syuの日記・気まま旅

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日本の中心 東京駅の歴史

2017-05-21 | syu散歩
戦災と疎開のため、麹町区では七割方人口が減少し、残った人々はバラックにする材料さえない焼け跡の瓦礫の中で、戦後の生活の立て直しに必死に取り組み、学校も復興され、昭和20年の年末にはあちこちの小学校で授業が再開されていく。
東京は、改正で15区が昭和7の1932年、市域拡張後35区、昭和22年、に東京22区に再編された。
大手町のある麹町区は神田区と合併して千代田区となり、新しい地方自治法のもと区議会が開かれ、戦後の区政がはじまり、最初の大仕事は濠の埋立で。
町の復興の妨げとなる大量の燃え殻や灰で濠を埋め立て、埋立地を売却して復興資金に充てようという計画で、町の景観が大きく変化することになる。
講和条約が成立し、占領が解除された昭和20年代後半から30年代のはじめにかけて、大手町から霞ヶ関にかけての一帯は、中央官庁街として、ビルの延面積の大幅拡張がはかられ、高度経済成長時代の到来を象徴するものであった。
ビル新築ラッシュによって丸の内・大手町地区の景観が大きく変化していくなか、霞ヶ関や大手町に分散していた中央官庁を統合して中央官衙街の建設を推進する計画が大きな進展をみせ、昭和27年に政府が出した公告「霞ヶ関地区ほか二団地を対象とする中央官衙地区整備に関する計画」ほかで、都市計画として「霞ヶ関」の決定が行われ、他方、大手町地区には、各省庁の地方出先機関が合同庁舎内に集中的に配置される。
同地区には広い遊休国有地が生まれ、それらは官庁施設整備の財源充当の目的で、民間企業へと払い下げられ、老朽化した役所が取り壊された跡地には、日本開発銀行や日本長期信用銀行の本社ビルをはじめとする金融機関、読売新聞、日本経済新聞、産経新聞などの本社ビル、経団連会館、農協ビル、工業倶楽部などが次々と建設されていきます。
こうして大手町地区は、丸の内地区からつづくオフィスビル街として、その姿をすっかり変えることになり、都庁は、副都心新宿へ移転した。

煉瓦造りの「東京駅」は、やっと工事が終了した。(一部、旧東京駅の煉瓦が)


「辰野金吾」 1854-1919  64歳没 (東大工学部)建築家

日本銀行・東京駅など


1854年の嘉永7年、肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれ、姫松家は足軽よりも低い家格。
明治元年、叔父の辰野宗安の養子、明治6年、工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
明治8年、二年終了後に、造船から造家(建築)に転じ、明治10年、ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任。
明治12年、造家学科を首席で卒業(同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎)。明治13年、英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ。明治16年、日本に帰国。
明治17年、コンドルの教授退官後、工部大学校教授に就任し、明治19年、帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。
辰野金吾建築事務所を設立(所員は岡田時太郎など)、明治20年、明治31年、帝国大学工科大学学長、明治35年、工科大学を辞職。
1919年の大正8年、 国会議事堂の設計競技で審査員を務め、当時大流行したスペインかぜに罹患し死去している。



「東京駅」
皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎の中央に皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家の中心駅」「天皇の駅」としての位置づけが強く打ち出された。
                  竣工 1914年の大正3年


大正 3年「東京駅」と名称、営業を開始、大正 4年、東京ステーションホテルが開業、大正12年、関東大震災が起こる(駅舎はとくに被害無し)
昭和 4年、八重洲口開設され、昭和20年、空襲による火災、屋根等が焼失する

         昭和22年、3階建の駅舎が2階建の駅舎として完成する。


         駅面積 182,000M2(東京ドーム3.6分)


          馬が中心の馬車が(手前に人力車が)


          丸の内南口


「原敬」 1856-1921 政党内閣を組織した。南部藩重臣の子。政治家。カトリックの牧師の学僕となって苦学、司法省法律学校中退、
記者から外務省に入省、「井上馨・陸奥宗光」に見込まれ次官に、朝鮮駐在公使を最後に退官、大阪毎日新聞社社長経営手腕発揮。
1900年「立憲政友会」創立参画、北浜銀行頭取・古河鉱業副社長など財界勢力築く。
第4次伊藤博文内閣・逓信大臣ー西園寺公望内閣内務大臣ー政友会で実権を握る。-政友会総裁・1918年政党内閣組織を。
腐敗事件暴露され、暗殺。

1921年の大正10年11月4日、首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。
大塚駅の転轍手であった「中岡艮一」は、以前から原首相に対して批判的な意識を持っていた。
中岡の供述によれば、原首相が政商や財閥中心の政治を行ったと考えていたこと、野党の提出した普通選挙法に反対したこと、また尼港事件が起こったことなどによるとされている。
その他、一連の疑獄事件が起きたことや、反政府的な意見の持ち主であった上司・「橋本栄五郎」の影響を受けたことなどもあって、中岡は原首相暗殺を考えるようになったと云う。
1921年11月4日、原首相は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた中岡に短刀を右胸に突き刺された。
原首相はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原首相の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。
逮捕された中岡は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。
その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。
なおこの裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の中岡の特別な処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど。
本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

駅の現場である現丸の内南口の北東面左端付近には、壁に事件の概要を記したプレートが。


中岡は、玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。
犯行の1カ月前、中岡と上司・橋本栄五郎との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。
腹を切る(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味)と言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、中岡が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したという。
このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。

            煉瓦造りの丸の内側の正面


          旧東京駅の一部が残されている。


               北口駅前


             丸の内正面(皇居)


             南口駅前(中央郵便局)


                工事完成図


                北口(工業倶楽部)


「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正の実業界リーダー。埼玉県大里郡。
1867年徳川慶喜弟昭武に随行してパリ万国博覧会に出席、これが後年、我が国の近代化を推進する。
明治政府から紙幣拝借金50万両余をもとに「商法会所」を設立、これが日本初の「合本組織・株式会社」である。官僚から実業界へ専念
王子製紙・東京ガス・・・・500余の会社を設立している。銀行集会所・手形交換所・商工会議所など組織化、又教育、文化面にも力を。

                 渋沢栄一像


                日本銀行に近い


「常盤橋」
元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていたと云う。
浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。
太田道灌と親交が厚かった「正宗龍統」が記した「江戸城静勝軒詩序并江亭記等写」に登場する河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、賛否両論がある。
その一方、永禄11年の1568年、に「北条氏政」が下総国の高城胤辰を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。
徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉や府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州や房総に連絡していたと考えられている)。
ただし、大橋が架かる日本橋川は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。
この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。
「東京市史稿」では、高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

      現在のアーチ橋は、1926年建設された。




       日本橋川も姿を変えていく。


「浜口雄幸」 1870-1931  1930年11月東京駅で右翼青年に狙撃され、その傷で翌年死去した首相。
1927年民政党結成・初代総裁に選ばれ・1929年田中義一内閣倒壊ごを受けて内閣を組織し、軍縮促進、「ライオン首相」と呼ばれ期待された。
世界恐慌と重なった。

川崎駅と大田市場 syu散歩

2017-05-19 | syu散歩
「川崎駅」
明治5年6月・ 神奈川駅と共に日本で3番目の鉄道駅として開業した。(当初は旅客駅)明治31年、 貨物の取り扱いを開始し、大正3年、京浜線(京浜東北線の前身が運行、大正7年、 東海道本線貨物支線が浜川崎駅まで開通する。
昭和2年、 南武鉄道線(現在の南武線)が登戸駅まで開通され、昭和19年に 南武鉄道が国有化となり、その10月、 川崎市電の川崎駅前電停が開業。
昭和34年、 駅ビル完成、県で初めての駅ビルである。昭和44年、 川崎市電の川崎駅前電停が廃止され、昭和48年にも貨物支線 の浜川崎駅間が廃止。
昭和55年には、SM分離(東海道線と横須賀線の分離運転)により横須賀線が当駅を経由しなくなったと同時に、東海道線のすべての普通列車が停車。
昭和62年、 国鉄分割民営化により、東日本旅客鉄道の駅に、平成23年、 南武線で快速の運転を開始。
平成26年・ 午前1時11分頃、京浜東北線の回送電車が工事用車両と衝突し、脱線・横転する事故が発生。

               20万以上の乗車駅・北千住に次ぐ第11位


当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は東海道本線と南武線の2路線で、南武線は当駅が起点となっている。
東海道本線は現在、列車線を走行する東海道線列車と電車線を走行する京浜東北線電車の2系統が停車し、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱っている。現在は、これらの3系統の列車が停車しているが、加えて1980年までは、東海道線と線路を共用していた横須賀線電車も停車していたが、今は別路。

京浜急行電鉄の本線と大師線が乗り入れている近隣の京急川崎駅とは地下街などで結ばれており、当駅から連絡が可能である。

                   近代的な明るい駅構内

百貨店は老舗のさいか屋(大型店舗は閉店)と丸井のみとなったものの、その他の多くの店舗が出店したほか、新たな商業施設も建設された。

駅前にはバスターミナルがあり、川崎市交通局、川崎鶴見臨港バス、京浜急行バス、羽田京急バスなどが周辺各地への路線バスや高速バスを運行。
バスターミナルの地下には地下商店街の「川崎アゼリア」があり、バスターミナル・京急川崎駅や近隣の商業施設への連絡通路になっている。
アゼリアと川崎モアーズとの連絡通路には設置当時世界一短かったエスカレーター(プチカレーター)がある。

京急川崎駅は当駅から北東に200m程離れている。バスターミナルの南東部を京急本線の高架線が通過している。
アトレ川崎(旧・川崎BE)・川崎アゼリア(川崎地下街)・川崎ルフロン 丸井 川崎店・ヨドバシカメラ マルチメディア川崎ルフロン(旧・西武百貨店 川崎店)・川崎DICE 東急ハンズ 川崎店・あおい書店 川崎駅前店・TOHOシネマズ 川崎・さいか屋 川崎店(川崎日航ホテル内)・駅前タワー・リバーク・ヨドバシアウトレット 京急川崎等がある。

                若者で賑わっていた。


駅前広場は1986年に整備されたが、整備されてから20年以上。
施設の老朽化と不便さが、一度アゼリアを経由しなければバスターミナルにアクセスできないことや、街路樹や地下街の入口などで視界が遮られるなどの課題が多かったと云う。
そこで、川崎市では2007年から有識者や市民で構成する会議で検討を重ね、東口からアゼリアに降りる中央階段の屋根と壁面を透明な素材にするなどして開放的な空間にすることや、混雑が激しい階段で上下移動が多くなる島式のバス乗り場を7か所から2か所に再編成し、横断歩道やエスカレーター・エレベーターの整備などバリアフリー化のための整備が進められた。
駅前広場全体でもエスカレーターやエレベーターを既存の倍に増やすことや、タクシーと一般車の乗降スペースを駅側に整備し、街路樹の景観工夫が。

          再整備工事は2009年度に着工され、2011年4月に完成した。


西口は、東芝堀川町工場や明治製菓の工場などが建つ工業地区であった。
これらの撤退後は更地が広がっていたが、後年再開発が行われ、面目を一新。
再開発で建てられた中核施設は「ラゾーナ川崎」と名付けられ、商業部分の「ラゾーナ川崎プラザ」が2006年9月28日に開業した。
商業施設としてビックカメラや丸善などが、シネマコンプレックスとして109シネマズ(東急レクリエーションが運営)が入居し、その結果として新宿に次いで三大カメラ店系家電量販店が出揃う駅前となった。
同じく開業した住宅部分のラゾーナ川崎レジデンスは2007年春に入居を開始、この地に東芝があったことを偲ばせる施設として旧正門脇に「川崎東芝前郵便局」があったが、2004年に閉鎖され、2年後の2006年、「川崎駅西口郵便局」として再開している。

駅北東部の明治製菓工場跡地には、1995年、大規模オフィスビルのソリッドスクエアが完成、残された南西部の区画は2013年に業務ゾーン「ラゾーナ川崎東芝ビル」として東芝グループの新事業拠点となるオフィスビルが完成し、2階には東芝未来科学館が併設。
駅に隣接してホテルメッツ川崎がある。
東口より小規模だがバスターミナルがあり、ラゾーナ川崎プラザ前には新たにバスターミナル(川崎駅西口北)が完成。
東口発着のバス系統が一部西口北バスターミナル発着に変更された。

     2004年7月ーミューザ川崎シンフォニーホールが・市の目指す「音楽のまち」の拠点施設。


            駅とビルが2階で繋がっている。


            近代的な高層ビルが。


    「東京卸市場・大田市場」


平成元年に、青果の旧神田市場・荏原市場、水産の大森市場を統合して開設。
平成2年には、城南地域の「花き地方市場」を統合してさらにスケールアップ・「青果部・水産物部・花き部の3部門」を有する総合市場。



都では、既存市場の狭隘化の解消、配置の適正化のため、昭和30年代から新市場の建設について計画し、長期にわたり調査・検討。
その一環として、城南地域を地元市場として整備するとともに、都心部に立地する神田市場の過密化を解消し、今後の都における生鮮食料品等の円滑な流通を確保するため、青果物・水産物及び花きを取り扱う総合市場とする方針を決定した。
施設の完成に伴い、秋葉原駅前にあった神田市場と、五反田にあった荏原市場(蒲田分場含む)を統合し、青果部は平成元年、業務を開始。
平和島にあった大森市場を収容し、築地市場の一部業者も統合し、水産物部が平成元年9月に業務を開始し、城南地区に点在していた9つの花き民営地方市場を統合し、花き部が平成2年、業務を開始された。
                        花き部内


                        花き部内


大田区の臨海地域・約40万㎡の広大な敷地を有し、市場の隣に野鳥公園、南側には羽田国際空港、東側には東京港、北側にはJR貨物基地、真ん中を貫くように首都高速湾岸線が通っており、物流の拠点として活動している。
青果部・花き部では、日本一の取扱規模を誇っており、大田市場での決定価格は、水産物部における築地市場と同じように、日本全国の市場の指標となっていると云う。

東京の中央卸売市場で唯一、見学者のための展示室や見学コースが設けられ、都民が親しめる市場。


「都立東京港野鳥公園」
野鳥や水辺の生きものと動植物を守り、生きものでにぎわう公園。
埋立地に期せずして再生した東京湾岸の自然が多くの都民のみなさまの希望で保全されました。
毎年、シギ・チドリ類、カモ類といった水鳥や小鳥類、オオタカなどが公園を訪れる。

      年間120種類前後、開園以来226種類の野鳥が観察。


潮入りの池は海の水が出入りする汽水池で、干潟では野鳥の餌場。
鳥たちが集まるような工夫がされ、バードウォッチングの経験がない来園者でも他の池と比べて比較的容易に観察ができる。
この潮入りの池と東淡水池を見渡せる位置には最新の野鳥情報を得ることができる冷暖房完備のネイチャーセンターがある。
2階には観察小屋と同様に自由に利用出来る望遠鏡が。
地下1階には海からの漂着物を展示するスペースやカニをはじめとする干潟や磯場の生物のを間近に観察しながらまわることのできる
「ガタガタウォーク」が。
                     月曜日定休


公園の周りには、都中央卸売市場・城南島ふ頭公園・大井ふ頭中央海浜公園が。

                    東京湾野鳥公園入口


川崎・大田区低地は、江戸時代、多摩川「六郷渡し場」の集落・東海道五十三次の宿場町と「川崎大師・平間寺」の門前町として発展した。
主な道だけで、東海道・中原街道・大山街道・津久井街道で結ばれ、大名行列でも賑わった町、
1659年「道中奉行」支配下に編入されその賑わいで大いに栄えた。
「六郷橋」1668年流失、渡り船で結んでいた(無賃渡船)。
1709年下本陣の川崎宿名主「田中丘隅」の献策で、永代渡船権が「川崎宿」で財政を潤したと云う。

                   東京湾野鳥公園内


1908年浅野総一郎・安田善次郎らによって鶴見川河口臨時埋め立て地造成されていく、大正12年京浜運河が完成した。
近代産業都市「川崎」として繁栄を続けている。

                   野鳥公園内


大田区は、都南東部、「多摩川ー六郷川」を境に川崎市に接している区。古代から武蔵国荏原郡で中世は、「大井氏」「蒲田氏」などの支配下にあった。
江戸時代には、多摩川・六郷用水が開削ー1611年ー低地の開発が進められ「農漁村・大森海苔」で発展した。
多摩川沿いに鎮座する「六郷神社・祭神応神天皇」は、源頼朝が千葉県安房から鎌倉に入る途中に立ち寄っている。
区を横切っている。東急目蒲線・JR横須賀線・第二京浜1号線・JR東海道、京浜東北線・国道15号線・高速1号羽田線・東京モノレール。
その東部は、工業地帯と、南東端の埋め立てで東京国際空港ー京浜島ー昭和島ー平和島ー城南島(東京卸売市場、大田市場と東京湾野鳥公園、大井貨物ターミナルでトラックの町に。
                318・357号線が交差


                高速1号羽田線が


               クイナ科ーオオバン


              ユリカモメが


               運河に架かる大和大橋


               流通センター倉庫が並ぶ


「東京貨物ターミナル駅」
都品川区八潮・にある日本貨物鉄道(JR貨物)・東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅。一部の貨車の常駐駅に指定されており、「東タミ」が貨車に記されている。東海道本線を中心に日本各地からの貨物列車が多く発着し、隅田川駅と並ぶ東京の二大貨物駅であり、また、日本の貨物駅としては最大の面積を持つ駅である。

大井ふ頭は、車両基地、ここから大型トラックで各地へ。



東京モノレール「流通センター駅」



亀戸香取神社 七福神 syu散歩

2017-05-15 | syu散歩

昔は亀戸付近を、「柳島・やなぎしま」と云った。
葛飾郡柳島村及び柳島5か町を指す地名で、現在の都墨田区から江東区に存在した地名で、現在の墨田区業平・横川・太平・錦糸、江東区亀戸に相当する区域になる。
江戸期の柳島は、「柳島5か町」と言われた柳島町・柳島横川町・柳島出村町・柳島裏町・柳島境町の5町と、葛飾郡の柳島村があった。
この内、裏町と境町は1869年に柳島町に、出村町は1872年に太平町にそれぞれ編入された。
1889年の市町村制施行に伴い、横十間川より西の柳島村は東京市本所区に編入され、柳島町、柳島横川町が町域を広げたほか、新たに柳島元町、柳島梅森町の2町が成立。横十間川より東の区域は南葛飾郡亀戸村の大字となり、1910年代に東京市電(都電)が開通し、浅草、上野、須田町などと直結し、
一気に町の発展を促進させたと云う。
                   下町情緒の亀戸


                  カメの形をした亀戸町


亀戸天神・梅まつり」 2月上旬~3月上旬
                  300本の梅が


「亀戸勝矢祭」~
平安時代、平将門の関東制圧(天慶の乱)が、追討使「俵藤太秀郷(藤原秀郷)」は乱が起きた時、勝利を祈願し「香取神社」を参拝
その後平貞盛と共闘し、見事乱を治め奉賽として弓矢を奉納・「勝矢」と命名。
勝矢祭は、1000年経つ今でも・・・
勝矢祭では平安時代当時の格好を再現し、武者行列が大島3丁目亀出神社を出発し亀戸3丁目香取神社までを2時間かけて練り歩くと云う。

                  勝矢祭ー写真ー


「亀戸香取神社」
「藤原鎌足」が東国下向の時に勧請したとも、応安4年の1371年・鎮座。
祭神ー経津主神・相殿ー武甕槌神、大己貴神・境内社ー水神社、三峰神社、熊野神社、稲足神社、天祖神社

          亀戸七福神の大国神、恵比寿神


亀戸村の香取社
村の鎮守なり。祭神は経津主神なり。
右に健御雷神、左に大杉大明神を合せ祀れり。由緒に云。当社は天智天皇4年乙丑大職冠鎌足東国下向の時勧請し、太刀一腰を納め朱雀院御宇俵藤太秀郷、将門追討の時参籠して弓矢を納めし事あり。其後大永3年当社を再興し、又応安4年修造云々とみえたり。此事他の所見なければ信ずべきものにはあらされど、寺社帳に応安4年鎮座の由載たれば古社なることは論なかるべし。享保の頃当社へ常州阿波郡大杉明神飛来せりとて、其頃参詣群集せりと云。
末社子守稲荷金比羅ー 旅所、北十間川の北側にあり、僅の除地なり。神主香取中務。吉田家の配下なり、旧家なれど家系等も傳へず。
神明社
往古大樹の榎神木たりしが、此木枯たりしとき天下泰平の文字を虫食しより、泰平神明と尊称すと云。
香取中務(香取社)持 (新編武蔵風土記稿より)
                       狛犬


「木遣り」
神社造営の重い神木・石など運ぶ時の「労作歌」で多数で声を掛け合う。

遣師 イヨオ・・・・オオオ・・オイ  ヤ・・・・・ルヨ・・・・ 側ウケ イエ・・・エエエ エ・・ヨオ・・・・オ・・・「手古」
   ~ ~ ~。
                        木遣り音頭の碑


香取神社の現在では、勝ち運を司るスポーツ振興の神として、全国から参拝者が訪れていると云う。
スポーツで大切なのは、諦めないこと、相手にひるまないこと“自己との闘い”でもあるんです」と。
これは仕事や病気に関してでも同様、参拝者はさまざまな勝ち運を願っていくとか。「仕事で勝てますように…!」と。

                         拝殿


「福聚山・善應寺普門院」
1522年、武蔵国豊島郡三原にあった開基とされる「千葉自胤」の城中に創建。
創建時の本尊は聖観音で、千葉自胤の家臣「佐田善次盛光」が冤罪によって斬罪に処されるところ、日頃の信心によって、この観音に身を救われたことから、千葉自胤が感じ入り寺院を建立したのだという。
年代不詳ながら別に堂が建てられ、1622年、に現在の土地に移った。

船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としてしまい、これを引き上げることはできず、これがー鐘ヶ淵ーの地名の由来。
慶安2年の1649年、德川家光が立ち寄った際、5石の朱印状を拝領し、1772~1781年には、「栄範上人」によって本尊が聖観音から大日如来に改め、

          江戸期には葛飾区青戸にある薬王山真頂寺宝持院の末寺であった。


「伊藤左千夫」
上総国武射郡殿台村・千葉県山武市、の農家出身で明治法律学校(現・明治大学)中退。
明治31年、に新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。
歌よみに与ふる書・に感化され、「正岡子規」に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木」「アララギ」の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成した。
明治38年、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
夏目漱石に評価される。
代表作に「隣の嫁」「春の潮」など。
この頃、東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。
常音の兄である真宗大谷派僧侶の近角常観とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌「求道」に短歌を寄稿する。1913年の大正2年、脳溢血のため死去。



          大日如来像 「亀戸七福神・毘沙門天」


「光明寺」    創建ー1555年。
                   天台宗の寺ー山号 亀命山遍照院。


境内には、浮世絵の第一人者と賞された「歌川豊国(国貞)」の墓がある。前回の亀戸天神に。



                   亀戸から見た「東京スカイツリー」


伊藤左千夫ー(短歌)
亀井戸の 藤もをはりと 雨の日をかささして ひとり見にこし ・ けならべて 雨ふるなべに 亀井戸藤浪の花 ちらまくをしも。

龍眼寺・亀戸天神 syu散歩

2017-05-13 | syu散歩

江東区・京浜工業地帯の東翼を担って、城東工業地帯の核心部を形成・が地盤弱く、地下水汲み上げで地盤沈下で区の半分がゼロmで地震水害対策が進められ堤防強化と避難場所確保などが。
都江東区亀戸は、区の北東部ー旧中川・堅川・横十間川・北十間川に囲まれた地域、元南葛飾郡亀戸町でカメに似た島で亀島と呼ばれ、「亀村」。
村内に「亀ヶ井」という名井にちなんで(かめいど)-「亀戸町」
江戸時代には、幕府の銭座(銅銭)が置かれていた。
今は、荒川・中川両水路完成し、急速に発展している。鉄道もJR総武本線と東武鉄道亀戸線と道路整備で中小企業と商店街が。
私の父は、この亀戸駅で米機の空爆で、線路を挟み右左に逃げ、左に逃げて命拾いをしたと云う・この駅を降りると父の話を思い出す。

「竜眼寺」-萩寺ー
                    創立 応永2年の1395年の古い寺


「松尾芭蕉句」
                  濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩


「句・歌の碑」      落合直文の句碑
             榎本其角   月見とも 見えずや 露あり庭の萩
             大納言家長  ききしより 見る目ぞ まさるこの寺野庭に 散り敷く 萩の錦は
                
                       他にも多数あり


                整備された境内・万治2年の庚申塔が


39世「元珍」が、萩を愛好し、諸国にその種類を求め、126種、萩寺として親しまれている


                     池には、錦鯉が                     


                 竜眼寺は、亀戸七福神・布袋尊(堂)


             奥の本堂は、夢殿を模した「八聖(正)道」の八角のお堂に


                          観世音像


「八正道」とは、理想の境地に達するため実践するー正しい行い(生活態度のこと)

「らしや いちどう」-月や秋 あきや夜にして 十五日ー  (四季折々の花花の竜眼寺)


               竜眼寺を出ると「横十間川の栗原橋」


               栗原橋から見た「東京スカイツリー」


寛永3年・1626年ー九州大宰府天満宮より神霊を勧請した「亀戸天神」へ。

平安時代活躍した「菅原道真公」-信仰対象の天満・天神様を云う。
その道真が「学問の神様」と言われるようになったのは、政治的な功績はもちろんだが、むしろ文学者、歌人としての才能によるところが大きい。
もともと学者の家系に生まれたこともあり、幼少の頃から教育熱心な家庭で育ったのだろう。
例えば5歳の時に紅梅を見て詠んだとされる有名な
            「美しや紅の色なる梅の花阿呼が顔にもつけたくぞある」
太宰府へ流される際に詠んだ
            「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
など、和歌や詩など優れた作品を多く残しているほか、学問でもいまでいう全国トップの大学を主席で卒業するほどの才能で、書家としても優れており
空海(弘法大師)らと並ぶ才能と言われていた。
これら道真の生前の功績が、長い時を経て「学問の神様」となったとされている。
若者たちは、「道真公のように学問で立派な功績を残せますように」との思いから来ているのだろう、頑張って。

「亀戸天神社・江東区亀戸」
古くから「亀戸の天神さま」「亀戸天満宮」として親しまれ多くの参拝者が訪れる「亀戸天神社」。
九州太宰府天満宮にならって造られたという社殿、回廊、心字池、太鼓橋が配置された見事な杜は、東国天満宮の宗社として有名。

          「梅まつり」には梅を愛した道真公に因み約300本の梅が咲く。


              祭神 菅原道真公 (道真5歳時像)


                心字池に架かる「太鼓橋」


                   池の中央に亀の像


                写真ー初詣で賑わう境内


                     藤と梅の名所に


                 心字池に広がる藤の枝


      庚申
              三猿ー見さる・聞かさる・言わさる


狂歌師 蜀山人・浮世絵師 歌川豊国・自由民権論者 中江兆民などの碑が

「歌川豊国」 1769-1825 浮世絵師歌川豊春の門下、美人画・役者絵(東洲斎写楽とは対照的し理想化して表現。
和泉屋に持ち込み名を高めた。和泉屋の恩を生涯忘れなかったと云う。歌川豊広と対抗した。

「中江兆民」 1847-1901 思想家・評論家、フランス民権思想普及と専制政府攻撃に縦横の筆をふるった。遺稿(一年有半)がある。



                          拝殿