「武田信玄の治水工事」は、痩せた甲斐の国に豊かな水が。
竜王信玄堤、信玄堤・竜王堤が。釜無川の堤防は知られている。
甲斐国は、内陸部の山間地域、国中地方では平野部である甲府盆地を有する。
盆地底部は笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、安定した定住は困難であったと云う。
信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立。平安時代の延長5年の927年、延喜式では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国(三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している。
水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した「甲陽軍鑑」ではかつて甲府盆地が湖であったとする甲斐国湖水伝承を記している。
釜無川は、支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
「竜王信玄堤の築造と武田氏が」甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府(甲府市)に居館を移し武田城下町の整備を行う。
天文11年の1542年、信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。
川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとある。
一方で、川除場で行われる夏御幸の開始時期が、1555年 - 1558年、であることから、弘治年間までには着工されていたとする説。
国志に、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川と釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられたという。
信玄堤に関する最古の文書は、1560年、武田信玄印判状(『保坂家文書』)とされる。
同文書では「竜王の川除」に居住した際に家ごとの棟別役が免除されることを記しており、「竜王の川除」は信玄堤・竜王河原宿を指しており、同文書が発給された永禄の3年以前には堤防の築造が行われていた。
同文書には宛名がなく、武田氏は広く竜王河原宿への移住を呼びかけていたと見られている。
甲府駅前 武田信虎像

「積翆寺」行基開祖の古刹寺・境内の巨石から湧水が(石水寺とも云う) 武田信玄は、この地で誕生し裏手に信虎築城の「要害城跡」が。
甲府市上積翠町は、甲府盆地北縁のほぼ中央、甲府市街地北部に隣接する武田神社の北北東方向に位置し、積翠寺は要害山の南西麓の標高約530m
に立地する。
開祖は、「行基」とされ、「甲斐国志」に拠れば古くは石水寺と呼ばれたという。南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたという。
「高白斎記」に拠れば、戦国時代には要害山に武田信虎が甲府市武田の躑躅ヶ崎館の詰城として要害山城が築城された。
信虎嫡男の晴信(信玄)は永正18年の1521年、に要害山城において誕生したとされ、境内には産湯を汲んだとされる井戸である産湯天神が残されていると云う。
戦国期には、武田氏が主催する和歌や連歌会が行われ、積翠寺のほか甲府では一蓮寺や尊躰寺、東光寺などの寺院で開催されている。
1542年、駒井高白斎が当座を務めた歌会が行われ、冷泉為和を招いた和漢聯句が行われている。為和集
寺宝として天文15年、後奈良天皇勅使として下向した三条西実澄・四辻季遠を招いて行われた句会の記録である「武田晴信和漢聯句帳」や、江戸時代に後陽成天皇皇子の八宮良純法親王が愛用したと伝わる硯箱・煙草盆が伝来している。
近世の慶長8年・1603年、に徳川四奉行から積翠寺村内に寺領を安堵されているが、判物は火災で失われたという。
登りの山道長く「寺と要害城跡」は、残念ながらあきらめました。

「一級河川相川」
1925年, 大正14年8月18日,
台風大雨, 台風 総降水量 甲府 234.3mm甲府市・西山梨郡(甲府市)の被害大。
とりわけ帯那山から上積翠寺に集中した雨は、帯那川・相川・高倉川・藤川などの中小河川を氾濫させ甲府市に大被害を。

「武田神社・躑躅ヶ崎館跡」 甲斐の名将「武田信玄」を祀る。1519年武田信玄の父「信虎」が造った神社。
信虎・信玄・勝頼三代にわたる館跡で「躑躅ヶ崎の館」と呼ばれている。国史跡

神社は、大正8年創建















次回は、甲斐善光寺へ