syuの日記・気まま旅

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河越の戦い・小田原北条軍

2015-03-24 | 気まま旅

「北条氏康」 1515-1571 小田原北条氏三代目の名将
二代目氏綱の長男、扇谷上杉氏・山内上杉氏を武蔵国河越で破り、「古河公方」を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領国拡大、税制改革・検地を推進した。
「北条綱成」守「河越城」が、扇谷上杉氏・山内上杉・古河公方連合軍8万に囲まれる。
氏康は、8千を率いて何度も援軍を何度も退却させている。
敵が安心し、気を緩めているのを見て、夜襲攻撃を掛け連合軍を撃破、潰走させた。世に云う「日本三大夜戦」の一つ。これで北条氏覇権決定する
氏康は、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べと遺言を残し没している。

                    現在の川越
    

1537年、北条氏綱は、「河越城」に軍勢を進め、7月、「三ツ木」に着陣。
朝興の跡を継いだ上杉朝定が河越城に、氏綱の出陣を知ると15日に出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入り乱れての戦いがはじまりました。
これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いで、この地から川越にかけて、戦場になったと伝えられている。
合戦は、城を出て戦った上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の叔父の朝成も生け捕りになったことなどにより、北条氏の勝利。
河越城は、後北条氏に奪われ、上杉朝定は、家臣の難波田弾正が依る松山城(東松山市)へ逃げたと云う。

「柏原城址・城山砦址」は、狭山市の西武柏原ニュータウンという住宅地の背後にある、入間川の河岸段丘の高台が城山砦すなわち山内上杉氏の城址。
1545年、北条氏康は、河越城に籠城する福島綱成等3千の後北条兵を援護するため、城をとり巻く8万の両上杉と古河公方の三派連合軍へ夜討ちをかける。この戦いが「日本三大奇襲」の一つといわれている「川越夜戦」。
山内上杉憲政が陣を張った所がこの城山であるといわれている。
「新編武蔵風土記稿」(1830年)には「土人は『上杉城』と称す」と記されている。おそらくは、この城にも、4月20日夜半に、北条氏綱の軍勢が押し寄せ、漆黒の闇の中での混乱したであろう。

 「河越の戦い」           扇谷・山内上杉氏を次々破り、関東南半分を支配する北条氏   
    

関東管領「上杉家・四分家」が治め、上杉謙信の長尾家も上杉家の守護代格の家で、越後守護代。
関東騒乱の果てに上杉四家のうち、扇谷上杉氏と山内上杉家が残って激しく争っていた。
後北条家も初めは扇谷上杉家の被官。扇谷上杉定正が家老の太田道灌が力があることに不安感を持ち、入浴中に暗殺、
その後、没落。 今川とは親しく、同盟もある「後北条家」は西に侵攻できず、東の関東平野に出進。
手を組んだ両上杉とジリジリした戦いを続ける。
河越城にこもった北条軍を両上杉軍が包囲、落城は時間の問題まで、油断している包囲軍に「後北条軍」は、奇襲し大勝を収めた。
関東平野に大きな地歩を築いた後北条家は以降、群馬・越後へと拡大していく。
勢力が窮した山内上杉憲政は、(長尾景虎・謙信の養子に)関東奪回を。
油断した大軍の包囲軍に夜襲をかけ、大混乱に持ち込む。

「日本三大奇襲」ー毛利元就と陶晴賢「厳島の戦い」・織田信長と今川義元「桶狭間の戦い」・「河越の戦い」。


「川越城の歴史」
中世は、「扇谷上杉持朝」が古河公方足利成氏に対抗するため、1457年、に家臣の「太田道真(資清)・道灌(資長)父子」に命じて築城。
規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定。
1537年、後北条氏の占拠するところとなり、1546年、川越城の奪回を図った上杉氏は、後北条氏の奇襲に会い、大敗して群馬に逃れ、
それ以後、後北条氏の支配が決定的となる。
川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むとともに、城代として譜代の重臣・大道寺氏を配置している。
1590年、、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城。
徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図り、川越には「酒井重忠」が1万石をもって封じられた。
川越藩の基礎が成立する。
1639年、に藩主となった「松平信綱」は、城の大幅な拡張・整備を行い、
近世城郭の形態を整え、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いてー4万6千坪。

明治維新に至るまで、幕府の要職にある大名が置かれた川越城は、「日本100名城」の選定を受けている。
工事も終わり、平成19年に、築城550年を迎え、市内各地でイベントが行われたと云う。

太田道灌築城は、「河越の夜戦」上杉扇谷・山内・古河公方軍8万。北条軍8千の奇襲で敗北


「川越市教育委員会の案内板には」
「天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。
しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年までよく持ちこたえた。
やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。
この砂久保は、川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。」
このとき後北条方は、攻めては退く詭計を繰り返し、河越城の城兵の命と引き換えに城を明け渡す、などと交渉を、
その間に、川越城籠城の福島綱成の弟、福島弁千代が角兵衛獅子に身を変えて城中へ忍び込み、兄綱成へ連絡をとったという伝承があると云う。

         江戸時代は、「川越城」と「喜多院には、春日局の化粧の間」があったと云う
  

「古社の日枝神社」
円仁・慈覚大師が喜多院を創建ー830年し、その鎮守として貞観2年の860年に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。
東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年・1478年、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。

本殿は、朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。

                     
    

「北条氏政」1538-90   氏康の長男・小田原北条氏4代目、国府台で里見・太田連合破り北関東制圧、豊臣秀吉上洛要請に応じず降伏後切腹。
「北条氏直」1562-91   北条100年王国の幕引き、5代目、大阪に住み30歳で没す、北条の復活を諦めていなったと云う。
「北条氏規」1545-1600  氏康の五男、家康と竹馬の友、韮山城主、河内国7000石貰う

次回は、川越の続き、家康重臣「天海・喜多院」等。