国道141号線の市場坂。
ここから佐久方面に急坂を下ると「海ノ口」
この先はその昔、八ヶ岳の噴火によって千曲川がせき止められて湖のようになっていたことから「海」の地名が付いているとも。
谷筋を挟んで正面には鋭く尖った男山が聳えている。
「日本のおへそ」看板が?
「平面直角座標系 第Ⅷ系原点」経度 東経138度30分0秒0000・緯度 北緯36度0分0秒0000。
楕円体である地球上の位置は、経度緯度と平均海面からの高さで表示すると測量法に定められていますが、球面上で長さや面積を計算するには少々複雑な計算が、X座標、Y座標、Z座標を用い、メートル単位の数値を使って平らな紙の上で簡単に距離、方向、高低差、面積などを計算できるようにしていますが、これを「平面直角座標法」と云う。測量法では、日本を十九の区域に分けてこの平面直角座標系を定めていますが、この地が、長野県、新潟県、山梨県、静岡県が属する第Ⅷ(八)系の公共測量の原点・
現在六つ名乗り出ている。群馬県の渋川・栃木県の佐野市・山梨県の韮崎・長野県の辰野・岐阜の関・兵庫県の西脇。へその基準をどこに・・・。
「海ノ口城主郭と屏風岩」
築城に関する時期等は不明。
甲陽軍鑑、によれば、天文五年の1536年、甲斐守護の武田信虎は八千の兵を率いて佐久方面に出陣し、佐久平賀城主、平賀源心入道成頼ら二千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。
しかし三十六日間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。
信虎の嫡男、「晴信(のちの信玄)」が殿軍を申し出て許され、兵三百を率いて海ノ口城に向かった。
一方の平賀源心は城兵の大半をその領地に返し、七、八十人の兵とともに海ノ口城で戦勝の酒宴を開いていたが、そこに晴信が奇襲を掛け、海ノ口城は落城し、平賀源心は首級を挙げられた、と言われる。
この海ノ口城の奇襲戦が晴信の初陣にして初の戦功であると言われる。
平賀源心の実在やこの合戦が史実かどうかには疑問もあると云う。後に晴信が1543年に佐久大井氏を攻めた際や、1546年の内山城攻め、上田原合戦敗北後の1548年、の佐久衆叛乱鎮圧、1550年の戸石崩れ後の村上義清の佐久再侵攻への対応などの際に、度々海ノ口を陣所にしていることから、海ノ口周辺が佐久甲州街道の中継地、兵站基地として機能していたことが伺われる。
海ノ口城そのものが使われたかどうか、廃城の時期等も不明。山城。
小海線全線78.9km 小淵沢から39.4km でほぼ中間地点になる。無人駅
「旧石器時代」に、氷河時代の大型哺乳類「ナウマンゾウ」
日本列島に「ナウマンゾウ」がやってきたのが40万年前・中国ー朝鮮半島ーを経由して九州にわたりー本州ー北海道へ、その頃は、日本列島に
人類いなかったと云う。
そのゾウの下顎第一大臼歯の化石が「南牧村」で発見された。
ここから佐久方面に急坂を下ると「海ノ口」
この先はその昔、八ヶ岳の噴火によって千曲川がせき止められて湖のようになっていたことから「海」の地名が付いているとも。
谷筋を挟んで正面には鋭く尖った男山が聳えている。
「日本のおへそ」看板が?
「平面直角座標系 第Ⅷ系原点」経度 東経138度30分0秒0000・緯度 北緯36度0分0秒0000。
楕円体である地球上の位置は、経度緯度と平均海面からの高さで表示すると測量法に定められていますが、球面上で長さや面積を計算するには少々複雑な計算が、X座標、Y座標、Z座標を用い、メートル単位の数値を使って平らな紙の上で簡単に距離、方向、高低差、面積などを計算できるようにしていますが、これを「平面直角座標法」と云う。測量法では、日本を十九の区域に分けてこの平面直角座標系を定めていますが、この地が、長野県、新潟県、山梨県、静岡県が属する第Ⅷ(八)系の公共測量の原点・
現在六つ名乗り出ている。群馬県の渋川・栃木県の佐野市・山梨県の韮崎・長野県の辰野・岐阜の関・兵庫県の西脇。へその基準をどこに・・・。
「海ノ口城主郭と屏風岩」
築城に関する時期等は不明。
甲陽軍鑑、によれば、天文五年の1536年、甲斐守護の武田信虎は八千の兵を率いて佐久方面に出陣し、佐久平賀城主、平賀源心入道成頼ら二千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。
しかし三十六日間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。
信虎の嫡男、「晴信(のちの信玄)」が殿軍を申し出て許され、兵三百を率いて海ノ口城に向かった。
一方の平賀源心は城兵の大半をその領地に返し、七、八十人の兵とともに海ノ口城で戦勝の酒宴を開いていたが、そこに晴信が奇襲を掛け、海ノ口城は落城し、平賀源心は首級を挙げられた、と言われる。
この海ノ口城の奇襲戦が晴信の初陣にして初の戦功であると言われる。
平賀源心の実在やこの合戦が史実かどうかには疑問もあると云う。後に晴信が1543年に佐久大井氏を攻めた際や、1546年の内山城攻め、上田原合戦敗北後の1548年、の佐久衆叛乱鎮圧、1550年の戸石崩れ後の村上義清の佐久再侵攻への対応などの際に、度々海ノ口を陣所にしていることから、海ノ口周辺が佐久甲州街道の中継地、兵站基地として機能していたことが伺われる。
海ノ口城そのものが使われたかどうか、廃城の時期等も不明。山城。
小海線全線78.9km 小淵沢から39.4km でほぼ中間地点になる。無人駅
「旧石器時代」に、氷河時代の大型哺乳類「ナウマンゾウ」
日本列島に「ナウマンゾウ」がやってきたのが40万年前・中国ー朝鮮半島ーを経由して九州にわたりー本州ー北海道へ、その頃は、日本列島に
人類いなかったと云う。
そのゾウの下顎第一大臼歯の化石が「南牧村」で発見された。