syuの日記・気まま旅

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富士山 駒門風穴 神秘境

2013-10-21 | 富士山麓日記
富士山に最初の登山者は、記録に無い。
聖徳太子が甲斐の名馬「黒駒」を駆って登山した伝説や、修験道の開祖・役の行者の登頂、秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老不死の霊薬を探しに冨士に登ったなど、様々な伝説はある。
実際に登山した記録としては、平安時代の大学者、「都良香」834~879年が書いた「富士山記」が最古。

都良香は、「富士山記」で、富士山頂の様子が書かれている。
・・頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央に窪み有りて、体水甑(煮るコシキ・蒸し器)の如し、甑の底に神しき池あり。
池の中に大きなる石あり、石の体驚奇なり、あたかも蹲虎(うずくまる虎)の如し、またその甑の中に、常に気有りて蒸し出ず。
その色純らに青し・・」とあり、平安の初めに富士登山に成功した者がいたと考えられる。



静岡県御殿場市駒門(沼津から至御殿場IC)246号線風穴信号機右折にある。「駒門風穴」国指定天然記念物
噴火で出来た世界でも珍しい溶岩洞穴は、現存している溶岩洞穴で、旧型を保っている一番古い大きなものと云われて貴重な学術資料となっている。」

生物は、虫類―ツチカニ虫・オビヤスデ・チビゴミ虫。蝙蝠類ーコギクガシラ・ユビナガ・オオキクガシラ・ネズミなど。

    

本穴ー243m・枝穴ー105m、内部は夏冬通して13度。

天井から無数の溶岩鐘乳石が垂れ下がって奇観を呈している。通路面も溶岩流がそのまま冷却した原型を保っている。
富士山が生んだ奇跡の溶岩風穴。観覧料金¥200.

    

「青木ヶ原」は、山梨県富士山北西麓の溶岩原。
平安時代の864年長尾山から噴出した青木ヶ原溶岩の地表面で、森林に履われていることから「青木ヶ原樹海」と呼ばれている。
樹齢300年ほどのツガ、ハリモミ、ヒノキなどを主とする原生林で天然記念物。
磁石が効かないので道に迷いやすい。
溶岩の中の洞穴が大小あるが天然記念物は、富士風穴富岳風穴・本栖風穴で、国道沿いの富岳風穴に立ち寄る。
青木ヶ原は、1200~1300mの高さで面積樹海部分約30km2.

「富岳風穴」「鳴沢氷穴」は、河口湖から本栖湖、鳴沢村、国道139号線沿いにある。

青木ヶ原樹海の豊かな緑に囲まれた富岳風穴。中に入ると夏でも平均気温は3度。
昭和初期までは、蚕の卵の貯蔵に使われていたという天然の冷蔵庫!国の天然記念物にも指定、 総延長201m、高さは8.7mにおよぶ横穴で、内部は不思議と音が反響しない、これは壁の玄武岩質が音を吸収する性質をもっているためという。
夏でも溶けない氷柱や、溶岩棚、縄状溶岩などが見られる。

富士山の周辺には大小さまざまな洞窟がる。
青木ヶ原にある富岳風穴と鳴沢氷穴は代表的なもの、今からおよそ1,137年前の貞観6年(864年)富士山の側火山長尾山の爆発の際、古い寄生火山の間を灼熱に焼いた溶岩流(青木ヶ原丸尾)が流れて下ってきたのが、この2つのトンネル式になった洞窟である。
ここも、天然記念物の指定を受けてから世界的に紹介され、地質学上、貴重な存在となっている。

    



環状形竪穴を進んでいくと、冬の間に天井からしみだした水滴がつららとなって床まで繋がっています。
4月頃までこの氷柱は見られる。



鳴沢の風穴構造は、入口直径5.4m、総延長201m、天井までの高さは入口から43mの地点で5.4m、最高部は幅8.7m。

氷穴風穴の東方約800mにあり、竪穴環状形で延長153m、幅1.5m~11m、高さは1m~3.6mある。



1歩踏み込むごとに1枚岩で周囲を囲む溶岩群、そのほとんどが玄部岩質で声の反響もない。



料金は、風穴、氷穴共で¥500・



富士山は「数年以内に大噴火」するか、2011年の2度の地震で、富士山のマグマ溜りには、300年前の宝永大噴火のときより大きな圧力が加わったとされている。



次回は富士宮方面

四尾連湖自然公園

2013-10-19 | 富士山麓日記

「村社 一宮浅間神社」は、八代郡市川三郷町にある神社。

西尾連湖を下った所に鎮座地、高田集落の南方、神社は古くは単に「一宮」や、「一ノ宮明神」「市川一の宮」などと称されている。
主祭神は、木花咲耶姫命。

富士山・864年貞観大噴火、300年前の宝永大噴火。


社伝によれば景行天皇朝の創祀、「日本三代実録」に864年の富士山の大噴火を受けてその神の神意を慰めるため、翌865年に勅命によって甲斐国八代郡に創建され、官社に列されるとともに祝と祢宜が置かれたという「浅間明神の祠」に相当し、「延喜式神名帳」に載せる
甲斐国八代郡の名神大社「浅間神社」であり、「一宮」の古称も甲斐国の一宮とされたことに因むものであるという。

甲斐国一宮は通説として笛吹市浅間神社に当てられているので「一宮」の称も鎮座地である旧市川郷のそれであると考えられる。

924年に御正体山に対する里宮であった現社地へ遷座、山上の旧址には山宮として山祇社を奉斎し、「甲斐国社記・寺記」によると、
924年、1167年 - 1168年、1186年、1382年、の社殿造営が知られる他、神領地30町(およそ3,600坪)を有し、社家12人が所属していたという

神社前                    太鼓橋                楼門
    

武田氏が甲斐国内の神社の神官を対象に府中八幡社へ勤番を命じたが、その1561年の「府中八幡社勤番帳(武田氏番帳)」の45番に「一の宮の祢き(祢宜)」と見える「一の宮」が当神社の事と考えられている。

1582年に徳川家康が甲斐に入国、神社に布陣したと伝え、一時荒廃したが、その後再興され、1603年には徳川四奉行の黒印で市河高田村(現高田)中に1石6斗5升の社領と神官の屋敷分として260坪が安堵されたり、家康からも狩衣や太刀が寄進されたという。

1649年には、将軍徳川家光から改めて1石6斗余の朱印領が安堵されるとともに社領内の竹木山林や神主屋敷等は諸役免除の除地とされ、それらは江戸時代を通して維持された。

明治初め(19世紀中頃)に村社に列した。

                         本殿


山梨百名山、標高1279m 「蛭ヶ岳」登山は、往復約3時間 初心でも安心して登れる。
山頂、富士山、南アルプス、八ヶ岳が一望 、「四尾連湖」を見渡す事ができる。

蛭ヶ岳中腹、四尾連湖手前「浄身石」湧水
  

「浄身石」は、 四尾連地区入口の道路わきに湧水が流れ、この清水を貯えた池のほとりにある。
石は乳児によく似た形をしていて、長さ1.2mの大石。
木花咲耶姫が富士山の噴火を逃れてここに来た時、陣痛がおこり無事出産し、この浄身石に座して身を浄めたと伝えられている。有形文化財

冷水が滾々と
    

「四尾連湖県立自然公園」、湖面標高880m、周囲1.2km、最大水深13mの小規模なカルデラ湖である。
江戸時代には富士講における富士八海のひとつとして、富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)の5湖及び、泉水湖、明見湖、(富士吉田市)とともに数えられていた。

四尾連の湖名は地元に伝わる湖の神が「尾崎龍王」という龍神であり、4つの尾を連ねた竜が住んでいるという言い伝えであることが由来であり、湖にほど近い小字名も四尾連である。
雨乞い信仰の湖としても知られ、牛馬骨を投げ込んだ祈雨祈願が行われていたという。流入する河川も、流出する河川もない内陸湖である。

四尾連湖畔                              湖面
  

キャンプ場が一軒ある。山登りは、蛾ヶ岳登山、足を延ばして蛾ヶ岳~三方分山~富士五湖・精進湖までの縦走が出来る。

緑に囲まれたキャンプ場
  

市川大門は、10世紀、甲斐国において唯一荘園公領制の確立以前に立荘された市河荘が成立し、町域は荘域の南端に位置。
平安時代には常陸国から源義清・清光親子が同荘に配流され、甲府盆地各地に土着して勢力を広げる甲斐源氏の勢力基盤となるが、町域には平塩岡の伝義清屋敷跡や平塩寺跡など武田氏に由来する史跡があり、同じく義清伝承の残る甲府市南部から中央市・昭和町にかけての地域とともに市河荘の中枢と考えられる。

近世には5か村が成立し、八代郡西郡筋に属する。全村が幕府直轄領、甲府藩領を経て、1724年に甲斐一国が再び直轄領化されると在方は、
三分代官支配となり、町域は市川代官支配となる。
町域には駿州往還の宿場と富士川舟運の黒沢河岸が存在し、物流・交通の拠点となる。

市川大門方面下界曇                               蛭ヶ岳頂上
  

古くは市川郷と称して、紙を漉くことを業とした伝統的な和紙(市川紙)の産地である。
中世、源義清が荘司として土着し、「甲斐源氏」の発祥地、江戸時代の後半には幕府の代官が置かれ、約8万石の所領の統括がなされた。
明治以降も郡役所が置かれ、地方中都市として、和紙生産の町として栄え、製紙業者は明治時代約370戸を数えたと云う。
第二次世界大戦後は障子紙、和紙、市川花火の生産のほか、メリヤス製造業、自動車部品工場などもでき、工業生産は多彩化している。

大門大橋                         三郷町
  

ここは、絶景であるが残念ながら今日は、曇り空、

ぼちぼち紅葉が                     山は秋に
  

「中道往還」は、古代から甲駿最短の交通路として機能し、中世から近世に六十六部廻国納経所中世となった円楽寺や、龍華院などの寺院が創建され、甲斐における修験仏教の根拠地となった。
中道往還は軍道でもあったため、戦国時代には守護武田氏において武田信縄と弟の油川信恵が争った際に、駿河国今川氏の支援を受けた信恵は上曾根の勝山城に拠り抵抗しており、しばしば今川氏に奪還されて侵攻拠点とされた。武田家滅亡後の遺領を巡って発生した天正壬午の乱においても徳川家康が勝山城を足がかりにしている。

河内路や若彦路の整備で中道往還の重要性は下がり、近世には米麦栽培のほか養蚕や木綿など商品作物の生産が行われた。近代には身延線の開通もあり打撃を受けるが、果樹栽培(桃など)や養豚などに力を入れている地域、中央道甲府南ICに近い。

山間の三郷・六郷町・身延
  

「笛吹川」名前の由来となる、「伝説」がある。時代は武田勝頼が天目山にて自害する直前、笛吹権三郎というものがいた。
一つの仏体を背負って旅に出た父親の後を追い、捜しながらこの地にたどり着き、権三郎母子は、仏体を得はするものの父親の姿はすでになし。二人はこの地にとどまり、母親は笛の音を大変好んだ、ところが、母親はふちに落ち流れてなくなってしまう。
権三郎は、母を慕い、川を上下しながら笛を吹きすまし、吹きすまし、彼もついには、川に流れてしまった・・・。

笛吹川が、富士川に合流し、駿河湾に。

合流付近の富士川


「富士川」は、山梨県北西部を流れる 釜無川を上流とし、県北東部を流れる 笛吹川が甲州盆地で合流され南流して静岡県駿河湾に注ぐ一級河川で日本三急流の一つ、長さ128km。

「富士川大橋」は、南巨摩郡増穂町と西八代郡市川大門町を結ぶことを目的として、1998年(平成10年)に開通した。
釜無川と笛吹川との合流点よりすぐ南に位置していることから、橋長が606mと富士川に架かる道路橋としては,最も長い。

一級河川の富士川に、河口湖まで45.7km。


中央高速甲府南ICへ。

富士川街道と和紙の里

2013-10-18 | 富士山麓日記
「上沢寺」日蓮宗の寺、山号法喜山(逆さ銀杏で知られている)


上沢寺                   楼門               葉つき銀杏
    

史蹟名勝天然記念物の銀杏の杖は、七百余年の歳月と共にいよいよ茂り栄え、この霊木は枝がみな下に向って垂れさがっている所から古来
さかさいちょう、と一般に呼ばれ、葉は消毒の秘妙符として、尊とばれ、毒消いちょうとも称されている。
お葉つき銀杏の実が、すべて犬の牙の形をしている点でも有名。

本堂                         楼鐘堂                    梅の古木
    

「長栄山本国寺」は、上沢寺と同じ日蓮宗。
開山は最蓮房日浄で、敷地は下山氏あるいは穴山氏の居館跡と伝えられている。境内の「オハツキイチョウ」には日蓮聖人植樹の伝説があり、国指定天然記念物になっている。
県指定文化財の磐、町指定文化財の木鼻獅子などを保有しています。穴山氏館跡は、本国寺及びその周辺が館跡といわれている。
下山は戦国時代には穴山氏の河内領支配の中心地。「下山城址」の碑がある。
本国寺と穴山氏との関係は深く境内にある。

本国寺                          山門            楼門    
    
 
銀杏が鈴なり                     本堂                     古木
    

「法城山 長泉寺」は、曹洞宗 龍雲寺末。大永2年3月創立の古寺、開基は済庵首座、開山は澆屋順壑大和尚(龍雲寺3世)である。
本尊は火防将軍地蔵菩薩、甲斐守穴山武将の守護神として愛宕堂に祀られている。古くから河内領の鎮防火災の祈願所として煙火を上げ、旧7月23日に愛宕祭を行ない、
450年の伝統を持ち今は8月16日に行なわれているという。

長泉寺                                                   弘法大師像
    


「国道52号線」、静岡県静岡市清水区の興津交差点から始まり、山梨県甲府市甲府警察署前交差点までの 100.1 km。
この辺りは、南アルプス、十谷温泉に近く赤石山脈の山と富士川で緑が気持ち良い。

「一宮賀茂神社」鎮座 身延町下山菖蒲沢 小さい神社。御祭神 天津日高彦穂瓊々杵尊。天平勝宝年間・七百五十年代の古い神社。現宮司の始祖「稲葉左近」が土地の人とはかり創立したと伝えられている。
武田氏並びに穴山氏の尊崇極めて篤く河内領一七社の社頭として一ノ宮と尊称され、往昔葵祭には領内の神主ことごとく神事に奉仕したと伝えられている。
武田氏より三貫五百文地を、徳川氏におよんで同領の朱印地を代々受けている。
穴山氏より勝千代祈祷料として岩間の地に一九八アール寄進されていたが古文書だけ現存し場所は不明。

賀茂神社                     鳥居              拝殿   
    

歴史と落ち着いた境内でした。小高い神社を背に鳥居の向かいの山々の景色は素晴らしい。

          拝殿内                      高台の神社前から
  

「八日市場八幡神社のケヤキ」
天然記念物 ケヤキは、樹高 30m/12m、目通り幹囲 6.5m/5.6m、推定樹齢 300年以上、身延町八日市場
案内板による。拝殿横のケヤキと鳥居近くのケヤキとある。

ケヤキの独立巨木が3本かたまっていたと云うが、残念ながら、3本とも主幹を途中で失っており、鳥居近くの1本は、1966年の台風、
拝殿横の1本は、1987年の突風の害を受けたと云う。

八幡神社                          ケヤキ                 狛犬奥本殿
    

八幡神社隣の三守皇山長光院「大聖寺」は、真言宗醍醐派の寺、本尊 不動明王、
重要文化財・不動明王座像・県指定文化財・絹本著色地蔵菩薩十王図 ほか。

大聖寺                  山門                  欅の古木
    

里山の木立ちにあり、歴史を感じる。
この寺は、1105年に、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)によって開かれたという。
その後、義光の曾孫に当たる加賀美遠光が京都で宮中守護の任務につき、"鳴弦の術"で魔物を退散させた功で、時の高倉天皇から清涼殿に安置されていた不動明王と「三守皇山長光王院大聖明王寺」の勅額を賜わったと云う。
遠光はこれをこの寺に収め、以後は三守皇山長光院大聖不動明王寺と称し、不動明王はいまも寺の本尊として祀られている。

不動明王像                         本堂                 鐘楼
    

「身延町なかとみ和紙の里」

富士川の豊かな流れと、四季折々の自然に恵まれた身延町は、風雅な趣きを持つ西嶋和紙の名産地。
はるかな山々をいだく、のびやかな地にたたずむ「なかとみ和紙の里」は、工芸美術にふれる「なかとみ現代工芸美術館」、手漉きが体験できる「漉屋なかとみ」、全国の和紙をとりそろえた「紙屋なかとみ」がある。



現代工芸と呼ばれる分野は、紙・陶磁器・染色・漆から、ガラス・皮・金属など多彩な材料と技法・技術を駆使して生まれる作品。
美術館は、新しい時代の美をいつくしみ、現代に息づく工芸美術作品を展示・収集する個性的なカルチャースポット。
数々の特色ある展覧会を企画している。

和紙づくり体験もできる。¥1000から、入館料¥500.

一面芝の           庭園                 展示館
  

「身延町中富」は、山間部で耕地面積がわずかであるため、林業や焼畑、狩猟、製紙原料となる三椏の栽培など山の資源を利用した生業が成立し、西島は紙漉職人が多く、和紙を生産している。
富士川沿いには青柳河岸(増穂町)に属した切石河岸・八日市場河岸や黒沢河岸(鰍沢町)に属した下田原河岸などの富士川舟運に関わる河岸があり、渡船に携わるものもいた。
富士川沿いには甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が通り、沿道は宿場や町場で賑わった。

石の彫刻            入口                   有料
      

次回は、甲府南IC方面に。

早川町と七面山

2013-10-16 | 富士山麓日記

七面山1989mから見た富士山と朝日(パンフレットより)


緑濃い山峡と様々な歴史、伝説を秘めた「早川」、天平時代の孝謙天皇が病気治療の為逗留し、大宝年間に「西山温泉」が発見されている。

「孝謙天皇」 718-770 聖武天皇の皇女、父の後を受け皇位につく「称徳天皇、名乗る」、仏教政治を展開、妖僧の弓削道鏡を引き立て
たことでで知られている。権臣藤原仲麻呂を除いて、道鏡一派による思いのままの仏教保護政治が成されたという。
後の光仁天皇が、官寺の僧の権限を削っている。

早川は、身延山、七面山の信仰によって栄えた「講中宿」が集中し歌人の若山牧水も訪れている。
また、松本清張は、「考える葉」で雨畑硯を題材にしている。かっては、金山開発で賑わっている。

早川町付近の案内地図                        公園下は早川
    

山梨県南巨摩郡「早川町」は、県南西端で、赤石山脈と巨摩山地に狭まれた「早川」沿いの山岳地帯にあり、堅最大の面積であるが95%山地
南アルプス巨摩県立自然公園と身延山域に属す信仰の山「七面山」など観光資源が豊富な地域。
特に江戸時代は、保金山をはじめ18か所に及ぶ鉱山で賑わったところ。
春木川の赤沢は、昔ながらの村落が残っている。

赤沢への下り道で最初に出会う寺が、「十万部寺」「妙福寺」、やがて視界が開け赤沢が姿を現す。四方を山で囲まれた山腹の宿場。

赤沢宿案内板


「久遠寺奥の院思親閣」は、日蓮聖人が9年の永きにわたり法華経の読誦と門弟たちの教導に終始した身延山久遠寺。
その身延山の山頂(標高1153メートル)に、奥之院思親閣があります。
日蓮聖人は身延在山の9年の間、故郷のことを思い出されては、西谷のご草庵より50丁の道なき道を登られ、遙かに房州小湊のご両親、師の道善房を追慕されました。奥之院思親閣は思親大孝の霊場で、日々多くの参詣者が訪れています。

白糸の滝・於万の方像案内板


信仰の山 七面山


雨畑硯の起源は2つある、1297年に、日蓮の弟子である「日朗」が七面山を開く際早川支流の雨畑川で蒼黒色の石を発見し、この石で良質の硯が作れると伝えたのが始まりとされている説と、1690年に、「雨宮孫右衛門」が身延山へ参拝した際に早川で黒色の石を発見し、これを硯にして1784年に将軍徳川家治公へ献上したという説がある。
どちらの説が正しいかは定かではないが、発見した石が「玄晶石」と言われる粘板岩であることは共通していると云う。

現在、硯の文化は衰退、雨畑地区で製造されている工房は「硯匠庵」1件のみとなっており、職人も1人のみと後継者不足に悩まされている。
一方で富士川町の旧鰍沢町域でも同じ岩石・製法で雨畑硯が作られており、こちらでは加工業組合も結成されているほか、数件の工房と数人の職人がいると云う。

七面山登山口                     赤沢宿 
    

赤沢宿は、日蓮宗総本山・身延山・七面山を結ぶ参道に位置する、美しい自然の中に中世集落の面影がある。

早川                     於万の方の碑        白糸の滝の奥の弁天堂入口
     

白糸の滝の階段


七面山の登山口に、「白糸の滝」がある。滝のそばに、お万の方の像が(家康の側室)、その奥に、雄滝弁天堂が。足場は、崖道。

於万の方は、長勝院 1548 -1620 戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。
江戸幕府の初代将軍徳川家康の側室。於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。

「白糸の滝とお万の方」は、女性禁制だった七面山に初めて登った女性が、徳川家康の側室「お万の方」であった」
於万の方は、ここ白糸の滝でその身を清め「七面山」に参詣したといわれている。
七面山登山口を見つめている石像。

お満様の像                    滝              滝壺
    

富士川水系雨畑川・湖のダム湖、「雨畑湖」。
ダム型式 アーチ式コンクリートダム、流域面積 99.7 km²、湛水面積 0.6 ha、総貯水容量 11,000,000 m³、発電ダム、

雨畑湖ダム


トンネルを抜けると湖畔に、町営キャンプ場などがある。


「早川」は、南アルプス山域を流れ、芦安村の野呂川から下流の早川町を経て富士川に合流する長さ61kmある。川名は、流れが速いので
早川と呼ばれている。奈良田や湯島には段丘が、新倉や中富町飯富には広い氾濫原が分布している。水量も多く水力発電が盛ん、
西山・奈良田は古くから温泉地で知られている。

湖に出る途中の早川                砂利トラックが出入り
    

昔奈良田に腕の良い曲物「吾平ッ」職人がいたろっち・・・・売り歩いていた先に「琴路」と云う娘と恋仲になったが、親、親戚から地元以外のおなごと結婚はさせないと猛反対され、吾平の家では、きびしく息子に言い渡した。
「これ以上、その娘を家に入れては世間体が悪い。 たったいま、娘と別れろ」。吾平は困った。“どうしたら、いいかなあ(どうしたら、いいろ。)”と、思い悩んだ。
・・・琴路は、通い路の湯島峠の崖に渡した 丸木橋を渡って、ここにくるはずだ。そう思うと、意を決した。 恐ろしい覚悟だった。
のこぎりを懐にして、丸木橋に向かい、下から3分の1を切った。 これで橋は崩れるはずだ!急いで家に引き返すと、遺書を書いた。
自分を慕って通いつめてくる恋人の心根を思い、 今夜彼女の上に間違いなく降り掛かる辛酷な運命を思うと、 気がおかしくなりそうだった。そのまま家を飛び出すと、「西のはば」という断崖から、早川に身を投げた。

吾平は、遺書に書いた。“他郷の者と結婚させないという規則は、どう考えてもおかしい。この世で添えないならば、あの世で琴路さんと一緒になりたい。”

そんなことをつゆ知らぬ琴路は、いつものように丸木橋を渡り始めた。 ギシッ、嫌な音がした。 次の瞬間、丸木橋はまっぷたつに折れ、
琴路は谷川に転げ落ちた。19の、花の命は断たれた。

二人が亡くなった場所は離れていたが、不思議なことに、遺体は同じところに並んで上がってきた。村人は、“あの世で添い遂げたろ。”と、話した。
吾平の遺書によって、その後、奈良田では他郷の者と結婚してもよい、ということになったとさ。おわり。

人里離れた早川の上流
    

次回は、中富和紙の町へ。

南部町から身延山

2013-10-14 | 富士山麓日記
右に駿河湾、左に朝日岳、国道一号線を戻る。大井川は、赤石山脈北部「間ノ岳」を源流に静岡県中部、電力開発のダムがある井川・畑薙ダム
など、長さ168km。を渡り、安倍川に、歌川広重の五十三次府中、河畔の餅屋の賑わいを描いている。山梨の安倍峠を源流。
直進すると富士市に、それを左折国道52号線「富士街道」を甲府方面に登ってみた。

「富士川街道」は、100強km。 起点、市清水区興津~ 終点山梨県甲府市 国道411号。山梨県南巨摩郡南部町、身延町、富士川町、韮崎市になる。ほぼ、富士川に沿い、この道路と並走する形で「中部横断自動車道」が整備中。(山梨県内では一部区間が供用中)

源流は、南アルプス駒ヶ岳釜無川、秩父山地、甲府盆地の笛吹川、富士山芝川と合流駿河湾に注いでいる。
日本三大急流の一つ、鉄道の無い時は、運搬船1500が往来していたと云う。
古来から洪水に悩まされ、武田信玄の治水対策は有名である。

雨が少なくゴムボートも気の毒


今年は特に、雨が少なく暑く、緑地部分が広がっており、この状態は、珍しいと云う。

草が茂る河川敷


水量の少ない富士川


「南部町」は、山梨県南西部で静岡県に最も接する。富士川中流域の町。町名は、かって土豪「南部氏」の居館があった。
山林が、約87%を占めている。中・近世まで、甲駿街道の宿場町で賑わっていた。
岩手県奥州南部藩の基礎は、この地の出身の「南部三郎光行」によって築かれた。
経済圏は、静岡富士宮に属し、南部茶が特産品に。
1189年源頼朝の奥州藤原氏討伐軍功により、糖部郡北東一帯を与えられ、三戸に本拠地を移し、和賀、稗置地方、1439年津軽の
安東氏討伐、1443年所領拡大をしている。
津軽、青森西部、最後は、盛岡藩で明治を迎えている。

南部町に


  南部光行
┏━━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━━┓
行朝    実光2           実長      朝清  宗清  行連
(一戸氏)[三戸南部氏]               (波木井南部氏)  (七戸氏)(四戸氏)(九戸氏)
       ┃                 ┣━━━┓            
時実3             実継  長義  
     ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓      ┃ (波木井氏)
     政光4  宗経5 政行 実政   宗実  義元 長継  
    ┃ (伊勢南部氏) (甲斐南部氏)
          ┏━━━╋━━━┓ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
          時長  師行  政長 義行                宗行6  祐行7 
       [根城南部氏] ┃ ┃                 ┃
             ┃    ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   ┣━━━┓
          信政 義重  茂時10 信長11 仲行  茂行  信行  政連8 祐政9
          ┣━━━┓        ┃
             信光 政光   政行12,,,,,,,(南部当主46代続く)


         (八戸氏)(七戸氏)     ┃

南部信直 1546-99 南部氏26代当主、秀吉に通じ、小田原征伐・朝鮮出兵に従軍した。領国を訪れた京都の鷹商から、秀吉の権勢を知らされ、家中無骨者揃いで適任者無し、鷹商が、憐れに思い、家臣人数名で使者となり、信直は、秀吉の後援を得ている。
南部氏の安泰は、一介の商人に助けられたという。

南部光行・南部氏の館跡
    

「南部城」
1180年に南部氏の始祖である南部光行が源頼朝から甲斐国南部牧を与えられ、南部氏館や南部城(詰城)を建てたのが始まりとされている。
この南部氏館は光行が陸奥国へ移住した後も南朝の拠点として使用された。
現在は南部氏館、南部城共に建物は存在しないが、南部氏館跡には古井戸の遺構が残されている。

土塁らしき堀 
    

室町時代になると陸奥国へ移住した波木井氏にかわり、武田氏の一族である穴山氏が治めるようになる。
戦国時代に武田信玄が今川氏を滅ぼすと、当地に南部宿が設けられ、駿州往還の整備と共に軍事上・交通上の要所となる。
南部を治めていた武田氏家臣穴山信君の発給文書には度々南部宿の名前が登場し、伝馬の際は特定の時刻を過ぎた場合は南部宿に泊まるよう記されていたり、通行証の確認を行うなど関所の代わりとしても役割を担っていたと云う。

本堂                  浄光寺の境内
  

鎌倉時代には光行の子・南部実長(波木井実長)をはじめとする波木井氏が当地を治めていた。
実長は日蓮宗に帰依していたことから、当地に浄光寺や妙浄寺といった日蓮宗の寺院が建立されている。
この2つの寺院は現存し、浄光寺には、南部氏の墓石群がある。


南部氏墓石群                    地域の集会所なのか
    

身延山                  久遠寺 総門


立派な楼門                                            参道
    

「久遠寺」は、1274年日蓮が、やまの西谷に草庵が起源で、1281年身延山久遠寺と命名された。
本尊は、大曼荼羅、1882年江戸池上で没し、遺言で墓を身延山西谷草庵北に置くように云い残している。今でも多数の僧坊が建てられている。
1712年時数133に達したという。

久遠寺参拝、287段の石段を登ると左手に五重塔、正面に大本堂で、日蓮宗の聖地である。
総門、三門、本堂、祖師堂、奥の院と続く、広い境内には、樹齢400年の枝垂れ桜が迎えてくれた。

                      287の急な階段
    

佐渡島流罪を許さ蛇日蓮が、「波木井実長公」の招きで身延山に入山し、庵室をかまえた事が起こりとされている。
以来9年に渡り、法華経の読誦と門弟達の指導に努めた日蓮は、1281年身延山に本格的工事をし本堂を建設している。
療養の為、武蔵の国池上で没した。


  

日蓮 1222-82  戦闘的な日蓮宗の開祖、千葉県、安房の生まれ、安房の清澄寺にて出家、浄土教を批判した。
鎌倉で「立正安国論」を書き上げる。北条時頼に提出したが無視され、伊豆へ流された。他宗の僧から憎まれ、佐渡ヶ島へ流された。身延山で蒙古来襲している。
鎌倉竜の口で打ち首時、雷鳴と稲妻が走り命が助かっている。

本堂
  

本堂裏手に身延山山頂を目指すロープウエイで約7分に奥の院「恩親閣」があり、ここからの展望は南アルプス、富士山を望む事が出来る。

                    
    

境内や参道に芭蕉等の句碑が


    

「蓮華寺」 日蓮聖人の高弟の1人であった日持上人が開基の古刹。



次回は、身延山久遠寺の裏手、早川・七面山へ。