syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

彰義隊と円通寺 syu散歩

2017-02-18 | syu散歩
「千住宿場町横山家に残る彰義隊士の刀痕」
横山家は、日光奥州街道に面しており、その街道に面する軒を支える柱に刀痕が見られ、柱の現在は、同家のガレージに取り込まれたため、ガレージを囲う塀内になって道路からの外見は出来ない。 柱の材質は檜材、太さは一辺15cm位角で、地上80cm位の位置に認められ、痕跡は2段の打込み傷。
横山家は屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前迄は手広く地漉紙問屋を営んでいたと云う。 現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われ、間口が9間、奥行きが15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建てである。
広い土間、商家の書院造といわれている帳場、二階の大きな格子窓等に、一種独特の風格を感じる。
上野の戦いで、敗退する彰義隊が切り付けた玄関の柱の刀傷や、戦争中に焼夷弾が貫いた屋根等、風雪に耐えて来た百数十年の歴史を語る住居。
千住には、旧家や当時の雰囲気を残す医院の建物等が、今でも散見できる。

                            円通寺


境内に、今でも風雨に晒され「上野黒門」が、片隅にある。
1868年上野彰義隊の戦いで激戦の場となった「上野山本門」いたるところに弾痕や刀傷がのっこて寂しく残っていた。



当時の激しい戦いが生々しく物語っている。



彰義隊は、上野寛永寺を本拠に官軍と戦い、壊滅したが、戦死者200数10人は、みせしめのため放置された云う。



            上野公園内の清水寺(官軍の砲弾が展示されている)


                      清水寺画


                     上野戦争の画


             上野公園内、彰義隊供養塔と墓(薩摩西郷隆盛像の裏に)


これを見た円通寺「仏磨和尚」が上野の山でダビに付し、現在地円通寺に収め墓石死節之墓を建てたという。



                       上野黒門                       


                       彰義隊戦士の墓


                           墓


                           墓


                           墓


「岩倉具視」 1825-83 倒幕運動と王政復古を成し遂げた。
「能久親王」 1847-95 皇族・軍人 
伏見宮邦家親王第9王子ー寛永寺山主・輪王寺宮の能久親王、宮様をを朝敵した。

岩倉は、
能久親王宮様と和宮(孝光天皇妹・14代将軍家茂と結婚)宮様・和宮皇族の二人は、戦を避けるため京都入りしたかったが、岩倉は、天皇に会うことを禁じ阻止した。



江戸の治安の組織として武士300名の彰義隊が存在していた。
将軍 徳川慶喜・宮様・和宮様の警護で彰義隊は2000名以上に増えている。



「大村益次郎」 1824-69 長州藩士兵学・蘭学者。
慶応2年幕長戦争で参謀を務め、戊辰戦争で、彰義隊攻撃のあたって激戦を予想し、薩摩兵を配置、西郷隆盛が驚いたと云う。
益次郎は、西郷に「そうです、激戦のため、最強の兵を投入、、」


                 勝てば官軍・負ければ賊軍(上野戦争から)


旧幕府軍は、すでに大政奉還しており「最後まで天皇に、戦いを避け話し合いを求めるべく親王と和宮をお守りし京に」。
それに対し、岩倉は、倒幕のみと、長州の大村氏を参謀に置き「京に行かせず、敵は、賊軍、、」それが上野戦争であった。


南千住・素盞雄神社 syu散歩 

2017-02-17 | syu散歩

「素戔雄神社」
神社の開祖となる「黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)」の住居の東方小高い塚上に「奇岩」があった。
黒珍は、それを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代の延暦14年の795年、ある夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、
黒珍は、一祠を建て鄭重にお祀りし、神社を創建。
スサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、
4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まった。
江戸時代、1718年、類焼による両社炎上のため、その年に、相殿(あいどの・一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿・ずいこうでん)を新たに建築し奉斎したと云う。
荒川区南千住・三河島(現:荒川)・町屋・台東区三之輪の区内で最も広い氏子区域61ケ町の鎮守。

        

   平成7年には御鎮座1200年祭が厳粛盛大に斎行された。
 「天王祭」6月3日
天照大御神の御弟神。
八俣大蛇を退治し、その尾から天叢雲剣、後の三種の神器の一つ<草薙の剣>を取り出し、天照大御神に献上した勇敢な神様。また八俣大蛇から助けた櫛稲田姫との間に多くの御子神をもうけ、出雲国須賀という地で幸せな家庭を築いた神様として知られている。

 「スサ」には「荒・清浄」の意味があり、罪・穢・災・厄など身に降りかかる悪しきこと諸々を、荒々しい程の強い力で祓い清める災厄除けの神様で、別名を牛頭天王(ごずてんのう)と言う為に通称を「お天王(てんのう)さま」という。


「飛鳥大神・ 飛鳥祭」9月15日
大国主神の御子神、別名を事代主神、一言主神といい、
善悪を一言で判断し得る明智を持たれた神様。

後世には福の神としての性格が強まり、商工業繁栄・商売繁昌の「えびす様」として崇敬・江戸名所図会には、「飛鳥社小塚原天王宮」とある。


1689年松尾芭蕉は、深川芭蕉庵から隅田川をさかのぼり、ここ千住で下船し門人「曾良」を伴い奥州行脚に

「千住と云う所より船をあがれば、前途三千里のおもい、胸にふさがりて幻の昔に離別の泪をそそぐ」


                    「奥の細道」ゆかりに神社


松尾芭蕉座像を刻んだ石碑と、
           境内には、大銀杏と1820年漢学者「亀田鵬斎」書ー巣兆画・句碑等がある。


           浅草寺・深川富岡八幡・鳥越神社などと同じ千貫神輿でも知られている。


                          神社本殿


千住6丁目の「誓願寺」
浄土宗・山号ー豊徳山恵心院。
奈良時代末期の長保元年の999年、恵心僧都源信が天台宗寺院として創建したと伝えられている。
慶長元年の1598年、芝増上寺18世定誉随波上人が浄土宗に宗旨を改めて開山としている。



天正19年の1591年、徳川家康が巡覧した際に腰掛けたという榎が2本あったと云う。
現在境内には親の仇討ちをしたという子狸の伝承を残す狸塚、庚申塔2基、板碑、汐入村開祖高田氏の墓などがある。(荒川区教育委員会)



三ノ輪には、「浄閑寺」がる。
ここは、投げ込み寺、住職の推測ではちょっとした立地上の偶然にすぎないという。
そこには身寄りのない悪所の住人たちを受け入れてきた、この寺の度量はもちろんあったであろう。
そうした歴史に惹かれてか、古くから多くの文人らがここを訪れ、有名なのは「永井荷風」で、この寺にはたびたび訪れていたという。
本人はここに眠ることを望んだらしいが、結局家族が止めたらしい。
そのことを知っていた文壇の友人達が送った、詩碑が残っている。
内容は正直、晩年の厭世観がむき出しの内容で、今風に言えば「老害乙」という。

松尾芭蕉と千住大橋 syu散歩

2017-02-14 | syu散歩

足立区北千住と云えば「お化け煙突」
上原健・田中絹代・高峰秀子が主演・監督五所平之助ー昭和28年「煙突の見える場所」千住の庶民の哀歓を描いた映画であった。
4本の煙突が見る角度で3本・2本・1本に化けることからその異名が付いた。煙突は、足立区千住桜木町ー東京電力火力発電所の施設で大正15年に築造
高さ83mの巨大塔で、千住の庶民はそれを自慢し「俺んちは煙突の下よ、、」私も、常磐線に乗りわざわざ見に行った記憶がある。
設計は、仮屋の一部屋で青年たちが煙突の設計図を作ったと云う。その青年の一人が、昭和20年東電社長の「高井氏」。
昭和39年・東京五輪で沸いていた秋に40年の老煙突は消えた。

千住と云えば「東京スタジアム」が。(子供の頃、プロ野球は、パの大映が好きで、何回か球場へ)
1879年、操業を開始した千住製絨所があった。(大和毛織が所有する生地工場)1950年代に入ると業績が悪化し、工業用水として使用していた井戸の枯渇や様々な規制、労使間争議の慢性化などによって経営難に陥り、1960年に閉鎖された。
工場跡地を「明治村」建設用地に計画、が明治村は、愛知県犬山市に建設)。大毎のオーナーだった「永田雅一大映社長」は、私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、一度は深川の東京ガス運動場を建設地とする案が有力であったものの、直後に破談となり、改めて南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。
1971年、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し、本社の経営再建に乗り出すものの倒産した。
現在は、区の運動公園

千住と云えば、松尾芭蕉が、「奥の細道」で江東区深川から、

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ、

                   行春や 鳥啼魚の 目は泪


           1559年小田原北条氏の記録で、専住村と登場している。


             発展は、江戸時代ー日光道中(街道)初の宿場


           水戸佐倉道の分岐点・将軍参詣・参勤交代の中継地


伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目。
この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたといわれる。(祭礼ー橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う行事が)
現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。
幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋・小塚原橋」と呼ばれていたと云う。
千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回。明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられ、最初の架橋から明治18年(1885年)、の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。
明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍し、二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のもの。
昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

             千住大橋を渡り小塚原村3km余の街並みが続くとある。


           大名の宿泊ー普通旅客に比べ良くて半額の宿と云う


       文禄3年の1594年最初の橋が架かるー長さ約120m、幅約7mの木橋。


                両国橋は、千住大橋の60年後。


            江戸と日光・奥州・水戸を結ぶ要所であった。


                 将軍専用の船着き場もあったという。


                  千葉氏一族(下総国香取郡)も住んでいたと云う




     アーチ式鉄骨の大橋は、昭和2年ー長さ約93m、幅約24m・工費140万円と云う。


                洪水や地震など何度も架け替えている。






「松尾芭蕉」 1644-94 俳諧師
伊賀国上野から23歳で故郷を捨て、37歳で江戸深川「芭蕉庵」で暮らす。



                  「奥の細道」の旅は、元禄2年


                     文学史功績大


「千住新橋」は、-1912年~26年にかけ「荒川放水路」を開削した際に1924年架けられた新橋。
国道4号線日光街道に、現在、長さ約146m、幅28m・北 足立区1丁目ー南 荒川区千住5丁目 1924年に架けられた。


北千住からやっちゃば syu散歩

2017-02-11 | syu散歩

「JR北千住駅」
明治29年、日本鉄道土浦線の駅として開業。
3年後の1899年の明治32年、東武鉄道初の路線となる伊勢崎線が当駅 - 久喜駅間で開業し、乗換駅となった。
日本鉄道は、明治39年、国有化ー明治42年、「常磐線」に。
この後、接続路線は60年以上に渡ってこの2路線であった。
常磐線のターミナル駅は上野駅、東武伊勢崎線のターミナル駅は浅草駅で、乗車人員はこれらの駅よりも少ない状態が続いていたが、1960年代に入って大きな転換期を迎え、昭和37年、「営団地下鉄日比谷線」の駅が開業し、東武伊勢崎線との直通運転を開始。
直通運転開始後は東武伊勢崎線の乗車人員が大幅に増加し、伊勢崎線のターミナル駅としての座を不動のものにしている。
昭和44年、「営団地下鉄千代田線」の駅が開業、4路線が乗り入れ。
ラッシュ時は乗換客で溢れかえるようになり、乗車人員だけ見ると山手線の主要駅と肩を並べる規模に。
平成4年、駅の大規模な改良工事が実施され、平成8年、浅草方面系統のホームと日比谷線系統のホームが階層で分けられた

                    変わる「北千住」


「国道・4号線」
「日光街道・奥州街道(道中奉行管轄)およびその延長区間の白河から函館間(日光街道を除く3街道は1873年、陸羽街道に改称)」を継承している。
明治18年、内務省告示第6号「國道表」では、函館までの道がほぼそのまま国道6号「東京より函館港に達する路線」に指定され、(当初、氏家 - 白河間は国道293号・国道294号などの旧陸羽街道経由であった)。正確には、松前道は津軽半島の突端の三厩から北海道の渡島半島へ渡っていたが、国道6号は青森から直接航路で函館に達していたという点が異なる。
大正9年、旧道路法に基づく路線認定では、国道4号「東京都より北海道庁所在地に達する路線」(現在の国道4号・国道5号)となった。
1952年(昭和27年)12月4日:新道路法に基づく路線指定で、旧国道4号のうちの青森市まで(東京都中央区 - 青森県青森市)が一級国道4号となった。
昭和40年、法改正によって一級・二級の区別がなくなり、「一般国道4号」となった。



「千住宿」-江戸4宿の一ッ
日光街道(日光道中)及び奥州街道の「日本橋」から1番目の宿場
武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部で海抜2メートル前後の沖積低地上、荒川に架けられた千住大橋沿い、隅田川両岸に設置され、南北に延びる奥州街道・日光街道に沿って形成された宿場町である。
日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。
1594年、荒川に千住大橋が架けられ、五街道の整備が進められると、1597年、に奥州街道・日光街道の宿駅に指定された。
千住は、奥州街道・日光街道と荒川が千住大橋にて交差し、荒川・隅田川・綾瀬川が付近で合流しており運輸・交通の便に有効な場所。
隅田川で千住大橋沿いに橋戸河岸が置かれ、千住青物市場(やっちゃ場)は、御用市場。
千住は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展・千住宿は岡場所としても発展した。
千住宿近隣には行楽地が出現し浮世絵や絵画に描かれている。そして、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。

           東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿に。


「千住本町商店街」

旧日光街道、宿場町の千住一丁目・二丁目の歴史のある商店街で100店舗を超えるバラエティな品揃えを誇る店がある。

                   北千住駅西口から近い。


駅前通りに看板「大橋眼科医院」が
                   古い洋館風建物で名物医院。


「千住の街」
「司馬遼太郎さんによって「日本が世界に誇りうる唯一の社会思想家」と絶賛された江戸時代中期の医師安藤昌益の主著「自然真営道」101巻が、ここ千住仲町の橋本家に代々秘蔵されてきたことから、この間、安藤昌益と千住宿について研究が、
幕末から明冶にかけての所蔵者・橋本律蔵を始めとした千住宿文化レベルのた高さこそが、「自然真営道」を受け入れ秘蔵してきた理由。

千住宿と文化人との 縁は従来、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅立ちの第一歩を印した地として、また作家森鴎外が若き日、父とともに橘井堂医院を舞台に医師として、また文筆家としの活動を開始した地として知られている。
幼い日、橋本律蔵に薫陶を受けた日本経済史学の開拓者内田銀蔵博士(仲町)、銀蔵と交流もあり戦前・戦後のベストセラー「学生に与う」で知られる

                      北千住の歴史は深い。 


                新政府軍に追われた彰義隊も北千住へ


                  葛飾北斎など絵が残されている。


「千住」は、勝専寺の千手観音にまつわると伝承、千葉氏の所領で千葉住村と称したから、足利将軍の愛妾「千寿」の出生地にちなむなどいろいろ。
1625年将軍家光の時、水戸佐倉道の分岐点になる初宿で、将軍参詣・諸大名参勤交代の重要宿場、3kmの宿場であったと云う。



「墨堤通り」
都道461号・吾妻橋伊興町線の一部、都市計画道路 補助第119号線。浅草通り(都道453号)と接続する東京都墨田区吾妻橋1丁目の吾妻橋1交差点を起点に、隅田川沿いを北上し、足立区千住桜木の千住桜木町交差点で尾竹橋通りに接続し、すぐ先で荒川堤(正式名称不明)に接続する道路。

「佐那さんのエピソード」
「さな子は、恋心を打ち明けたが、すでに妻おりょうがいた龍馬は遠まわしに断り、着ていた着物の袖を渡して江戸を発ったという」
ー司馬遼太郎さんが昭和44年、に書かれた「千葉の灸」ー現駐車場。



千住の青物市場(セリの掛け声・やっちゃば)


昭和初期のやっちゃば
千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街。
千住河原町稲荷神社境内には明治39年建設の「千住青物市場創立330年祭記念碑」が立っている。
これによれば市場開設は天正4(1576)年。享保20(1735)年でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあった。市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師(なげし)といわれる人たちです。大正期には130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたと云う。



                     千住青物市場


                     千住青葉市場