苗木を植裁したと云う。
1737年には、この地を王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せ、飛鳥山を江戸庶民にも開放された。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、たいへんな賑わいと云う。
東側の崖からは“カワラケ投げ(土皿を風に乗せて遠くまで飛ばす遊び)も盛んに行われていたが、明治の末になって、危険防止の為に禁止に。
徳川吉宗が1720年桜の苗木を 筑波山が 六石坂
1737年吉宗は、庶民に一般解放・お茶屋も許可している
飛鳥山公園内にある石碑。この碑文は吉宗が飛鳥山を公共園地として整備し、王子権現に寄進したことを記念して成島道筑によって作成されたもので、尾張の医者山田宗純の書。碑文には熊野の神々のことや、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来などが記されている。しかし、異体字や古字を用いたり、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど、難解な碑文であり、
「飛鳥山何と読んだか拝むなり」
「この花を折るなどろうと石碑みる」
など川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていたそうです
1737年「飛鳥山の碑」(読めない碑)・1881年「桜賦の碑」(佐久間象山の書、門弟勝海舟の意で碑に)
安政3年5月改印の絵が続く。絵本江戸土産の4編に、飛鳥山という題の絵があるが、富士山や飛鳥山の碑があることから、西向きを描いた絵であることがわかり、筑波山が見えるこの絵は北向きであることから、方向がことなる。一方、江戸土産の中の「道灌山」という絵があり、特に土器(かわらけ)投げをしている親子がそっくりである。
広重は、江戸土産の2つの絵の要素を組み合わせることで、この絵を完成させたうだ。
1899年農業技師・船津伝次平顕彰の碑もある(大久保利通の招きで) 飛鳥山近辺の遺跡等は貴重な史料と云う
豊島氏は平安時代から続く南武蔵の名族で、石神井城(東京都練馬区)を本拠としていた。室町時代には関東管領上杉氏に属している。
江戸時代の系図類で祖父とされる豊島宣泰(勘解由左衛門尉)と父とされる経祐(新次郎)が文明3年(1471年)に関東管領上杉顕定から上野国館林城攻撃で奮戦したことを賞する感状が残っており、泰経の史料上の活動時期(文明9年(1477年)から文明10年(1478年))と非常に近いことから、これは泰経(勘解由左衛門尉)とその弟の泰明(平右衛門尉)ではないかという見方もある。
関東管領上杉顕定(山内上杉家)の有力家臣である長尾景春は家宰職を奪われたことを深く恨み、文明8年(1476年)に反乱をおこし、文明9年(1477年)正月に顕定の在陣する五十子の陣を襲って敗走せしめた(長尾景春の乱)。
長尾景春の挙兵に相模国、武蔵国の国人が呼応し、上杉氏を危機に陥れた。妻が長尾景春と兄弟である泰経もこれに与同する。泰経の本拠石神井城(東京都練馬区)の近くに扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城(東京都千代田区)を築城しており、このことが豊島氏の権益を侵して太田氏との対立になったと考えられている。また、景春の白井長尾家は二代続けて山内家家宰職を出しており、豊島氏は白井長尾家の指揮下にあったという説もある.
飛鳥山は武蔵野台地本郷台の東縁が石神井川(音無川/王子川)による侵食によって形成された舌状台地で、これ迄の発掘調査から、縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出されている他、公園南方の財務省印刷局滝野川工場からJR京浜東北線上中里駅、地下鉄南北線西ヶ原駅付近にかけて律令期の豊島郡衙跡が検出されており、先史時代から中世にかけての複合遺跡として注目されています。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』王子村の王子権現社(現在の王子神社)社宝の条に、「古刀一腰 近キ年飛鳥山ヨリ掘得タリト云。古代ノ制ナリ。若クハ、明器ニ埋ヨシモノニヤトイヘリ。図右ノ如シ。」と、飛鳥山出土の直刀を図と共に紹介しています。
飛鳥山出土古刀の図
「長二尺一寸五分」とあるので、凡そ65cmになる。
これは飛鳥山古墳群の古墳の副葬品である可能性が高いでしょう。今でも王子神社に残っているのかどうか気になる所です。
こうした記録があり、現存する古墳が存在していたにも関わらず、飛鳥山に古墳が存在することは近年迄忘れられておりましたが、1971年に台地の西北端の「地主山」と呼ばれるマウンド状の地形が古墳ではないかと考えられ、発掘調査が行われました。その結果、マウンド中央部で粘土や焼土が検出されましたが、古墳の埋葬施設とは考えにくく、「地主山」が古墳か否か疑問を残すこととなりました。
続いて1989年に旧青少年センター裏手に当たる旧渋沢邸庭園内の塚状の高まりが古墳ではないかとされ、発掘調査されました。その結果、周溝と須恵器の破片が検出され、古墳時代後期の径31mの円墳と判明。「飛鳥山1号墳」と命名されました。平成5年の調査では切石積みの胴張を有する横穴式石室の残骸が発見されると共に、太刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉といった副葬品が出土し、これらの特徴から7世紀台築造の円墳であろうとされています
最近の調査では別地点から更に円墳の周溝跡(飛鳥山2号、3号墳)が検出された他、旧渋沢邸庭園内の四阿の土台となっている築山も古墳を流用したものではないかと推定されており、飛鳥山の台地上には円墳を主体とする古墳群が形成されていたものと考えられています。また、1937年に現在の噴水広場付近の崖面から工事中に人骨や牡蠣殻が見つかった事があり、高塚古墳ばかりでなく横穴墓の存在も推定されている。
付近の既知の古墳としては、石神井川対岸の台地上に所在する王子稲荷裏古墳、飛鳥山西方の滝野川地区のいずれも円墳と推定される滝野川古墳と四本木稲荷古墳が知られている
縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出・公園南方へ。
「西ヶ原貝塚」
古河庭園・飛鳥山の武蔵野台地東緑と谷川低地部に挟まれた海抜22mにある。その低地に向かう埋没谷東西約150m・南北約180m。その西側は
縄文時代中期で住居跡が確認されていると云う。東側貝塚では、縄文後期で中小規模の貝塚が累積されている。保存状態も良いと云う。
「中里遺跡出土丸木舟」
武蔵野台地崖下に、広い低地に遺跡が、縄文時代の前期の丸木舟と大量の貝塚が出土している。
可なり進歩していたのでは?
吉宗はこの地に桜1270本を植え、士農工商を問わず広く江戸の人びとに開放しました。
時の町奉行、大賀越前が音無川の川岸に水茶屋を建てることを許可したことも手伝って、飛鳥山は一躍桜の名所となる。
樹齢の大木が 明治・大正の美しい上品な女性たち
桜の名所として有名な公園。徳川8代将軍吉宗は、綱吉以来禁止されいた鷹狩りを復活し、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れていたが、この地が自分の出身地の紀州にゆかりがある事を知り、享保5年(1720)から翌年にかけて千270本の山桜の苗木を植裁した。元文2年(1737)には、旗本の領地だったこの地を返還させ、王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。
吉宗は享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのである。
当時桜の名所といえば上野だったが、そこは武家中心の場所で、「酒宴」や「仮装」は禁止されていた。それに対して、飛鳥山は向島とともに庶民に開放されており、仮装した人たちによるにぎやかな花見が行われた。江戸の新
しい花見の名所として誕生した飛鳥山では、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しんだ。落語「花見の仇討ち」の舞台がこの飛鳥山公園である。
1941年製造D51蒸気機関車・1949年6000形電車、この近辺のイメージは「都電」
「町奉行大賀越前」
3代将軍家光の寛永8年(1631)10月に、加賀爪民部少輔忠澄を北・町奉行に、堀民部少輔直之を南・町奉行に任じた。
この時から役宅を作って月番(隔月交替)で執務させたのが、江戸町奉行の始まりである。
享保年代以降の南町奉行所は大岡越前守が設計したものであり、「大岡越前守御役屋敷絵図」によると、その概要は、総坪数2,617坪、建坪1,809坪(この内、役所向き375坪、住居向き157坪)とあり、この大岡の設計は基本的にそのまま幕末の慶応4年(1868)まで踏襲されたという。
その時代この辺りを「大賀郷」で、町奉行所の別称であろう?。
町奉行の政務を執るところを町奉行所というが、これらは役職上からいう言葉で、江戸時代の人々は多くは御番所、または御役所といった。
町人達が町奉行所というのはおかしいことで、御番所、御役所と通称しており、町奉行などとは言わずに御奉行・御奉行様などといった。
御歩業・御奉行様ということは町奉行に限ったことで、寺社奉行・勘定奉行の意は含まれない。
町民にとっては、かかわりのある奉行とは町奉行だけであったと云う。
飛鳥山には三つの博物館がある。北区飛鳥山博物館・渋沢史料館・紙の博物館
「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正の実業家でリーダー(前回の埼玉、深谷、大里郡で取り上げています)
1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行し、パリ万博覧会に、そこで、各国の近代的産業設備や経済制度を見聞、我が国の近代産業の推進する上で役立ったと云う。日本最初の「合本組織・株式会社」大蔵省租税司を退官後実業家に専念、王子製紙・東京瓦斯、、500社余の会社を設立。
渋沢史料館・旧庭園 博物館
ナポレオン三世の開くフランス・パリ世界大博覧会に徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行。
ヨーロッパ滞在中、洋装に変えている。「議会・商取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道・・」見学し、進んだ文明に驚き、人間平等主義など
感銘を受けたとある。
渋沢史料館(庭園) 飛鳥山別荘 晩年本邸を構えていた
栄一は、倒幕を「侍が威張るのは、幕政悪し、階級制度が間違い」と反発し、「高崎城」乗っ取り、徳川幕府打倒計画に、が、10歳年上長高の弟
長七郎の京都での見聞で反対し中止している。
24歳で栄一は従兄弟の喜作と世の情勢を探るため京都へ、1864年、そこで一橋家の重臣「平岡円四郎」の勧めで15代将軍徳川慶喜に仕官する。
歩兵の募集・財政の改革・事業運営などを行い頭角を現したと云う。
渋沢史料館(庭園) 東京大空襲で大部分焼失
栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、父から学び、7歳で尾高惇忠に習う、栄一が通った道を「論語の道」と呼ばれている。又その周辺を「論語の里」
呼んでいる。母「えい」の影響大で、人に対し「慈悲」を大事にしている。
社会福祉活動に熱心で、1874年「東京市養育院」・「孤児院」など、56年間も関わり続けている。教育でも、「現一橋大学・日本女子大・慈恵医大
聖路加国際病院・日本結核予防協会、、」設立・運営に関わっている。
渋沢史料館(庭園) 晩香盧・青淵文庫・暖依村荘跡庭園等は大正時代の建物
栄一と世界文化遺産・富岡製糸所
殖産興業推進の明治政府は、明治3年、外貨獲得の為「模範的洋式製糸工場」の建設を計画、栄一主導のもと、尾高惇忠を創立責任者に任命、フランスの
技師ポール・ブリュナを建築技術者に迎えている。明治5年完成させている。
渋沢史料館 (前回の埼玉シリーズ深谷をご覧ください・レンガ工場等)
「北区飛鳥山博物館」
三つの博物館の真ん中にある。北区の郷土博物館。
常設展示は、1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示。
荒川の生態系を取り上げた展示により構成されている。企画展示、春と秋の年2回。スポット展示も、(浮世絵にみる北区の近代)
区博物館
区博物館
区博物館
吉野桜は20年ほどで立派な花が咲くことから比較的早く成木になり、花見の名所をあまり年月をかけずに整えるには有力な桜であった。
享保5年(1720年)から植えられ、享保18年(1733年)に花が咲き初め、元文2年(1737年)吉宗自身がこの地で花見を行っている。
ちなみに現在の桜の代名詞である染井吉野は10年ほどで成木になるのでさらに早い。ただ老木になるのも早かった。
「江戸を知る事典」によると、「寛政年間以降は、ほとんど放置されたままだったので、桜の木は多くが枯れてしまい、わずかとなってしまったという」とある。
江戸名所図会を見ても桜はまばらで、墨堤などと比べると貧弱であった。しかしその後も桜の名所には変わらなかった。
紙の博物館
江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけては、江戸近郊の一大行楽地・観光地であった。
徳川家康が王子権現を崇拝・保護し、更に徳川吉宗は郷里の「熊野権現信仰」である王子権現に特別な感情を持っていた。王子神社から石神井川沿いに、紀州の地名を冠して、王子・滝野川一帯を江戸市民の観光地とした。春は飛鳥山の桜、秋は滝野川の紅葉が有名になった。上野の桜は、寛永寺境内にあったため、花見の宴は許されていなかった。
そこで吉宗は、自ら飛鳥山に赴き花見の宴会を催した。「公方様にあやかれ」と、一般庶民もどっと飛鳥山へ押し寄せるようになり、飛鳥山の花見は、以来今日までずっと続いている。
紙の博物館
次回は、王子神社・稲荷神社・名主の滝へ。
吉野桜に劣らない「桜の名所」、私の子供の頃の王子へよく出掛けた。
また王子は、「名主の滝」「飛鳥山の千本桜と夜桜」「太田道灌・徳川吉宗鷹狩り」「昔は、カワラ投げの出来る山」「トロリーバスと都電荒川線」
駅は、本郷通りであったように記憶している。
公園は、明治6年に定められた我が国最初の公園の一つで、浅草・上野・芝・深川・飛鳥山が「東京市5大公園」であった。
このあたりは、古墳・遺跡が多く、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されている。
飛鳥山という地名は、鎌倉時代末の1321~24年に、豊島佐衛門が紀州熊野の飛鳥明神と若一王子社(後の王子神社)を遷したところからと云う。
昔、この丘の地主山(昔展望台があった所)には、飛鳥明神の祠が祀られていたとも云う。
八代将軍吉宗は鷹狩りの際に、良く、飛鳥山を訪れ、1720年から翌年にかけて1270本の山桜の苗木を植裁したと云う。
1737年には、この地を王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せ、飛鳥山を江戸庶民にも開放された。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、たいへんな賑わいと云う。
東側の崖からは“カワラケ投げ(土皿を風に乗せて遠くまで飛ばす遊び)も盛んに行われていたが、明治の末になって、危険防止の為に禁止に。
徳川吉宗が1720年桜の苗木を 筑波山が 六石坂
1737年吉宗は、庶民に一般解放・お茶屋も許可している
飛鳥山公園内にある石碑。この碑文は吉宗が飛鳥山を公共園地として整備し、王子権現に寄進したことを記念して成島道筑によって作成されたもので、尾張の医者山田宗純の書。碑文には熊野の神々のことや、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来などが記されている。しかし、異体字や古字を用いたり、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど、難解な碑文であり、
「飛鳥山何と読んだか拝むなり」
「この花を折るなどろうと石碑みる」
など川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていたそうです
1737年「飛鳥山の碑」(読めない碑)・1881年「桜賦の碑」(佐久間象山の書、門弟勝海舟の意で碑に)
安政3年5月改印の絵が続く。絵本江戸土産の4編に、飛鳥山という題の絵があるが、富士山や飛鳥山の碑があることから、西向きを描いた絵であることがわかり、筑波山が見えるこの絵は北向きであることから、方向がことなる。一方、江戸土産の中の「道灌山」という絵があり、特に土器(かわらけ)投げをしている親子がそっくりである。
広重は、江戸土産の2つの絵の要素を組み合わせることで、この絵を完成させたうだ。
1899年農業技師・船津伝次平顕彰の碑もある(大久保利通の招きで) 飛鳥山近辺の遺跡等は貴重な史料と云う
豊島氏は平安時代から続く南武蔵の名族で、石神井城(東京都練馬区)を本拠としていた。室町時代には関東管領上杉氏に属している。
江戸時代の系図類で祖父とされる豊島宣泰(勘解由左衛門尉)と父とされる経祐(新次郎)が文明3年(1471年)に関東管領上杉顕定から上野国館林城攻撃で奮戦したことを賞する感状が残っており、泰経の史料上の活動時期(文明9年(1477年)から文明10年(1478年))と非常に近いことから、これは泰経(勘解由左衛門尉)とその弟の泰明(平右衛門尉)ではないかという見方もある。
関東管領上杉顕定(山内上杉家)の有力家臣である長尾景春は家宰職を奪われたことを深く恨み、文明8年(1476年)に反乱をおこし、文明9年(1477年)正月に顕定の在陣する五十子の陣を襲って敗走せしめた(長尾景春の乱)。
長尾景春の挙兵に相模国、武蔵国の国人が呼応し、上杉氏を危機に陥れた。妻が長尾景春と兄弟である泰経もこれに与同する。泰経の本拠石神井城(東京都練馬区)の近くに扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城(東京都千代田区)を築城しており、このことが豊島氏の権益を侵して太田氏との対立になったと考えられている。また、景春の白井長尾家は二代続けて山内家家宰職を出しており、豊島氏は白井長尾家の指揮下にあったという説もある.
飛鳥山は武蔵野台地本郷台の東縁が石神井川(音無川/王子川)による侵食によって形成された舌状台地で、これ迄の発掘調査から、縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出されている他、公園南方の財務省印刷局滝野川工場からJR京浜東北線上中里駅、地下鉄南北線西ヶ原駅付近にかけて律令期の豊島郡衙跡が検出されており、先史時代から中世にかけての複合遺跡として注目されています。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』王子村の王子権現社(現在の王子神社)社宝の条に、「古刀一腰 近キ年飛鳥山ヨリ掘得タリト云。古代ノ制ナリ。若クハ、明器ニ埋ヨシモノニヤトイヘリ。図右ノ如シ。」と、飛鳥山出土の直刀を図と共に紹介しています。
飛鳥山出土古刀の図
「長二尺一寸五分」とあるので、凡そ65cmになる。
これは飛鳥山古墳群の古墳の副葬品である可能性が高いでしょう。今でも王子神社に残っているのかどうか気になる所です。
こうした記録があり、現存する古墳が存在していたにも関わらず、飛鳥山に古墳が存在することは近年迄忘れられておりましたが、1971年に台地の西北端の「地主山」と呼ばれるマウンド状の地形が古墳ではないかと考えられ、発掘調査が行われました。その結果、マウンド中央部で粘土や焼土が検出されましたが、古墳の埋葬施設とは考えにくく、「地主山」が古墳か否か疑問を残すこととなりました。
続いて1989年に旧青少年センター裏手に当たる旧渋沢邸庭園内の塚状の高まりが古墳ではないかとされ、発掘調査されました。その結果、周溝と須恵器の破片が検出され、古墳時代後期の径31mの円墳と判明。「飛鳥山1号墳」と命名されました。平成5年の調査では切石積みの胴張を有する横穴式石室の残骸が発見されると共に、太刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉といった副葬品が出土し、これらの特徴から7世紀台築造の円墳であろうとされています
最近の調査では別地点から更に円墳の周溝跡(飛鳥山2号、3号墳)が検出された他、旧渋沢邸庭園内の四阿の土台となっている築山も古墳を流用したものではないかと推定されており、飛鳥山の台地上には円墳を主体とする古墳群が形成されていたものと考えられています。また、1937年に現在の噴水広場付近の崖面から工事中に人骨や牡蠣殻が見つかった事があり、高塚古墳ばかりでなく横穴墓の存在も推定されている。
付近の既知の古墳としては、石神井川対岸の台地上に所在する王子稲荷裏古墳、飛鳥山西方の滝野川地区のいずれも円墳と推定される滝野川古墳と四本木稲荷古墳が知られている
縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出・公園南方へ。
「西ヶ原貝塚」
古河庭園・飛鳥山の武蔵野台地東緑と谷川低地部に挟まれた海抜22mにある。その低地に向かう埋没谷東西約150m・南北約180m。その西側は
縄文時代中期で住居跡が確認されていると云う。東側貝塚では、縄文後期で中小規模の貝塚が累積されている。保存状態も良いと云う。
「中里遺跡出土丸木舟」
武蔵野台地崖下に、広い低地に遺跡が、縄文時代の前期の丸木舟と大量の貝塚が出土している。
可なり進歩していたのでは?
吉宗はこの地に桜1270本を植え、士農工商を問わず広く江戸の人びとに開放しました。
時の町奉行、大賀越前が音無川の川岸に水茶屋を建てることを許可したことも手伝って、飛鳥山は一躍桜の名所となる。
樹齢の大木が 明治・大正の美しい上品な女性たち
桜の名所として有名な公園。徳川8代将軍吉宗は、綱吉以来禁止されいた鷹狩りを復活し、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れていたが、この地が自分の出身地の紀州にゆかりがある事を知り、享保5年(1720)から翌年にかけて千270本の山桜の苗木を植裁した。元文2年(1737)には、旗本の領地だったこの地を返還させ、王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。
吉宗は享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのである。
当時桜の名所といえば上野だったが、そこは武家中心の場所で、「酒宴」や「仮装」は禁止されていた。それに対して、飛鳥山は向島とともに庶民に開放されており、仮装した人たちによるにぎやかな花見が行われた。江戸の新
しい花見の名所として誕生した飛鳥山では、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しんだ。落語「花見の仇討ち」の舞台がこの飛鳥山公園である。
1941年製造D51蒸気機関車・1949年6000形電車、この近辺のイメージは「都電」
「町奉行大賀越前」
3代将軍家光の寛永8年(1631)10月に、加賀爪民部少輔忠澄を北・町奉行に、堀民部少輔直之を南・町奉行に任じた。
この時から役宅を作って月番(隔月交替)で執務させたのが、江戸町奉行の始まりである。
享保年代以降の南町奉行所は大岡越前守が設計したものであり、「大岡越前守御役屋敷絵図」によると、その概要は、総坪数2,617坪、建坪1,809坪(この内、役所向き375坪、住居向き157坪)とあり、この大岡の設計は基本的にそのまま幕末の慶応4年(1868)まで踏襲されたという。
その時代この辺りを「大賀郷」で、町奉行所の別称であろう?。
町奉行の政務を執るところを町奉行所というが、これらは役職上からいう言葉で、江戸時代の人々は多くは御番所、または御役所といった。
町人達が町奉行所というのはおかしいことで、御番所、御役所と通称しており、町奉行などとは言わずに御奉行・御奉行様などといった。
御歩業・御奉行様ということは町奉行に限ったことで、寺社奉行・勘定奉行の意は含まれない。
町民にとっては、かかわりのある奉行とは町奉行だけであったと云う。
飛鳥山には三つの博物館がある。北区飛鳥山博物館・渋沢史料館・紙の博物館
「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正の実業家でリーダー(前回の埼玉、深谷、大里郡で取り上げています)
1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行し、パリ万博覧会に、そこで、各国の近代的産業設備や経済制度を見聞、我が国の近代産業の推進する上で役立ったと云う。日本最初の「合本組織・株式会社」大蔵省租税司を退官後実業家に専念、王子製紙・東京瓦斯、、500社余の会社を設立。
渋沢史料館・旧庭園 博物館
ナポレオン三世の開くフランス・パリ世界大博覧会に徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行。
ヨーロッパ滞在中、洋装に変えている。「議会・商取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道・・」見学し、進んだ文明に驚き、人間平等主義など
感銘を受けたとある。
渋沢史料館(庭園) 飛鳥山別荘 晩年本邸を構えていた
栄一は、倒幕を「侍が威張るのは、幕政悪し、階級制度が間違い」と反発し、「高崎城」乗っ取り、徳川幕府打倒計画に、が、10歳年上長高の弟
長七郎の京都での見聞で反対し中止している。
24歳で栄一は従兄弟の喜作と世の情勢を探るため京都へ、1864年、そこで一橋家の重臣「平岡円四郎」の勧めで15代将軍徳川慶喜に仕官する。
歩兵の募集・財政の改革・事業運営などを行い頭角を現したと云う。
渋沢史料館(庭園) 東京大空襲で大部分焼失
栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、父から学び、7歳で尾高惇忠に習う、栄一が通った道を「論語の道」と呼ばれている。又その周辺を「論語の里」
呼んでいる。母「えい」の影響大で、人に対し「慈悲」を大事にしている。
社会福祉活動に熱心で、1874年「東京市養育院」・「孤児院」など、56年間も関わり続けている。教育でも、「現一橋大学・日本女子大・慈恵医大
聖路加国際病院・日本結核予防協会、、」設立・運営に関わっている。
渋沢史料館(庭園) 晩香盧・青淵文庫・暖依村荘跡庭園等は大正時代の建物
栄一と世界文化遺産・富岡製糸所
殖産興業推進の明治政府は、明治3年、外貨獲得の為「模範的洋式製糸工場」の建設を計画、栄一主導のもと、尾高惇忠を創立責任者に任命、フランスの
技師ポール・ブリュナを建築技術者に迎えている。明治5年完成させている。
渋沢史料館 (前回の埼玉シリーズ深谷をご覧ください・レンガ工場等)
「北区飛鳥山博物館」
三つの博物館の真ん中にある。北区の郷土博物館。
常設展示は、1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示。
荒川の生態系を取り上げた展示により構成されている。企画展示、春と秋の年2回。スポット展示も、(浮世絵にみる北区の近代)
区博物館
区博物館
区博物館
吉野桜は20年ほどで立派な花が咲くことから比較的早く成木になり、花見の名所をあまり年月をかけずに整えるには有力な桜であった。
享保5年(1720年)から植えられ、享保18年(1733年)に花が咲き初め、元文2年(1737年)吉宗自身がこの地で花見を行っている。
ちなみに現在の桜の代名詞である染井吉野は10年ほどで成木になるのでさらに早い。ただ老木になるのも早かった。
「江戸を知る事典」によると、「寛政年間以降は、ほとんど放置されたままだったので、桜の木は多くが枯れてしまい、わずかとなってしまったという」とある。
江戸名所図会を見ても桜はまばらで、墨堤などと比べると貧弱であった。しかしその後も桜の名所には変わらなかった。
紙の博物館
江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけては、江戸近郊の一大行楽地・観光地であった。
徳川家康が王子権現を崇拝・保護し、更に徳川吉宗は郷里の「熊野権現信仰」である王子権現に特別な感情を持っていた。王子神社から石神井川沿いに、紀州の地名を冠して、王子・滝野川一帯を江戸市民の観光地とした。春は飛鳥山の桜、秋は滝野川の紅葉が有名になった。上野の桜は、寛永寺境内にあったため、花見の宴は許されていなかった。
そこで吉宗は、自ら飛鳥山に赴き花見の宴会を催した。「公方様にあやかれ」と、一般庶民もどっと飛鳥山へ押し寄せるようになり、飛鳥山の花見は、以来今日までずっと続いている。
紙の博物館
次回は、王子神社・稲荷神社・名主の滝へ。