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東海道 原宿と白隠禅師

2013-10-05 | 富士山麓日記
静岡路は、22の宿場で賑わい古くから多くの旅人を迎えている。豆州・駿州・遠州とそれぞれの文化・自然が楽しめる。
地産も、お茶・わさび・ミカン・鰹節・海苔・桜えび・しらす・鰻など。
この辺りの駿州(沼津・富士・清水)は、富士山浅間神社総本宮と富士山雪解けの湧水に恵まれた地域である。

東海道五十三次原宿


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」、ここは、14番「原」である。
現在原は、沼津市、駿河湾がら堤防に立つと西方、ここは、工場の煙突から煙を出した工場、製紙工場が点在している。
沼津から原まで、6km、海岸線は、黒松の松原「千本松原」の名で呼ばれている。
沼津市内に「乗雲寺」の僧「増誉上人」が、一本一本植林したと伝わっている。
戦国の争乱、東海に進出を目論んだ「武田軍団」は、三枚城を取り囲み、千本松原を切り払ったが陽動動作戦には乗ぜられず、根負けした
武田勝頼は、引き上げたという。勝頼の切り払った松林を、増誉上人は、自ら修植し、再び元の姿に戻した云う。
次の宿場は、「吉原・田子の浦」となる。

隣吉原宿まで11km、2里強、東海道で一番小さい宿場


「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師。
1716年父の病で松陰寺に戻り、1717年 松蔭寺の住職となり、34歳の時京都妙心寺の第一座となった。
その後、禅の大衆化を図り、ついに50 0年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれ、白隠は、禅画を確立した事でも有名。好んで釈迦,観音,達磨等を描きその名も高い。白隠の郷里へ。

小田原の北条早雲は、旗揚げを、「興国寺城」であった。城は、浮島ヶ原湿地帯の難攻不落の城と云われていた。
北西に富士山で湧水が溜まって湿原になったという。

天保14年頃の原宿、人口1939人、家数398軒、本陣1軒、旅籠25軒
 

今年の1月の日曜日、渋谷東急本店横の「ザ・ミユージアム」ー禅画に込めたメッセージ・白隠展ーに出掛けた白隠の禅画を見たので再度掲載する。

その時の記事から
今から500年前、江戸中期の禅僧「白隠慧鶴」、民衆教化に捧げた、現代の臨済宗中興の高僧で、天皇より「神機独妙禅師」の号を賜った、白隠(はくいん)1685-1768 駿河国(沼津)で生まれるいる。

15歳で臨済宗、松蔭寺に出家し全国行脚、33歳で松蔭寺に戻り住職に、臨済宗を説く、僧には珍しく豪勇で、狼が昼夜出没し村人に害を
与えているにもかまわず、白隠は、独り座禅を組んだ、狼は、白隠の顔を舌で舐められ、頭上を飛び回っても動じずに座禅を続けていたという

「臨済宗」とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を、坐禅や日常生活を通して体験し、自覚すること、
「こだわらず」「とらわれず」、迷いも欲望も苦悩もない、自然と同化した絶対的境地。
それが本来、人間がもつ清浄な仏心そのものと云う。

日本の禅宗には、三つの宗旨「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」があり、臨済宗はその中のひとつ。臨済宗の教えを「臨済禅」と呼びます。
坐禅を宗旨の中心として、師匠から与えられた問題「公案」について工夫し、坐禅により身体で会得した見解を提示し、点検してもらいます。これをいわゆる禅問答「入室参禅」といい、このような坐禅修行を中心とする教えが臨済宗である。

蓮池観音は、珍しく鮮やかな多色づかい。


西念寺(天神さん)は、時宗。山門・観音堂等があり、望海景勝の寺であったという。浮島原に常休庵・休心坊などの末寺もあったが、延宝年中火災により堂字等を消失し、明治26年鉄道火災によって、本堂等類焼。
境内に入って左手に菅原道眞公 をお祀りする天満宮(昭和58年再建)が、西念寺門前で生まれた「白隠禅師」。   

白隠誕生地の石碑  西念寺先駿河銀行前(道路南側)に石碑がある。 


原宿は、富士の浮世絵に出てくるのは、もっと近い地形にある。江戸から32里で幕府領(天領)伊豆韮山代官(江川太郎左衛門)の管轄であった。   

石碑の奥には白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
 
清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。

    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

境内に、                                  堂 
  

藤棚                     本堂
    

昌原寺は、浅間神社向かい。
日蓮宗、大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

昌原寺                                            本堂 
    

浅間神社は、祭神木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと),
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

浅間神社             狛犬                   拝殿
    

「徳源寺」は、原駅より約0.5kmの寺、 臨済宗妙心寺派。1193年、源頼朝が行った富士の巻狩りの際、陣屋をおいたことから始まる。
律宗の寺院を経て1278年、円覚寺派の徳源寺として創建された。
1654年、妙心寺派興津清見寺・松厳宗密老師を拝請し、準開山として清見寺末寺となる。
境内には「頼朝お手植えの松3代目」とされる松があり、庭には、東海道の名園といわれた植松本家の「帯笑園」の遺構がされている
「古郡孫大夫重高の墓・子安地蔵」

徳減寺           山門


次回、吉原宿へ。

千本松原から東海道へ

2013-10-03 | 富士山麓日記

永禄3年ー1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城で、三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。
城の築城時期については、1577年に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年には既に築城されていたという説があり、現在では後者が有力で、城の城主としては高坂源五郎が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の戸倉城で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。

沼津と云えば、「江原素六と兵学校」、明治維新後はアメリカ視察を経て、徳川家が移封された静岡に移り住み、沼津兵学校、 沼津中学校などの創設に貢献。
明治23年には第1回衆議院選挙に当選し 、自由党、憲政会、政友会の議員を務め、麻布中学の初代校長歴任、銅像があると聞いたが不明。

沼津市内「医王山・東方寺」
    

乗運寺向かいには「醫王山東方寺」がある。 臨済宗の寺、ご本殿は、薬師瑠璃光如来像、古くは真言宗の寺で、江戸時代の明暦年間に
臨済宗 として再興された。

境内
    

寺で、塗ってよし、飲んでよしと言われた 万能薬「清明丹東方寺目薬」を製造販売していたと云う。
切疵や潰瘍に効くと言われて、一時は、この薬の売上で寺が維持されていたと云う。
しかし、薬事法の関係で昭和50年に製造販売を中止した。
沼津修養会がこの東方寺に置かれ、講話会や座禅会が開催され、沼津仏教会の中心的寺になっている。

境内
  

千本浜通りに、出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期であった。

頼朝の頃、京都からの距離から想像するに,平安中期に,沼津あたりに着手していたとみても,それほど狂いはないと云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

毎年4月に開帳の法要が営まれているが、その際120反の帆布で作られた大観音曼陀羅の開帳がある。
この曼陀羅は、その昔航海の難所熊野灘、遠州灘などの航海安全を念願して、船主はその無事帰還のお礼にと、船の命の綱と頼む帆に霊像を写して奉納したのに始まったと伝えられる。
現在寺に所蔵されている曼陀羅は、明治8年の正月に菊地金平受広(別名、一運斎国秀)がこの完成のために日頃の信仰から、斎戒沐浴し、およそ200畳敷き余もある綿布に半年の年月を費やし、原図のとおりに精巧緻密に写し上げたもの。

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


沼津「千本浜公園」は、東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園。
堤防上や松林の中を散歩・ジョギングする人など多い。数々の歌碑・文学碑がある。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑


次回は、東海道「原宿」へ。

伊豆の国市から韮山ヘ

2013-10-01 | 富士山麓日記
駿河湾は、日本一の深い海、ここから見る富士山は、日本一高い山、標高差7000mある。
それは、駿河湾トラフの深い谷がある、その下にフイリピン海プレートが沈み込んで、噴火形成火山が「富士山」である。
写真の島が「淡島」で全体が自然公園(マリンパーク)波静かな海水浴場でも知られている。渡るには船で、千鳥観光汽船が運営している。
三津シーパラダイスからいろいろコースが出ている。

伊豆・三津シーパラダイスは、沼津市にある水族館。 伊豆箱根鉄道が運営( 龍宮丸、水族館、 飼育、 ギャラリーなど。


かつては無人島、1940年に第二海軍技術廠の「音響兵器部 淡島臨海実験場」という軍事施設が設置されたが終戦に伴い撤去、
1980年代に東京相和銀行のオーナー「長田庄一」が淡島全体をリゾート開発、1984年に水族館・プール・パターゴルフ場を中心とした
「淡島海洋公園(現あわしまマリンパーク)」が開業した。
リゾートホテルである淡島ホテルが開業し、ホテル従業員が島内に在住しているが、無人島扱いという。
1999年に東京相和銀行は経営破綻したが、マリンパークに関しては運営会社を移転している。
弥生時代の遺跡が発見され、土器が出土し、島の山頂には淡島神社が置かれ、珍しい昆虫なども島内に生息し、散策だけでも楽しめるようになっている。島面積0.165KM2・海線2.2KM.
 
写真の小さい島「淡島」沼津市

伊豆国、古来、罪人配流の地で、源頼朝や日蓮も流された。平安時代に、駿河守「藤原維景」は、土着して狩野氏を名乗っている。
子孫は、伊東、宇佐美、河津氏として栄えた。
伊豆介とし赴任した「平時方」は、北条(韮山)に土着、その孫「北条時政」は、(蛭が小島に流罪の源頼朝)を助け鎌倉幕府の樹立に貢献した。時政の娘「政子」は、頼朝の妻となり、頼朝死後、尼将軍と称された。
室町時代は、足利政知は、田方群堀越(韮山)に居を構え関東の支配をめぐってしもうさの「古河公方」と対立していた。
足利政知没後、北条早雲が堀越公方を攻め韮山に拠点を置いている。小田原北条氏の基礎を築いた。
韮山の「反射炉」は、1792年ロシア使節団根室に来航し、江戸海洋防衛問題が持ち上がり、幕府老中松平定信は、下田開港場と韮山に
炉が築かれた。

「願成就院」は、伊豆の国市にある、高野山真言宗の寺院。山号は天守君山。境内は国の史跡に指定されている。
仏師運慶の数少ない真作の一つである阿弥陀如来坐像などの仏像を安置する。

願成就院


吾妻鏡によると、1189年に北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したという。寺に残る運慶作の諸仏はその3年前の1186年から造り始められており、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられている。
1236年までの間、願成就院の仏堂、塔などの伽藍造営に関する記事が散見され、北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に伽藍は拡大したことがわかる。
現境内の北方、住宅地を挟んで500メートルほど離れた位置に礎石などの遺構が確認、同遺構と現境内の間には苑池の跡も見出された。
全盛期には巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそびえ立つ、藤原時代様式の壮大な伽藍を誇る伊豆屈指の大寺院として栄華を誇ったと云う。しかし1491年に北条早雲による動乱で願成就院はほぼ全焼している。



空海 774-835   真言宗開祖  讃岐国に生まれ、四国各地修業して出家、 入唐氏、帰国後嵯峨帝と親交 高野山を賜る。
   京都東寺に道場 書は三筆の一人  弘法大師に、伝説、書物多い。

弘法大師像


「仏像」
木造阿弥陀如来坐像、大御堂本尊・国宝 - 鎌倉時代、運慶作。像高142cm。胸前に両手を挙げる説法印の阿弥陀如来像。
平成25年ー不動明王二童子立像、毘沙門天立像を含めた5躯一括で国宝に指定。

木造不動明王二童子立像、大御堂・国宝  像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子像が81.8cm、矜羯羅童子像が77.9cmである。
本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。
不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。

木造毘沙門天立像、国宝 - 本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王ニ童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。

木造地蔵菩薩坐像(重要美術品) - 北条政子七回忌に、北条泰時が願成就院に奉納した地蔵菩薩坐像。
本像は顔が北条政子の顔となっているといわれ、政子地蔵菩薩の通称がある等。



1189年文治5年、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立し、北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めたと云う。
伽藍は、奥州平泉の毛越寺を模した構成であったとも云う。



「守山八幡宮」は、北条氏ゆかりの願成就院の後方、守山の中腹にある。
守山八幡宮は、647年、大山祗神を祭神として創建され、907年、宇佐八幡宮の八幡神が勧請され合祀された。

1180年には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している。

現在の本殿は、1632年に久能城主「榊原照久」によって造営された建物。



古代、守山八幡宮の建つ北条郷と狩野川の反対側の江間郷は一つの郷で、狩野川を越えた大男山(雄徳山) 山頂に総鎮守があったと云う。
しかし、狩野川の流れが変わり、両郷を分断してしまったため、北条郷は守山の地に遷座し祀ったのだといわれている。
その後、八幡神が合祀され守山八幡と称されるようになった。



「北条氏菩提寺 北条寺」

北条義時 1163-1224 鎌倉幕府二代執権、時政の次男、頼朝死後、13人の合議制のメンバーに、三代将軍源実朝暗殺されると京都から九条
     頼経を四代将軍に迎え、武家政権を確立させた。義時は、公家監視の「六波羅探題」は永続している。



北条寺のあるあたりは鎌倉北条氏2代目の義時が若き日に屋敷を構えたところという。
義時の父時政の屋敷は願成就院の近くで、現在では狩野川を隔て対岸であるが、当時は川はもっと東を流れていたため、2つの屋敷は近かったのだそうだ。
大蛇に飲まれて命を落とした我が子を弔うために義時が建立したのがこの北条寺であると伝えるが、実際には南北朝期の創建らしい。
かつては宝城寺と称した。
戦国時代には後北条氏によって保護されたが、秀吉によって焼かれ、その後江戸時代に再建されるも、火事や台風によって古い建物は残っていない。
しかし江戸時代の絵馬が多く残り、かつては盛んに巡礼されていたことが知られる。



鎌倉時代前期の阿弥陀如来坐像と南北朝時代の観音菩薩坐像が安置されている。

本堂                      北条家墓地


北條寺は、臨済宗建長寺派の寺院。鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。
義時は北条時政の子で江間小四郎と称していた。 境内には、北条義時夫妻の墓がある。

本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県重文)。
その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県重文)がある。

境内に蓮                     古い墓塔


次回は、沼津市内方面に。