syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

三保の松原と清水港

2013-10-12 | 富士山麓日記
東海道五十三次江尻宿


三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。

三保の松原中央海岸


三保松原は、芸術の源泉の構成遺産の ひとつに登録され、ユネスコに提出した世界文化遺産推薦書を受けた。
構成資産 は羽衣公園付近から真崎までの清水海岸。

世界遺産登録の「松原」


能ー「羽衣」は、1549年 山科言継という京都のお公家様の日記にある。
言継は、三保にもやって来て、「羽衣」ゆかりの松を確かめて、1557年 久能寺から三保に来て「羽衣の松」を見学。
三保の貝島で貝拾い、御穂神社に一泊して宴会、翌朝、船で二里あまりを清見寺へ渡って船上で音曲を楽しんだ。
「羽衣の松」を見た時より、船上の富士の眺めに驚嘆して「遠景、言語に説くべからざるなり」と記録している。
言継卿の見た「羽衣の松」は初代のものと思われ、海中に沈んだと伝えられている。
羽衣伝説を後々まで残すために村の人達が大事に二代三代の松を継承してきた。能の「羽衣」は、今でも人気が高く、全国の能学堂でも上演回数が最も多い。
10月には、三保の松原でも、松前に特設舞台を設置し、薪能「羽衣」が上演される。

羽衣の能            伐採された羽衣の松


三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着くが、その姿は、無い。「羽車神社」で参拝する。

伐採された羽衣の松の横に「羽衣神社」参拝


平安時代から親しまれている三保半島の東側に広がる景勝地である。駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
歌川広重の『六十余州名所図会』「駿河 三保のまつ原」を始めとする浮世絵にも描かれている。
日本最古の和歌集である『万葉集』に、
         廬原乃浄見乃埼乃見穂之浦乃寛見乍物念毛奈信/廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし

                                                (田口益人, 『万葉集』巻3-296)
松原海岸から富士山方面を


松の間に沈む太陽


「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
天女の羽衣伝説で名高い神社。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。

松原神の道の入り口神社           鳥居               境内
    

鬱蒼とした境内内                      三保の松原神の道松並木
    

「清水港」

江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。

清水と云えば清水港           港から富士山が美しい、今日は薄曇り


「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。

丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。

「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。

              日本平から下界を               放送アンテナ      


次回は、富士川街道に戻ります。

興津宿 家康ゆかりの清見寺

2013-10-10 | 富士山麓日記

東海道五十三次興津宿


鰻の寝床が連なる街続き、間口に対し奥行きがあるのは江戸時代の名残で、税金逃れだという。幕府は、宿場以外での宿泊を禁止であったが、
休み茶屋にこっそり泊っていく旅人もいたという。茶屋では、さざえの壺焼きを名物として出していた。
駿河湾の海岸も直ぐで眼下には、工業地帯のクレーンと青く輝く海一面。
山部赤人の歌「田子の浦ゆ打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」に出てくる田子の浦は、かって、この辺りの「さった峠」から海岸を見て
歌われたとも言われている。

「興津」は、江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち
、避寒地として全国的にも知られていた。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっている。

東海道17番目の宿場町 興津宿              薄曇り、街と駿河湾
  

「日蓮宗・理源寺」・山号 祥瑞山。所在 清水区興津中町  開山は身延26世知見院日暹。日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年間に草創された。
安政の地震で厄を被り、20世日修が堂宇の建立を果たした。
寺の裏を沢端川が流れ、その向こうに七面山という山がある。沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて寺が建立されたとある。
江戸時代の初め頃のことで、当地に疫病が流行し、多数の死者が出たので、村の代表者が身延の七面山を信仰して厄を逃れたという。興津駅より西へ徒歩約3分。

山門                                     本殿
  

徳川家康ゆかりのある名刹「清見寺」
奈良時代の創建と伝える。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。
その頃、徳川家康は今川氏に人質としてあったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。
江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。
広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。庭園も国の名勝に指定。
駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、室町時代には雪舟が、明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れている。
寺の境内を東海道本線の線路が横切って分断されている。

旧国道一号線入口山門          JR東海道陸橋渡り楼門        歴史を感じる鐘楼      
    

今川義元 1519-60 駿遠の太守、武田、北条と同盟、尾張桶狭間で信長軍に討たれた。服部小平太の槍を受けたが、小平太をなで斬りに。

武田信玄 1521-73 甲斐国の大名 軍隊強化領土拡張、戦場で病死。

白鳳時代、清見関が設けられ、その守護として仏堂が建立された。現在の寺は、江戸時代で再建され、家康公が手植えた梅、秀吉が陣鐘とした
梵鐘と五百羅漢などが健在であった。

彫刻                                     本殿
    

境内から見た興津の街  遠方は海、工場のクレーンが       境内には無数の石仏
      

現在は、田子の浦、清水港も近代的コンビナートになってしまっているので、江戸時代のようには、三保の松原等、見渡せない。東海道線の電車が通過していった。


寺を背に五百羅漢の石仏         釈迦像
  

西国寺公望1849-1940公爵政治家、戊辰戦争で越後総監参謀、伊藤博文内閣の文部大臣、1906年西国寺内閣組織、明治大学設立 軍部急進派を押さえられなかった。

「坐漁荘」は、明治の元老であった公爵・西園寺公望が1920年興津町(静岡県静岡市清水区)に建てた別邸の名。公望本人は政治の中枢から離れ、興津の地に別邸を建て、「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」と云う意味を込めて『坐漁荘』と命名、東京市神田区駿河台の私邸から移り住んだ。
「のんびりと過ごしたい」と隠棲生活を望んだ本人の意思と裏腹に、大正から昭和にかけて激動する日本の政治の数々の局面でクローズアップされた舞台となり、
日本政界の中枢人物による興津の坐漁荘詣でが頻繁に行われたと云われる。

                                  門                   玄関
    

1940年に公望が亡くなった後は西園寺家が管理、建屋の老朽化が著しくなったことから1968年に博物館明治村への移築話が纏まり1970年に明治村での移設公開が始まった。
2003年には登録有形文化財に登録され、2012年建物保存のため工事が行われた。現物は、2004年に復元された。「興津坐漁荘」の名称で一般に公開された。

旧国道一号線                   庭園                       裏庭            
    

西園寺公望が政治家になった契機は伊藤博文の欧州憲法視察団に選ばれたこと。首相を2回経験、2回目は明治最後の首相、1923年元老の勅命を受け(元勲)。
元勲、元老とは天皇に直接意見を言える立場の人。もともと大日本憲法上には元勲、元老の規定がなく、1926年に皇室儀制令により制定されました。
西園寺以降に勅命を受けたものはなく、「最後の元老」として、松方正義死後はただ一人の元老であった。西園寺公望は1940年、この坐漁荘で亡くなっている。

資料展示、洋間                            見晴らしの良い客間
  

江戸無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談は、「望嶽亭」が駿河湾のこの辺では、と探したが判らなった。

小池邸屋敷                      昔懐かしい格子戸の家
    

旧国道一号線の「興津一里塚」「西本陣・東本陣」「身延山道標石塔寺跡」などが街道筋にある。

土間と各部屋                            庭園
   


東海道を旅し弥次喜多を書き上げた
「十返舎一九」滑稽本作家 1785-1831  駿府の下級役人の子、25歳で浄瑠璃作家、38歳で「東海道道中 栗毛」弥次喜多珍道中記刊行
20年間続編刊行された。性格は真面目でコツコツメモ魔であったようだ。

次回は、清水(江尻宿)・三保の松原へ。

蒲原宿 由比宿

2013-10-08 | 富士山麓日記

東海道蒲原宿


15番目の「蒲原の宿」は、由比と同じ細長く、格子戸が並ぶ町並み、

蒲原宿は、山、川、海に囲まれ、今は、静岡市清水区蒲原。
駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域で、温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。

海辺の町らしく明るく伸びやかで、確かな歴史の息吹が感じ、通りの人に聞くと左に見える山の頂上に「蒲原城」が有ったという。
「蒲原城」は、 山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。

遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等がある。歴史は、鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。
1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城した。

城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれている。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続き、そんな中でも、北条の長老格であった、「幻庵長綱の子」ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつという。

蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           


蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きをし ていたのであろう・

宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂している。

直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る。
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」

直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。

海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像出来ない。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。
広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。「親不知、子知らず」の道と呼んでいると云う。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

東海道五十三次由井宿


「由比宿」は、16番目の宿場。
小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを見せていたのであろう。

「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。
「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。
1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。

爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。
お地蔵さまの寺とも呼ばれ、本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目と云う。

地持寺                               楼門
    

境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    

浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。

坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。

                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。

                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

つぎは、興津宿へ。 

吉原宿 田子の浦ゆ

2013-10-06 | 富士山麓日記

葛飾北斎ー1760-1849 引っ越し好きの貧乏浮世絵師「富嶽三十六景」「北斎漫画」など。
安藤(歌川)広重ー1797-1858 歌川豊広門人 「東海道五十三次」「六十余州名所図会」「江戸名所百景」など。


東海道五十三次吉原宿




広重の「左富士」、松並木を行く馬の背から進んでいく前方を見ると、「富士山」は左にある。東海道で唯一の左富士と云うが、相模川の位置
も左と云う。広重は、吉原を選んでいる。これは、ここで北西に曲がっている。
街道脇に「左富士神社」があると云う。

田子の浦の今は、田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展。
日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい、接岸できなかったりする。

田子の浦湾


今年の夏は、雲多く「富士山」がハッキリ望めない日が、
吉原、田子の浦、岩松昭和29年富士市に、旧宿場は、新吉原辺りと聞く、地名はJR吉原駅、岳南鉄道にある。地元民は、四季折々を通じて
生活の中に「富士山」がある。

富士市から


今、富士川は、町の西方であるが、昔は、原宿の浮島ヶ原にかけて一面が富士川の河原で、大雨等で流域が大きく変わっていった。




国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


公園                 田子の浦樋門




「沼川の石水門」は、明治19年に完成し、「6つめがね」の通称で親しまれていた。
長さ63.5メートル、幅・高さ6.9メートルの立派なもので、沼川一帯の農耕地を海水の逆流から守ってきましたが、貯木場を建設するために取り壊され、(現在は沼川橋になっています)昭和41年12月沼川石水門は、撤去され、碑が建てられている。



現在の街並み                      石水門の碑             
    


「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。

田子の浦みなと公園の森                田子の浦    化学工場のクレーンが
    

「田子の浦みなと公園」山部赤人の歌碑あり。
公園から残念ながら田子の浦の港は臨められないが、秋には、展望台から、御前崎、東は箱根山麓、南は天城から大瀬崎、そして北は富士山、愛鷹山、南アルプスと見える時もあるという。


公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

「妙法寺」は、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にある毘沙門天妙法寺。
毘沙門天は、四天王最強の神で、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者というところから多聞天とも呼ばれている。日本では財宝や福徳を与える神様としている。
毎年旧暦の正月に行われる毘沙門天大祭は日本三大だるま市の1つとして有名で、ここで売られる立派なひげのだるまは五穀豊穣、商売繁昌などの縁起物として人気。

毘沙門天妙法寺                   正面
  


山号、香久山、毘沙門天、市今井町、 日蓮宗 本尊 一塔両尊、創建 1627年  開基 渡部彦左衛門 、開山 日深上人、本寺 身延久遠寺、 日蓮宗橘、
毘沙門輪宝 鎮守 毘沙門堂、 旧暦正月7~9日:大祭(だるま市)。

銭洗いの池に、「お札やコインを洗って種銭して下さい」、と書かれていた。毘沙門天は勝負運、開運に利益があるとされて、ここでお金を洗って商売の種銭にしたり、
勝負事などにも御利益が?。

大鳥居                        鐘楼          本堂前           
    

本堂は、毘沙門堂と呼ばれ、日本風建築、奥には、インド風建築の建物。同じ寺内の建物とは思えない、屋根は、竜が彫られている。
左右に狛犬も彫られ、歴史を感じさせる。呪文で、フクジュウカイムリョウの呪文を唱えは、惣無量の物を与えたまえの意味らしい。


焼香殿                              本殿
  

 「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。


この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。


浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが



次回は、蒲原宿・由井宿へ。

本栖湖と身延町の木喰上人

2013-10-05 | 富士山麓日記

「本栖湖」(5千円札の富士山は、本栖湖)
山梨県南部西端、上九一色村本栖、富士五湖で一番深い湖。
「水深138m・面積5.1km2・周囲10km・湖面の高さ900m・透明度17m。

864年噴火の際、青木ヶ原溶岩流に分断された。


「江岸寺」曹洞宗の寺。
織田信長は甲府を発って富士遊覧の旅に出た。供をするのは馬廻り衆一万余人で、重臣たちは信濃路を通ってそれぞれの所領に引き揚げることになった。案内役は、今度の武田攻めの功によって駿河国の大半を与えられた徳川家康である。旅程はおよそ十日。甲府から中道(なかみち)往還を通って富士の裾野を南に下り、東海道を上って安土に戻る。信長にとって生涯最初で最後の大旅行だった。

一行は、本栖湖に着き、湖畔の江岸寺を宿所とした。
江岸寺は古くから、甲斐と駿河の国境をわかつ軍事上の要衝として重視された寺で、武田信玄も寺内に武器弾薬を蓄え、非常の場合に備えていた。その構えに着目した家康が、信長の宿所とするために城と見まがうばかりの要塞に造りかえていた。
家康は、この機会に織田家と徳川家の好誼を深めておこうと考えているらしく、本堂には三十人ばかりの席が用意してあった。
本堂では三献目の盃が回っていた。信長から流れた盃を、列席した者たちが神妙な面もちで回している。徳川方の上座には家康と穴山梅雪が並んで座り、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政らが居流れていた。
後に徳川四天王と称された者たちだけあって、面魂も居ずまいも見事であった。
しかも家康に心服している有り様がありありと見えて、はた目にも羨ましいほどだった。
「織田信忠(信長の嫡男)では家康には太刀打ちできぬ」 信長は、そのことがはっきりと見えていた。
万一自分が急逝したなら、織田家はたちまち家康の離間策によってばらばらにされ、徳川の軍門に下ることになろう。
そうならぬように、今のうちに盤石の体制を築いておかねばならなかった、、、、。

富士川の支流に放水している
  

「中央往還」
中世に甲府~駿河を結ぶ、物資輸送路で本栖湖を経由、身延、下部、富士川へ
    

300年続く「公家行列祭り」は、5月に。
  

本栖湖から見た富士山
  

上九一色村(山梨県西八千代郡・県南部)
  

御坂山地西端部の村で、木工品製作地の「工一色」で郷内に9村「九一色」があった。国道139・358号線沿い
  

国道300号は、山梨県富士吉田市から山梨県南巨摩郡身延町に至る一般国道で、「本栖みち」山道を下る。
  

下部農村文化公園「身延道の駅」常葉川が流れる


木喰上人は、 1718年- 1810年 江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。
全国に数の遺品が残り、「木喰仏」作者。
生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称し、特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した仏教者を行者あるいは遊行僧などと称したが、木喰はこうした遊行僧の典型、
全国を旅し、訪れた先に一木造の仏像を刻んで奉納している。
木喰の作風は伝統的な仏像彫刻とは全く異なった様式を示し、ノミの跡も生々しい型破りなものであるが、無駄を省いた簡潔な造形の中に深い宗教的感情が表現されており、大胆なデフォルメには現代彫刻を思わせる斬新さがある。日本各地に仏像を残した遊行僧としては、木喰より1世紀ほど前の時代に活動した「円空」がよく知られるが、円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いのも特色。

木喰の里微笑館         厳しい山奥にある見学は予約をした方が良い
  

木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出、91歳の1808年まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。
91歳の時、甲府(甲府市金手町、の教安寺に七観音像(甲府空襲で焼失)を残し、甲斐善光寺において阿弥陀如来図を書き残してから
木喰は消息を絶った。故郷の遺族にもたらされた記録によれば、1810年、93歳でこの世を去ったことになっている。最期の地は、木喰戎を受けた水戸の羅漢寺ではなかったかと言われているが、確証はないと云う。

木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられている
  

代表作品は、 五智如来(1800年)(山梨県身延町・永寿庵)・ 地蔵菩薩(1801年)(日本民藝館蔵)・ 七仏薬師、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・毘沙門堂蔵)・ 勢至菩薩・聖観音、自刻像(1807年)(兵庫県猪名川町・天乳寺蔵)・ 十王尊・白鬼・葬頭河婆、自刻像、立木子安観音(1807年)(兵庫県猪名川町・東光寺蔵)等がある。
    

次回は、朝霧高原へ。