昔、大宮駅前の美味い「鰻屋」を思いだし、大宮駅を下車、街並みも変わり、探したが、見つかりませんでした。残念
大宮駅は、高崎線と東北本線の分岐点、1927年操車場で開業。以降東武野田線・京浜東北線・川越線・1982年東北・上越と新幹線開通、
1985年埼京線の開通等、県下最大の鉄道交通要地。

「大宮宿場」
関東平野中西部で、北は、群馬・東、千葉と茨城・北東部、栃木・南、東京・西、山梨と長野の6県に囲まれ、海なし県。
東西約107km・南北約60kmで、山地は秩父山地で後は関東平野。
約3万年前の県最古旧石器「藤久保遺跡・三芳町)」で発掘している。
716年下総・駿河など7ヶ国の高句麗人を移し高麗郡を置いている。
1457年「太田道真・太田道灌・父子」が、川越・岩槻などに城を築いている。1602年慶長時代に「中山道宿場」が定められ、伝馬制布令、、、。
江戸時代、中山道・日光街道・日光御成街道が整備され、利根川・荒川の治水土地開発が進められ、舟運がさかえ、米・野菜の供給地帯になっていった。
川越・岩槻の城下町に並んで「大宮宿」経済の中心。
柳沢吉保が三富新田を開発。
1694年,長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地であることが認められ、当時の川越藩主柳沢吉保は、
新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫ら家臣によって、開発。開発が始まってから2年後の 1696年、に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができ、これが三富新田。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと云う。三富の地割は、水に乏しく栄養が少ないという厳しい自然条件を克服するための知恵が詰まっていた。
JR大宮駅南口駅前

市名は、武蔵国一宮「氷川神社」が鎮座することに由来している。
宿場ー本陣1・脇本陣9・旅籠25以上と云う。
東京都心から30km圏の大宮市、住宅・デパート・大型店舗・金融機関と鉄道も埼京線乗り入れ人口流入地域。
江戸時代、大宮宿を行く交う人々を描いている(歌川広重・大宮宿富士遠景)

ビジネスと夜の歓楽街として,昭和から続く県内有数の歓楽街の銀座通りやすずらん通り。
明治の鉄道開通と大宮駅開業により、個人営業の商店街や住宅街が形成される。
駅の南は仲町の名の通り、中山道の宿場町としての中心街であった。南側がまず中心街に。
1901年、岡谷の片倉組・片倉工業、1907年に須坂の山丸組・山丸製糸、岡谷製糸大宮館といった、長野県系の器械製糸工場がこの付近に進出。
中山道との間に繊維関連の豪商が集中。
貨物の引込み線を自分たちの敷地に伸ばし、国鉄で信州や北関東から絹の材料を仕入れ、大宮で加工し、貿易地横浜へ出荷する商業体系が確立した云う。製糸や衣料関係の仲買人や卸売業者も中山道沿いに軒を連ねた。
大宮駅南口・仲町「すずらん通り」の飲食街を抜け住宅街から氷川神社参道に。



「東光寺」山号ー大宮山、草創以来880余年の歴史のある古刹寺。
1128年頃、紀伊国熊野那智山青岸渡寺光明坊の住侶「宥慶阿闍梨」が関東下向の時、足立原に宿泊し、大宮黒塚において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を呪伏させたとある。
その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創と云う。
当時は天台宗であり、熊野の光明が東国に輝いたところから坊号がつけられ、その後、1429〜1440年頃に梁室元棟大和尚が曹洞宗に改宗復興して開山。
梁室大和尚は、武州三田村の海禅寺(現在の青梅市二俣尾)の弟子であったため、海禅寺の末寺となったが、
江戸中期頃、同末で法縁の厚かった染谷の常泉寺の末寺に変わった。
1661〜1672年、11世鉄船大牛大和尚は、中仙道開通のため、清水屋、本陣山崎家による援護によって、寺域を現在地(宮町)へ移転し、伽藍を再興。
寺門興隆に努めた勲功により中興号が贈られている。
1696年には、14世拈山放牛大和尚によって鐘楼が建立され梵鐘を具えた。1721年、15世大津全教大和尚により新しく梵鐘が鋳造している。
東光寺本堂



「氷川神社」大宮公園内に鎮座、旧官弊大社。
祭神ー須佐之男命・稲田姫命・。
第5代孝昭天皇の代に創建されたと伝わる。聖武天皇の724-749年時は、「武蔵国一宮」に定められ「延喜式」で、「名神大社」に列せられている。
参道は、2kmに及び、社域は、10万m2。
老木の欅・杉・松等が続く参道 呉竹北 斎館 伐採された欅の根



この一帯は出雲族が開拓した地、武蔵国造は,出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の「簸川」(現在の斐伊川)に由来するという説がある。
参道中央の二之鳥 神舞殿



摂社に「門客人神社」がある。元々は「荒脛巾神社」と呼ばれ,アラハバキが「客人神」として祀られている。アラハバキ社は、氷川神社の地主神。
現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられている。
このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って氷川神社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとある。
末社(六社ある) 150年祭の祭り 神橋



平安時代後期、平貞盛が平将門の乱において氷川神社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰。
荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がったと云う。
1180年、には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進、1197年には、神馬神剣を奉納している。
5月には境内で恒例行事の大宮薪能が開催される。
手水舎 楼門 舞殿



「土肥実平」は、源頼朝側近武将・相模国中村庄司「宗平」の子。頼朝挙兵では一族最初から参加し備前・備中・備後の守護になり、京都警護にも。
小田原石橋山の戦いに敗れ、頼朝と行動したのは、一説では、実平一人と云う。
実平の子から始まる小早川氏ー安芸に移住し戦国武将になった。
拝殿・本殿

近世は、家康が関東に入ると、1596年、に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営。
江戸時代には幕府から社地三百石が寄進され、江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた
関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとして、1628年に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転。
これが現在に至る大宮の町となった。
1667年、には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立したと云う。
祈願絵馬 神池



明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村の満福寺(現・さいたま市北区日進町)へ退転され、神域である社有林が開かれて、県で最初の近代公園「大宮公園」として整備され、「氷川神社」鎮座。
神社の参道には、大きな3つの鳥居があり、それぞれ一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と呼ばれ、杉とケヤキの並木が続く。
住民に親しまれ、いろいろな祭事がとりおこなわれると云う。
特に、初詣客も多いことで知られている。約200万人以上の人が参拝に訪れ、全国でも10指に入るにぎわいとなる。
神酒 御参り



次回は、小江戸「河越・川越」方面へ。