「甲府五山」
長禅寺ー信玄の帰依僧「峡秀和尚」臨済宗妙心寺派の寺・信玄の母「大井夫人」の菩提寺。甲府市愛宕(夫人像、重文)
東光寺ー密教寺院から臨済宗・大覚禅師の築いた庭園・薬師堂は室町中期の唐様建築物(重文)。甲府市東光町
能成寺ー1345年頃武田信守が開基、臨済宗の寺・八代町から府中に、石碑宿竜池で知られている。芭蕉句「名月や池を巡りて夜もすがら」、東光町
円光院ー躑躅ヶ崎の麓、信玄夫人三条氏の菩提寺、その法号をとっている。信玄寄進状(重文)。岩窪町。
法泉寺ー武田氏中興の祖「武田信武」が開山・勝頼の菩提寺・「首級牛蒡」の話はこの寺。甲府市和田町・武田信武と勝頼の墓。
甲斐武田 10代当主 武田信武により 創建 武田家中興の祖 信武の開いた 寺を守る為 武田信玄が 修理し 寺領を寄進 信玄が定めた 甲府五山の 一つとなる 信玄死後も 勝頼により 保護されるも 勝頼が 天目山で自刃し 武田家は 滅亡 武田家に代わり 甲斐を支配した 徳川家康が 勝頼の菩提を 弔うように と命じ 勝頼の菩提寺 としての地位を 保障され 現在に至る。
鐘楼門は、江戸初期に 建てられた。
「首級牛蒡」 武田勝頼 首塚 天目山で自刃した 勝頼の首級は 織田信長の命により 京 六条河原 に晒された。
それを知った 法泉寺の 快岳和尚は、 妙心寺の和尚の 力を借り 首級をもらい受け 妙心寺で葬儀を 行った。
勝頼の首級は 甲斐に葬るべし と考えた 快岳和尚は、密かに首級を 甲斐に持ち帰る しかし 法泉寺は 織田軍の陣所と なっており やむを得ず 山中に逃れる ・・・・。
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「甲斐善光寺」 甲府駅ー石和駅の間にある。JR身延線善光寺駅下車約徒歩10分。
甲府市善光寺にある浄土宗の寺院。山号は定額山。
正式名称は定額山浄智院善光寺・
長野県にある善光寺をはじめとする各地の善光寺と区別するため甲斐善光寺と呼ばれ、甲州善光寺・甲府善光寺とも呼ばれている。
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永禄元年の1558年、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建。開山は、信濃善光寺大本願三十七世の「鏡空」
「高白斎記」に拠れば、戦国時代の1523年、1527年、甲斐守護・武田信虎が信濃善光寺に参詣している。
信虎は当時、敵対する甲斐の有力国衆や他国勢力と抗争を繰り広げており、信濃善光寺への参詣は信虎が国内を留守にできるほど甲斐の統一的状況が生まれていたとも評価。
信虎個人の宗教的動機のほか、1524年、上野国の関東管領・上杉憲房と相模国・北条氏綱の抗争に介入して関東へ出兵しており、大永7年6月には信濃佐久郡の伴野貞慶を援助するために国外へ出兵していることから、政治的動機も指摘されると云おう。
天文10年の1541年、信虎嫡男の晴信(信玄)が信虎を追放し、家督を相続する。
晴信は天文年間から信濃侵攻を本格化させ、北信濃の国衆を庇護する越後の長尾景虎(宗心、上杉謙信)と衝突し、北信濃(長野県長野市南郊)において五次に渡る川中島の戦いを繰り広げ、1555年、の第二次合戦では戦火が信濃善光寺に及んだ。
善光寺別当の初代・栗田永寿は天文12年の1553年、武田氏の北信濃侵攻では長尾景虎に属していたが、「勝山記」によれば永寿は武田氏の支援を受け、旭山城(長野市)に籠城して長尾方と戦っており、これ以前から武田氏と接触があったと考えられていると云う。
天文24年、村上義清・高梨政頼が長尾景虎を頼り越後へ亡命すると、信濃へ出兵していた景虎は同日に善光寺へ陣を張った。これに対し武田晴信は旭山城に籠城する栗原氏に兵三千・弓八百張・鉄砲三百挺を支援したとある。
記によれば、同年改元後の弘治元年閏10月15日には駿河国・今川義元の仲介により武田・長尾間の和睦が成立し、上杉方の城は破却され武田・上杉双方は撤退し第三次川中島の戦いは終結した。
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信玄は、信州善行寺が戦いで戦火にあうのを心配し、本尊阿弥陀如来他寺宝を移したと云う。
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1754年に全部焼失し、現在の本堂は30数年を費やして、1796年再建された。
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重文ー楼門・本堂(入母屋造り)-東日本最大木造建築物ー・木造阿弥陀三尊像。
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