私の誕生日は8月15日、昭和20年8月15日が終戦日である。
疎開先の埼玉県秩父・影森小学校に入学してすぐ、敵機「グラマン」アメリカ戦闘機が山に墜落し、パイロットが落下傘でに不時着、その現場で初めてアメリカ兵を見たのと、8月14日終戦日の前日、それも夜間に「熊谷大空襲」があり、影森から熊谷の町が燃え、明るく見えたのを思い出した。
終戦日、陛下の玉音放送は、残留兵と夏休みであったが校庭で聞き、小学一年生の私には、意味が理解できなかった。
その戦争が負けたのを知ったのは、家族と上野駅に降り、焦げ多匂いと荒廃した東京を見た時である。
桶川飛行学校は、昭和10年開設された熊谷陸軍飛行学校の桶川分教場として、昭和12年6月に開設。
校舎は、荒川に架かる太郎右衛門橋の上流の高台にあり、戦後、外地からの引揚者の寮などとして使われていた。
今も建物の一部が残って、 滑走路は、現在の本田航空株式会社の滑走路とほぼ同じ位置に、幅300、長さ2,000メートルの滑走路、滑走路と本田航空社屋の中間の堤防上には、38×47メートルの格納庫、基礎や井戸の跡が。
今の桶川陸軍飛行学校分教舎の回り
昭和12年頃から16、17年まで、他の兵科から飛行兵を希望して入隊してきた召集下士官、昭和18年ごろからは桶川教育隊と呼ばれ、少年飛行兵や、
学徒動員により大学、専門学校を繰り上げ卒業などして入隊した特別操縦見習士官など、昭和20年までの8年間に20期余り、推定1,500-1,600名の飛行兵を教育したのではと云う。
戦況が険しくなり、飛行兵の需要が急増してきたころの昭和18年、卒業した少年飛行兵第12期生は、45名中18名が戦死、19年卒業した特別操縦見習士官第1期生は、80余名中20名近くが戦死と云う。
知覧基地ー出陣
昭和20年、熊谷飛行学校は廃止、本校と桶川教育隊(桶川分教場)などの教育隊は、第52航空師団に改編され、特攻攻撃の訓練基地となる。
各地から特攻隊を編成した隊員が来て特攻攻撃の訓練を行い、昭和20年4月、特攻隊員12名が知覧に向け出発。
99式高等練習機という2人乗りの練習機で、6機の後部座席には整備員が乗り、山口県の小月飛行場まで送り出されている。
特攻隊員として、桶川飛行学校で訓練をしていた多田計之少尉が写した写真を手がかりに調査の結果、同 乗した整備員の証言を得ることができたと云う。山田信義少尉を隊長とする第79振武特別攻撃隊で、小月飛行場についた翌日、特攻隊員は、特攻の前線基地である知覧基地に向かい、昭和20年4月16日、沖縄の海に向け出撃。
飛行機の補充が続かなくなってきた陸軍は、練習機まで特攻に出撃させるようになったといわれる。
記録によると、この第79振武隊の99式高等練習機12機が初めて、旧式の偵察機を改造したもので、川越から塗装業者を呼んで、実戦機のように灰緑色に塗装し、当時の敵機に比べ、時速や馬力で大きく劣っていたと云う。
元整備員は証言していると云う。 桶川から飛び立ち知覧基地から出撃した12人の寄せ書きが、「知覧特攻平和会館」に残されていると云う。
隙間だらけの木造平屋と薄いガラス戸、さぞ寒かったであろう(涙が)
「嗚呼神風特別攻撃隊」
無念の歯がみ こらえつ 待ちに待ちたる 決戦ぞ 今こそ敵を ほうらんと 奮い起ちたる 若桜
この一戦に 勝たざれば 祖国の行くて いかならん 撃滅せよの 命うけし 神風特別攻撃隊、、、、、なおも御国の 護り神。
20年前訪れた薩摩半島最南端基地「知覧」を思い出していた。
飛行場周辺の松林に散在していた木造バラック建ての薄暗い粗末な「三角兵舎」
トタン板で補修された宿舎
「知覧節」
大隣岳から下の原ゆ見れば からす大根葉 今おだつ ホッソイホーツソイ
どこじゃだがよか かがよかばってん 瀬世じゃ門園の 権右衛門チョゲザ ホッソイホーツソイ、、、、。
知覧は、昭和16年「太刀洗陸軍飛行学校分教所」・「第六航軍特攻基地」現在「知覧運動公園」。
特攻観音参詣、遺品館に、館内は隊員達の遺影・顔写真・軍服・飛行帽・寄書・遺品などが展示されていた。出撃直前の別れの水盃を交わしてる写真
には涙した。
隊員達の2~3坪の花壇、それぞれ同期の名が・小さな弾薬庫が
「ホタル」
1945年6月、出撃の前夜、特攻隊員の宮川軍曹は「小母ちゃん、死んだらまた小母ちゃんのところへ、ホタルとなって帰ってくる」と鳥浜トメに言い残し
て鹿児島県知覧基地から出撃していった。ところがその夜、トメの家に、本当に一匹のホタルが入ってきたのである。この本の題名はこのエピソード
からとられた。軍の指定食堂を経営する鳥浜トメは長女の美阿子と次女の礼子とともに、出撃する特攻隊員を暖かく迎え、送りだした。隊員たちもトメ
を実の母親のように慕った。この本は、息づまるような状況のなか、日本人がどのように行動したかの貴重な証言である。
生々しい分教場・宿舎で、そのまま保存を
薩摩富士(開聞岳・922m)海門から西南へ飛び立ち、沖縄650km・約2時間の片道飛行であった。
モンペ姿下駄の知覧高女の少女達に見送られて、、、。
宮川軍曹は、富屋旅館の女主人に「僕が死んだら、蛍になって帰ってくるから、、、」
朝鮮出身の光山少尉は、アリランを歌い「僕の生命の残りをあげますからオバサンは、その分、長生きして下さい」
分教場の教室は、整然されて軍律厳しさが伝わってきた。
「三角兵舎」
うす暗い、裸電球の下で、隊員たちは、ここで、遺書を書き残している。後、すぐ新しい隊員が。
踊りを交えて
「昔々その昔 爺さんと婆さんがあったとさ ヨイヤサキタサ
爺さん山へ柴刈りに 婆さん川へ洗濯に ヨイヤサキタサ
ドンブリゴッコ ドンブリゴッコ流れてくる 婆さんはそれを拾い上げて ヨイヤサーキタサ、、、、」
隊員達は、明るく・明るく振舞っていたと云う。
授業の教材にしたのか飛行機も模型・地図が
整備員達は、特攻機の整備で、その特攻機は、旧式のオンボロ「97戦」
機体の鋲は、ネジを締めても止らない・燃料タンクは、小さな穴だらけで油が漏れ、その穴にぼろ布を詰めながら涙したと云う。
同じ兵学校の庭に咲く、、、、、。
「中田少尉の手紙」
皆様ご無事ですか、お伺いいたします。小生もお蔭様にて無事。明日より九州へ出張。目が廻りさうでたまりません。見送り有難うございました。
発車後一筋ボロボロ、手紙を開いてからボロボロ、涙などどこかえ忘れたと思っておりましたら矢張りあるようでした。
せきますままに乱筆乱文お許し下さい。いずれ車中にてゆっくりお便りいたします。
お元気ですか。風は直りましたか。滋賀の八日市といふところに機(飛行)がありますので、これから行って試験飛行、明日鋒田帰還の予定です。
煙都大阪の朝は烟煙がたちこめて、直上だけ青空が見えます。大分から大阪まで汽車行にて殆ど二日、消耗の極、大層ねむく、それに昨夜空襲で
起こされてひどい目に会いました。歌が苦心の末少しばかり出来ましたので書きます。昨夜八日市より家に急ぐ車中にて
「何のため家に急ぐかますらをハこの世の別れ母に告げたし」
「我が母ハいかに在はすかこの夜更今がヘりなバいかばかりなん」
「ふるさとに散るとも知らで我を待つ老いたる母に如何に告げなん」
「故郷に髪を残してこの心我が父母にそれと告げたり」
晴夜、月よく、場所は瀬戸、静かに昔歌った軍歌を歌いながら
「月光に照らし出された瀬戸の海あの島かげに吾八住みたし」
桶川陸軍飛行学校分教場跡
知覧に集結した飛行第65戦隊は、松林に囲まれた「三角兵舎」の前にならんで一枚の写真を撮っていた。
この時すでに12名の戦隊員の姿が失われ、総員17名も戦火の中に次々消え、敗戦前日の8月14日の戦闘で、最後の隊員「千葉少尉・稲垣伍長」の戦死で
飛行第65戦隊は、消滅する。
桶川陸軍飛行学校分教場跡
兄さんは、いよいよ出撃します。この手紙が着くころは沖縄の海に散っています。幼い静ちゃんを残していくのはとても悲しいですがお許しください
、、郵便通帳とはんこ、これは、静ちゃんが女学校に上る時に使って下さい。時計・軍刀も送ります。、、、それを売ってお金に変えなさい
兄さんのかたみより、静ちゃんの人生の方が大慈です。、、、、、。
桶川陸軍飛行学校分教場跡(黙祷した)
次回は、隣の菖蒲城跡公園へ。