syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

熱海 梅園の梅も満開! syu散歩

2017-02-07 | syu散歩

「梅まつり」開催中の熱海市の熱海梅園で、早咲きが最盛期を迎えている。中手、遅咲きも開花が進んでいて、好天に恵まれた日は多くの観梅客でにぎわっている。

園内には59品種472本が植わる。市公園緑地室によると、開花は例年より2週間ほど早く、31日時点で204本が見頃。このうち一番多く植わる早咲きは170本が見頃で開花度は七分、全体でも六分咲きに近づいていて、今後1週間前後でピークを迎える見込みという。

1月22日撮影































あたみ桜 満開 糸川桜まつり! syu散歩

2017-02-05 | syu散歩
熱海市内中心部を流れる糸川。

毎年1月には、糸川遊歩道の58本の早咲きの「あたみ桜」を楽しむことができます。

あたみ桜は明治4年(1871年)頃、イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられており、少し濃いめのピンク色が特徴です。

あたみ桜「糸川桜まつり」も開催され、まつり期間中は、ライトアップ、桜茶・お茶のサービス、大道芸、バンド演奏などを実施されます。

1月21日撮影











浅草寺の豆まき 立春の前日節分 syu散歩

2017-02-04 | syu散歩
「浅草寺の節分会・福聚の舞ー七福神の舞」
平成29年2月3日、浅草寺本堂横に節分舞台から豆まきと七福神の舞、14時開催された。
浅草寺は、恒例の節分会に、災難・厄難退散を願い、年男が豆を撒きます。
その後、奉演される「七福神の舞」は、観音様の福徳を讃えるもので、七福神の故事からとったといわれ、この舞は、昭和39年・宝蔵門落慶を記念して、端午の節句に奉演される「宝の舞」とともに、「福聚の舞」として創始されたと云う。


千余世前の昔から、鞍馬山にいた鬼が都に出て悪さを、これを毘沙門天の示現によって
三石三斗の「豆」を煎って鬼の目をつぶし厄災を逃れたと云われている。

           今年の節分は、東京でも古い由緒を誇る隅田川西岸の「浅草寺」へ


                  立春の前日が節分ー春を迎える歓び


                   一年の災いを祓う節分


                   福豆を三袋ゲットした。


                         幸多きを


                  五重塔は、工事のネットが


                 大好きな「人形焼き」2袋で500円


徳川家康公入府前から開けていた浅草寺、推古天皇の628年頃、漁師兄弟が隅田川で投網を打ったところ、1寸8分(約5.5cm)ほどの
金色観音像が網に、、、、。
645年勝海上人という人が寺を、、、。それが、今の浅草寺に。




                 現在の本堂は、昭和33年の1958年再建


                     坂東33観音札所の13番



             上野の寛永寺「天海僧正」により徳川家祈願所に



                浅草神社は、1873年、3代将軍家光建立(三社権現ー三社様)


「浅草寺」は、元禄頃から庶民を対象とした節分会を実行し、享保頃には江戸中に有名になっていた事が文献で知られている。
江戸時代の浅草寺の節分会の特徴は、「節分般若心経日数所」と記された切紙のお札を1万枚作り、そのうち3300枚を、節分会の法要終了後、本堂外陣の東西の柱に棚をつって、そこから節分と書いた大団扇であおって撒く行事。
そのためこの札を手に入れようと信徒が堂内に満ちて、大変混雑し、(明治時代に危険ということで中止された)。
現在では、一般信徒の有志が年男となり、午後1時と2時の2回に分かれ、行列を作って伝法院より進行し、法要終了後、本堂東側回廊の外につくられた舞台で豆撒きをおこなう。








荒川と小菅 東京拘置所 syu散歩

2017-02-03 | syu散歩
「関東・荒川」
埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ河川。
一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定ー水系として、流路延長173 km、流域面積2,940km2。川幅(両岸の堤防間の距離)は、御成橋(埼玉県鴻巣市・吉見町)付近で2,537 mになり、日本最大と云う。



甲武信ヶ岳(奥秩父)に源を発し、秩父山地の水を集めながら秩父盆地まで東に流れる。
秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その後東に流れて大里郡寄居町で関東平野に出る。
熊谷市で南南東に向きを変え、川越市で入間川を併せる。
戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門でー隅田川ーを分ける。

           足立区で向きを変えて再び南流し、江東区と江戸川区の区境で東京湾に注ぐ。


「荒川」
利根川の支流。
関東平野に出たのち熊谷市近辺で利根川と合流していた。
利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通ったが、3000年前頃からは加須市方向へ向った後、南流して東京湾へ注ぐようになったと云う。
利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。
荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れ、荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した。

       江戸時代初期頃は荒川は、現在の元荒川の川筋を通り、越谷市・吉川市付近で利根川と合流。


工事で利根川は、東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。
平野部になると、流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。
明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あったと云う。
洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻、
しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより、

       物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたとも云う。


「荒川放水路」とは、
荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。
途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。

       1913年の大正2年~昭和5年にかけて、17年がかりの難工事であったと云う。


河川施設ー上流部には秩父湖(二瀬ダム)などの人造湖が多くあり、首都圏の水がめの一端を担っている。
利根川水系のダム湖で蓄えられた水は行田市の利根大堰から武蔵水路を経て荒川に落ち、荒川水系の水も加えて志木市の秋ヶ瀬取水堰で取水され、朝霞水路を通って水資源機構利根導水総合管理所秋ヶ瀬管理所の沈砂池および接合井を経て東京都水道局の朝霞浄水場と三園浄水場に導水される。

         埼玉県だけでなく、東京都でも広い範囲で水道水の水源となっている。


                        水に感謝


大師線・西新井大師前駅ー東武伊勢崎線、西新井駅で乗り換えー梅島ー五反野ー「小菅」-北千住ー

                   各駅ー小菅駅下車


葛飾区小菅拘置所ー明治10年新政府は、西南戦争での「賊徒」らを集め獄舎を設け、レンガを焼かせたのが初めで、
その後、東京集治監・小菅監獄・小菅刑務所・「現東京拘置所」

                  拘置所に一番近い駅「小菅」


                 拘置所の周りの堀(パトカーが巡回)


                近代的モダンな建築にー東京拘置所


               足立区足立・綾瀬と葛飾区小菅・亀有の区境にある。


    古隅田川に面し茅、アシの蜜生地であった。万葉集の東歌「古須気」からかー「小菅」


  御殿の歴史三代将軍家光・関東群代伊奈氏下屋敷ー将軍鷹、鹿狩り休憩所・八代吉宗時は立派な御殿が。


文明開化の象徴赤煉瓦はここ小菅で焼かれていたが、新政府は、レンガ街を銀座と丸の内に限定したため、小菅は衰退し刑務所用地となっていく。