syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

伊豆高原に遊ぶ syu散歩

2017-01-10 | syu散歩
伊豆高原に滞在しました。ホテルからの景観です。
大室山、年初めに山焼きをするそうです。 


江戸時代は、伊豆七島ー徳川直轄地、島奉行伊豆韮山代官支配下のい置かれていた。
軍事・戦略上、現在も東京都。







 「伊豆七島」東からー大島・利島(トシマ)・新島(ニイジマ)・神津島・三宅島・御蔵島(ミクラジマ)・八丈島。
7~8世紀から流刑地であったと云う。



「大島」
製塩・薪・アンコ椿油・三原山(758m)二子山(619m)・観光客年間4~50万人。



「三原山噴火の歴史」
伊豆大島では約2万年前から現在まで、100年ないし200年毎に合計100回前後の大噴火が起きたと考えられている。
「三原」は、出産のように溶岩や土石流を噴出することから、子宮や体内を表す「御腹」から来ているとされる。
古代の火山活動については六国史などに記述があるが、伊豆諸島の中で伊豆大島三原山の噴火と断定できるものはないと云う。
伊豆大島の名が噴火記録に出てくるのは、竺仙録に「海中有一座山、名曰大島、毎年三百六十日、日日火出自燃」とあるのが最初で、1338年ごろの様子を記述したと考えられ、島内の元町地区にある薬師堂の祈祷札には、天文21年9月19日(1552年10月17日)に
「御原ヨリ神火出テ同廿七日ノ夜半、江津ニ嶋ヲ焼出」という記録がある。
これが噴火場所として「みはら」という名が出てくる最初の記録で、近世の大噴火としては、天和4年(1684年)から元禄3年(1690年)にかけての噴火と安永6年(1777年)の噴火が挙げられ、どちらも溶岩がカルデラ壁を越えて流出するほどで、御救米が下されたという。




噴火開始ー6日後の1986年(昭和61年)11月21日になると昼過ぎからカルデラ北部で地震が頻発し、午後4時15分、カルデラ床からの割れ目噴火が発生、この噴火は一連の噴火で最大級のもので噴煙は高度8000mに達した。
観光ムードであった島内の空気は一変し、住民達は慌ただしく離島の準備を始めたテレビ局のスタッフを前に、事の重大さを思い知らされる事となる。
これまでに経験した事のない揺れと噴火を前に大島町役場は直ちに対策本部を設置、本部長には当時の大島町長植村秀正により、町助役の秋田壽が指名された。秋田は昭和32年の噴火を知る数少ない現役職員の一人であった。
午後5時46分には外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3000人が住む元町集落に迫った。
この溶岩は最終的に元町の人家から数百mまで迫った。割れ目噴火は北西側に伸びたため、当初島南部への避難が行われたが、波浮港には大型船が接岸できないこと、地震活動の南東部への移動、波浮港周辺での開口割れ目の確認など、噴火の更なる拡大が懸念され、22時50分には全島避難が決定された。

対策本部の救援要請を受け東海汽船所属船8隻や周辺の漁船2隻が救援に駆け付けたほか、時の第1次中曽根内閣の政治決断により海上保安庁の巡視船8隻や海上自衛隊の護衛艦2隻も急遽派遣された。
安全保障会議設置法適用第1号であり、後藤田正晴官房長官が筆頭となり官邸主導で指揮を執った救難作戦は優れた危機管理の事例として高く評価される反面、住民救出の為に編成された護衛艦艇群は後藤田に暗に促された鈴木俊一東京都知事が災害派遣を正式に要請した時には既に大島に向かった後であったともされており、国土庁を始めとする各省庁からは横暴であると記者会見で非難された上に、国会では公明党などから職権乱用、省庁権限の干犯として激しい糾弾を浴びる事となる。
翌22日5時10分に最後まで残っていた大島支庁・大島町職員が退去[6]。全島民及び観光客1万226人の救出を完了した。




湯河原 万葉公園 syu散歩

2017-01-08 | syu散歩
「湯河原」
国木田独歩ー1871~1908
独歩は5年後の明治39年、そして40年湯河原を訪れ「中西屋」に逗留。
「独歩社」が破産し、失意のあまり酒に溺れ、病状(結核)が悪化し、静養に、付き添いの養母をからかいながらの湯河原行き風景を軽妙なタッチで、
独歩がしばしば藤木川に出かけ、ボズさんと呼ばれる孤老と親しくなり、その出会いを書いている。
「湯ケ原ゆき」の末尾は次のような一文で終わる。

「日は暮れかかって雨は雨は益々強くなった。山々は悉く雲に埋もれて僅かに其麓を現はすばかり、我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかへ、湯ケ原の渓谷に向かった時は、さながら雲深く分入る思があった」。
万葉公園の中にある独歩文学碑にも刻まれている。



「万葉公園」-日本の歴史公園100選ー
万葉集の中でも唯一温泉についてうたわれた湯河原を象徴する公園。

文人墨客や多く訪れている。


公園は、湯河原温泉中央ー千歳川・藤木川の合流点に、昔は「大倉公園」と云っていた。



園内には万葉植物が約85種ある。



「湯河原」町は、神奈川県足柄下郡で川を渡ると、静岡県熱海市。河から湯が湧出で「湯河原」の地名が。





昭和9年丹那トンネル開通。豪族「土肥一族」から小田原大森氏から小田原北条氏から小田原大久保氏に・・・。





















真鶴岬と三ツ石 見晴台カフェ syu散歩  

2017-01-06 | syu散歩
「治承・寿永の乱ー小田原石橋山の戦い(1180年)
平氏勝利・(源頼朝軍300騎・大庭景親と伊東軍3000騎・「北条宗時討ち死に」)

頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗。
「平家物語・源平盛衰記」などには佐奈田与一(真田余一)の奮戦が伝えられ、この地には与一を祀る佐奈田霊社が創建されているとある。
大庭軍は勢いに乗って追撃し、頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
翌日、大庭軍は追撃の手を緩めず、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。
頼朝も弓矢をもって自ら戦い百発百中の武芸を見せた。
ちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まり、頼朝は臥木の上に立ってこれを悦んだ。
土肥実平(湯河原城主)は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言し、皆これに従って涙を流して別れた。
北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かい、嫡男の宗時は別路を向かったが、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死に。
大庭軍は、山中をくまなく捜索した。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救った。
このことが縁で後に景時は頼朝から重用されることになる。
土肥の椙山のしとどの窟がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。

頼朝・土肥(7名)らは、真鶴岩海岸から、小船で、「千葉県」に向かった。


































初詣 熊野神社

2017-01-04 | syu散歩
尾崎熊野神社は、杉並区成田西にある熊野神社です。尾崎熊野神社の創建年代は不詳ですが、大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられているといいます。明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり、明治四十一年、付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀しました。













地名の「尾崎」は、尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわし、このあたりの地形に由来したものと考えられています。
昭和四十三年秋、境内から縄文時代早期(井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・土師器時代(鬼高式)の住居址が発掘され、古くからこの地には、人間が住んでいたことがうかがわれます。
なお、境内にそびえるクロマツの大木は、当社の御神木で、樹齢約四〇〇年と言われ、区内でも有数の樹木の一つです。
(杉並区教育委員会掲示より)