syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

錦糸町から大島へ syu散歩

2017-05-09 | syu散歩

JR総武本線両国(横綱町)から隣の錦糸町駅を下車する。
錦糸町は、明治27年、 総武鉄道の本所駅、開業し、明治40年の 鉄道国有法により買収、国有化、大正4年、「錦糸町駅」となる。
大正12年、 関東大震災により壊滅、昭和20年の 東京大空襲でも全焼した。
2003年の平成15年、 帝都高速度交通営団(営団地下鉄)半蔵門線が開業。
ここ錦糸町は、両国と同じ都墨田区・区の南部、大横川の東で錦糸堀の西岸で東西細長い地域、関東大震災で被害を受けた千代田区神田のお菓子製造業者
が移転している。お菓子の問屋の町として発展・昭和12年汽車会社平岡工場跡地に「江東楽天地」が出来て区内最大の商業と娯楽の中心になった。
駅の南口に「伊藤左千夫住居跡」の碑がある。
左千夫は、錦糸町駅前で牧場を営み、牛舎を立て「搾乳業」を、当時は新しい産業であったという。
生まれは、千葉県山武市で歌人・小説家(野菊の墓など)であるが、正岡子規・斉藤茂吉等と文学の激論はここ錦糸町である。

江東橋を渡ると江東区毛利町になる。 「猿江恩賜公園」


「毛利町」の地名は、江戸麹町の「伊勢屋・毛利藤左衛門」が、1722年の享保7年、私財を投じて堀を埋め新田開発・それで地名が「毛利町」に。
1734年幕府は、大部分を取り上げ「木材置き場ー木場」が作られ町域西に「横十間川」とつながったー猿江材木蔵跡の碑がある。
明治に入り「皇室所用地」、昭和51年貯木場は、江東区の潮見へ移転した。

             毛利2丁目の大半は、「猿江恩賜公園」


「猿江恩賜公園」
元宮内省御料地とその昔は幕府の貯木場であったが昭和7年競技場と野球場などを設置され公園として開園している。
区は、10周年記念事業として1200人収容のホール「江東公会堂」を建設した。

                 面積52869m2の大公園である。(猿江恩賜公園案内板)


                        小名木川


「江東区」は、都南東で東京湾に面し、隅田川の東でー江東区ー。
隅田川と荒川に挟まれたゼロメートル地域、東京湾埋め立てと小名木川などの運河が縦横に走っている。その為江戸時代から木材の集散地。
昭和初期から埋め立てられ、豊洲・東雲・有明・辰巳・夢の島・新木場・若洲・青海で重工業・貯木場・埠頭・住宅と大きく発展している。

                       猿江木材置き場の碑                       


                       南側地区公園内  










「江東区大島町」
西は横十間川・東を中川・北を堅川・南を小名木川で囲まれた地域で、歌人、小説家「伊藤左千夫」がここに転居し終焉まで住んだ町。
(菩提寺は亀戸の普門院)

「大島稲荷神社」

江東区大島5丁目に鎮座する神社で、旧社格は村社。

                  宇賀之御魂神と迦具土之命を祀る。


神社は、慶安年間の1648年 - 1651年、小名木川近くの海辺が度々津波に見舞われて、耕地が荒廃し住民が苦しんだことから、
「伏見稲荷大社の分霊」を奉遷し産土神として奉ったのに始まると云う。

         愛宕山勝智院境内の愛宕神社と、柳川藩下屋敷の邸内社であった太郎稲荷を合祀。


元禄5年の1692年、「松尾芭蕉」が深川から小名木川を下って門弟の桐奚宅を訪ねる途中で参拝。

「秋に添て行はや末は小松川」の句を詠んだ。(境内にはその句碑「女木塚」が)


愛宕神社には、享和3年の1803年、から1年間小林一茶が居住していた(ただし、大島2丁目の愛宕神社とする説もある)。

                         芭蕉像


                  小名木川よ大島付近、塩の道橋など


「大石進」1797-1863 江戸時代後期の剣術家。
筑後(福岡県)柳河藩士。祖父種芳と父種行に槍術,剣術をまなび,大石神影流を創始。
長竹刀による突きを得意とし,天保3年江戸にでて,千葉周作,白井亨らと互角の勝負をして評判となった

「柳川藩下屋敷」があった。勝海舟は、砲学・台を此処で学んでいる。
台場ー幕府各藩は、異国船の打ち払いを企画、「勝海舟」が設計ー明石海峡・徳島藩松帆台・備前岡山・筑後柳川藩・東京湾、、。

 小名木川に架かる「塩の道橋」・柳河藩下屋敷と勝海舟の両国は、近い


「宝塔寺」 稲荷山小名院と号し、1610年創建
                       真言宗智山派の寺


「塩なめ地蔵」
宝塔寺境内にある。
江戸時代には、小名木川沿岸は、千葉県行徳方面都の交通の要路であった。
街道を歩く行商人が寺の前で休憩し、荷物の塩を少しづつ「地蔵」に供えていたのが「塩なめ地蔵」の名の起源と伝わる。

この地蔵の塩をぬると「いぼ」が治ると云われる。


向かいで「荒川」に合流する小名木川・住宅マンションが。


「庚申道」
大島は、庚申塔や地蔵様が街角に祀られ、大切に守られている。
この辺りかつては、道の中央に小川があり、子どもをたらいに入れて流すと厄払いになるという言い伝えがある。
沿道には八百屋・魚屋・駄菓子屋などが並びにぎわい、「庚申道」の名は今戸も残っている。
新大橋通りが貫通する以前の大島の古い道と町並みの様子を偲ばせている。



「亀出神社」 大島3丁目に鎮座する神社。
                   祭神ー火産霊命を祀る。


社は、亀出稲荷神社と愛宕神社。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代(17世紀末から18世紀初)に松平定儀が別邸を築くに際して鬼門除として創祀した亀出稲荷神社と、寛文12年に亀戸出村にあった霊巌寺領の鎮守として創建したと言われている愛宕神社を、昭和31年、に現在地に合祀したという。
昭和48年、大島1丁目に鎮座していた「草分稲荷神社」を境内へ合祀している。

飲み水に困ったようだ。


                          拝殿


「大島町の商店街」
新大橋通り、北側に「サンロード中の橋」・銀座商店街・・夕方になると買い物客で賑わう。



次回は、亀戸方面へ。

江戸博物館の展示

2017-05-06 | syu散歩

1945年昭和20年8月15日終戦日
8月14日陸軍内は、午前10時、クーデター計画があったが、梅津参謀総長が応ぜず不発。
宮中御前会議で、「朕の一身は、如何にあろうともこれ以上国が焦土と化し国民が戦火に倒れるのを見るに忍びない」・・・終戦の決意をする。

                  米機から雨のように焼夷弾が、


                 自由に東京の空を低空で、隅田川・下町上空


                  さつま芋・南瓜をと少女隊が行進


                     学徒出陣


                    太平洋戦争末期


                  原爆・広島・長崎に


                   太平洋戦争末期


                 太平洋戦争(浅草馬道付近)


                太平洋戦争末期(母子の焼死体)


                     太平洋戦争末期


                     太平洋戦争末期


                   太平洋戦争末期(江東区方面)


              広島に原爆投下・キノコ雲ー1945年8月6日


                     太平洋戦争末期、隅田川


                  太平洋戦争終戦日(皇居前)


                       太平洋戦争末期


                       太平洋戦争末期


                    家を焼き出された人々


                      焼け跡での生活


「江戸東京博物館」 国技館と隣接 地上7階、地下1階の鉄骨造構造。
地上部分の高さは約62mで、江戸城の天守閣とほぼ同じである。
隣接する国技館との調和を考え、高床式のユニークな構造の建物になっているが、東京下町の景観を損ねているとの批判もある。
1階に企画展示室、3階(屋外)に「江戸東京ひろば」、5階と6階に常設展示室があり、常設展示のほか、年に4、5回の企画展示や催し物などが開催。
吹き抜け構造の5・6階に設けられた
「常設展示室」は、江戸ゾーンと東京ゾーンに分かれ、江戸ゾーンには絵図、浮世絵などの資料や、日本橋(縮尺1/1)や中村座(縮尺1/1)の模型、長屋の大型模型、可動模型、持上げ可能な千両箱などの展示物が設置されており、庶民の日常生活、火消し、食生活、文化など、城下町としての江戸に関する展示が行われている。
東京ゾーンでは明治維新、文明開化、関東大震災、東京大空襲などの展示がある。

                   入館有料ー65歳以上¥300














                        徳川家康坐像






両国 国技館から旧安田庭園 syu散歩

2017-05-05 | syu散歩

「両国」の地名は、武蔵国と下総国を結んで架けられた「両国橋」から。
両国と云えば、昔からー相撲と花火ー、川向かうと呼ばれていた。
相撲の国技館は、明治42年両国に建てられたが昭和29年、蔵前に移転し30年後また両国に帰っている。相撲復活で両国界隈に「相撲部屋」が多い。
両国界隈と云えば「老舗の江戸の味」が楽しめる。
両国は、都墨田区南西に位置、隅田川東岸の商業と住宅地域で、JR両国駅を中心に広がり中央部を京葉道路が横断、首都高6号線が走る。
江戸時代は、町人文化の中心として栄え、無縁寺として幕府によって建てられた「回向院」・けいだいで「勧進相撲」が行われ、境内に旧国技館
が建った。
千葉県に向かんて右側に両国公園があるが、そこに、勝海舟生誕地碑があり、旧吉良邸の一部が残って、吉良首洗い井戸と松坂稲荷がある。
今日は、国技館・旧安田庭園・横綱町公園(都慰霊堂と復興記念館)・都江戸東京博物館へ。

     高さ40m・地上3館・地下1階ー収容人員11500人の豪華建築「国技館」


「俵星玄番」槍の名手
JR両国駅西口から両国国技館正門へ行く途中の歩道に「俵星玄蕃」の道場跡の立札が。
立札に、俵星玄蕃は、忠臣蔵で架空の人物であり玄蕃の道場はこの付近にあったとある。
カラーの俵星玄蕃の姿で説明し、歌舞伎でお馴染みの人物。



三波春夫等が、元禄名槍「玄番」を、(赤穂事件に登場)
槍は錆びても 此の名は錆びぬ 男玄番の心意気・・・・。
宝蔵院流(ここ横綱町に道場が?)-槍と取って天下の名人と云われ、上杉家老千坂兵部は、玄番に250石の高禄を以て、吉良邸の附人として召抱えようと使者を立てたが、夜泣き蕎麦屋当た屋十助こそ赤穂浪士の世を忍ぶ苦心の姿と深く道場を寄せ、玄番は、これを決然と断った・・・・。



「葛飾北斎」 世界的に著名な画家・代表作「富嶽三十六景」

                  1849年 江戸時代後期の浮世絵師


14歳で版画彫の仕事につき、彫りと文章や絵に親しむうち自分も描いて、18歳で、当時人気の浮世絵師「勝川春章」に入門している。
北斎の浮世絵は、色彩感覚がずば抜けているという。北斎ブルー・静と動き(美人画)・老いてからも強烈な絵を描いていると云う。



「摺物3枚続 文政5年の1822年作 」
馬尽は、狂歌師のグループである四方側よもがわが刊行した狂歌摺物のシリーズ。
文政5年が午年であるのにちなみ、さまざまな馬にまつわるモチーフを描いて、「駒形堂、御厩おんまや河岸、駒止石」。
御厩河岸という名称は、昔、このあたりに(両国)幕府の御厩があったことに由来するという。
往来に大きな石があり、これが「駒止石」。

1枚ずつ独立した作品として鑑賞も、3枚つなげて、隅田川沿いの風景を。


両国駅の北口から国技館の脇を通り、旧安田庭園にむかって入り口の手前の角近くに。
「舟橋聖一生誕の地」・小説家である「舟橋聖一氏」がこの両国の墨田区横網近辺で生まれたことでこの場所にあるとのこと。
この生誕の地には、この方の代表作である「花の生涯」の碑が立っています。

「旧安田庭園」
     工事で休園中・江戸時代の典型的回遊式庭園(無料)


「安田善次郎」 安田財閥創始者 1838-1921 金融業・富山県
第三・第四十国立銀行・安田銀行・生命を興すー日比谷公会堂・東京大学講堂・寄付、社会事業に力を、暗殺された。

            丹後宮津の藩主「本庄因幡」守が元禄時代築造。


後、安田財閥の所有し大正11年に都に寄贈された(隅田川から引き入れ、千満で池の眺めが変化する)


                両国公会堂がある。 


「都墨田区横綱」 区の南西部、両国駅北側で隅田川に沿っている。国技館・江戸博物館・旧安田庭園・横綱公園(旧陸軍被服廠跡、関東大震災と
東京大空襲の犠牲者を合祀した慰霊堂、復興記念館がある)
                           横綱公園西口


                           慰霊堂内


                           慰霊塔(納骨)


                         太平洋戦争末期


                         太平洋戦争末期


                         太平洋戦争末期


                 戦後の闇米取り締まりで 私服の取り締まり官が       


                       関東大震災浅草仲見世通り


                 闇米取り締まりで山になった米・上野駅(終戦直後)


次回に続きます。

広い池が中心の清澄庭園 syu散歩

2017-05-01 | syu散歩

「清澄公園・清澄庭園」
   区立図書館(旧東京市立図書館ー明治42年)昭和25年江東区に移管している(所蔵数約20万冊以上と云う)。


「紀伊国屋文左衛門」 役人と癒着した政商・豪商 1669-1734 紀伊の生まれ。
暴風雨をついて江戸に紀州産のミカンを売りまくっり巨利を得たと伝わる。勘定奉行ー荻原重秀・御用人柳沢吉保に取り入り、幕府御用達の木材商
として、度重なる江戸の大火に乗じ巨万の財を成している。
文左衛門千両で吉原借り切っている・節分に豆の代わりに金を見いている・諸般の役人に対し接待しいろいろ演出し江戸中「紀文」の名が・
絵師・戯作者のパトロンに・・・。が40歳で材木商廃業し、晩年は財産を使い果たしている。
富岡八幡宮へ大神輿を寄贈している。

「岩崎弥太郎」三菱財閥創設者 1834-85 実業家。
土佐の生まれ、開国論者「吉田東洋」を知り、「後藤象二郎」交わって、長崎土佐商会に勤め、廃藩置県時、土佐藩大坂表の全財産を継承して
「九十九商会」を興した。後解散し、三菱商会設立、海運業ー政府から汽船を無償の払い下げ、助成金を受け、アメリカパシフィック・メイル
帝国郵便蒸気船会社の競争に勝って大きく発展した。後為替業・海上保険業共同運輸・・「日本郵船」を成立させた。

                      東側に庭園・西側に公園


                清澄公園ー櫓の時計塔・噴水・水なし石畳川等。


                フジタ棚や樹木など多く、街中の静かな公園


元禄期の豪商「紀伊國屋文左衛門」の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定。
1878年の明治11年、荒廃していた邸地を
三菱財閥創業者「岩崎弥太郎」が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手し、明治13年、に竣工、「深川親睦園」
と命名。
三菱社長の座を継いだ「岩崎弥之助」は、庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、明治24年、に回遊式築山林泉庭園としての完成、
明治22年、庭園の西側に「ジョサイア・コンドル設計」による洋館が建てられた。
1923年の大正12年、関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失。
大正13年、三菱3代目社長の「岩崎久弥」は、東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は、大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、昭和7年、-清澄庭園として開園ー
昭和52年、開放公園(清澄公園)として開園。

関東大震災ー火災の被害が大、4千本の広葉樹、針葉樹に囲まれていたこともあって、図らずも近隣住民の避難場所となり2万人の人命が救われたと云う
(北から2kmあった本所区(現墨田区)の陸軍被服廠跡(現横網町公園)では、避難した4万人のうち3万8千人が火災旋風に襲われ落命)

                      「清澄庭園」入園料 ¥150                     


中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置、「磯渡り」などがある。
園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。池には人に慣れた多数のカメがおり、餌をやることができる。
大正記念館は、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿。戦災で失われ、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建された。集会施設として利用可能。
涼亭は、明治42年、建てられた数寄屋造りの建物。(保岡勝也の設計)都選定歴史的建造物に選定。

           「深川親睦園」西洋館(ジョサイア コンドル設計)


                     和風建築


                  池を中心にされた庭園


                    庭園                       


                   庭園内図


「村田春海」 1746-1811 国文学者・歌人
江戸の干鰯問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周の養子となった。
のち本家の干鰯問屋を相続したが、その生活は豪奢なもので十八大通の一人にも挙げられたと云う。
その結果、家産を傾け隠居後は風雅をともにし、漢籍を「服部白賁」に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに
江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。
春海は、特に仮名遣いに造詣が深く、「新撰字鏡」を発見・紹介している。
また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。
門下に清水浜臣・小山田与清などがいる。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価。
著書ー歌文集「琴後集」、漢詩集「錦織詩草」などがある。

          村田家の菩提寺は、清澄庭園前の日蓮宗「本誓寺」


                   仙台堀川の早咲き桜


「心行寺」 山号 双修山・深川七福神「福禄寿」

                   浄土宗の心行寺


1616年 日本橋八丁堀寺町に創建 開基は、岩田城主「吉川監物」(墓がある)、1633年日本橋から深川に移転している。

                   心行寺本殿


              心行寺ー 五十石塔・川口直供養塔など点在


「法乗院・閻魔堂」
髪結新三の狂言舞台となった所で、江戸時代より有名である。

        閻魔様は、初代、大正時代の震災で燃失している。現在は二代目


寺は、真言宗豊山派・山号 賢台山・ 開山 1629年 覚誉僧正。
歌舞伎の音曲尺八・琴古流宗家「豊田鳳憬」の墓がある。

                     御府内八十八ヶ所霊場の74番札


「陽岳寺」
1637年創建・開山 文宝祖郁禅師・開基 向井忠勝 1582-1641 60歳で没した。(陽岳寺が菩提寺)
向井忠勝は1597年、将軍秀忠に仕え、大阪冬・夏の戦いで、水軍を率い、摂津尼崎出陣している。1625年父の跡を継ぎ向井家は、代々「船手頭」の
職を世襲したとある。
                         長光山 陽岳寺


「和倉橋跡」ー所在地区深川2丁目、(首都高ガード下)この付近は、幕府賄方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といったと云う。
明治2年、からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。昭和4年の1929年、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4mル、幅11mの鉄橋・昭和50年、油堀川が埋められたので和倉橋はとりはずされた。

                         和倉橋跡


                         橋の柱跡