syuの日記・気まま旅

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西武新宿線で稲荷神社 東伏見神社 稲荷とは食物の神

2019-12-14 | 季節だより
「西武鉄道・新宿線」
西武創成は、1912年明治45年「武蔵の鉄道」が前身・100年以上の歴史がある。
池袋ー飯能間が大正4年で、武蔵野鉄道が開通している。武蔵野の人・物の流れが一変させた。昭和2年、東村山ー高田馬場間が・東村山ー川越が電化された。
これが「新宿線」の始まり。
現在の多摩川線は、多摩湖鉄道が昭和3年、国分寺ー萩山間で開業したのが始まりである。
昭和27年、高田馬場ー新宿が延伸されている。旧国鉄新宿東口の仮駅であった。





「京都・伏見稲荷神社」は、711年、「伊侶巨秦公・いろこのはたのきみ」が、稲荷山頂上に大神を祀った。968年、藤原時平の寄進により社殿造営された。
963年、京都東南を鎮守する。
1039年、22社上7社に(朝廷から奉幣をうける)、1072年、後三条天皇行幸・1336年、後醍醐天皇御所吉野に移るとき参拝された。
「むば玉の くらき闇路に まよふなり われにかさなん 3つの燈火」の句を。・14

関東地方の稲荷神を信仰する信者により、1929年の昭和4年、稲荷神の総本社である伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建。
戦前、中島飛行機の社員研修所があり、鍛錬教育が行われている。

「稲荷神」、稲荷神・稲を象徴する穀霊神・農耕神。「稲荷」とは食物の神(ウカノミタマ)、キツネ(御食津神)、油揚げ、稲荷寿司、旅芸人が。
神道の稲荷神社 では、古事記・日本書紀などの日本神話に記載される宇迦之御魂神、 倉稲魂命とも書く、豊宇気毘売命、保食神、大宣都比売神。

都西東京市東伏見「東伏見稲荷神社」  祭 神ー 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神 ( 家内安全、商売繁盛、交通安全、厄除開運 ・・)

西武新宿線の「東伏見駅」が最寄り駅。東伏見稲荷神社の由緒によれば宇迦之御魂大神は伊勢の外宮と同神で衣食住や農業の守護神、佐田彦大神は猿田彦大神のことで通商貿易や道路の神(=道祖神)、大宮能売大神は神楽舞踏の始祖で一家の和合商売繁盛の守護神とあります。なんだか仰々しい神名ですが、ひらたく言ってしまえば稲荷神、猿田彦神、天照大神の巫女(天鈿女命と同神とも)のことで、東伏見稲荷神社の歴史は意外に浅く、昭和4年に関東の熱心な稲荷信仰者が伏見稲荷の分霊をこの地に祀った。
「お稲荷さんは狐ではない。狐はあくまでも稲荷神のお使い」「狐憑きは迷信」。
社殿裏には、稲荷小祠が密集しており、まさにミニ稲荷山。






























八王子 桑都「鎌倉古道ー絹の道」織物の産地 

2019-12-10 | 季節だより
八王子片倉ー町田田端間の現在も残る「鎌倉古道」八王子を桑都と呼ばれている。
農業では、江戸に遠く、養蚕に力を入れた。それが1858年の開国で生糸輸出が盛んのなりー横浜港へ輸送増に「横浜街道・町田街道・浜街道」の商業都市と発展した。
市名は、城山に牛頭天王の8人の王子を祀った「八王権現守護神・八王子城」に由来する。
多摩川の支流「浅川」の盆地段丘上に中心市街地が広がり、南西に高尾山・明治の森高尾国定公園と北に景信・陣馬山都立自然公園がある。



ご存知であろうか、関東有数の織物産地で・ネクタイ・ウール着尺地・・国内随一の生産を誇っていた。
工業団地と近代工業が続々進出し、山梨県都留地方下吉田に下請けに。



                     JR中央線八王子駅周辺を散歩する。





































八王子千人町のいちょう黄葉

2019-12-08 | 季節だより
「八王子千人町」
千人町の歴史は、1593年の文禄2年。
武蔵国多摩郡八王子横山に千人同心の拝領屋敷が設けられ、そこに、そのうち頭及び組頭の約100人が移住した。
千人同心は500人であったため「五百人町」と呼ばれ、「千人町」と呼ばれるようになったのは、1600年の慶長5年、1,000人に増強されて以降のこと。
町名は、千人同心の屋敷があったことに由来。
沿革は、1593年、 武蔵国多摩郡八王子横山(現・八王子市千人町及び追分町)の拝領屋敷に千人同心の小人頭500名のうち頭及び組頭が移住する。
1600年、千人同心が1,000名に増員・1889年の明治22年ー 町制施行に伴い八王子町発足、千人町はこの一部となる。大正6年、 市制施行に伴い八王子市発足。
昭和14年、 国鉄西八王子駅が開業。1967年の昭和42年、 住居表示を実施。一~四丁目に変更した。昭和62年、「西八王子駅」が。














































11月小田原の名所旧跡と市内

2019-12-07 | 季節だより
「春日局」斎藤福/1579 - 1643・安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。
春日局とは、朝廷から賜った称号。父は、美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣「斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)」の娘。
稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)養父は、「稲葉重通」
稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与したと云う。
稲葉氏一族の墓所には、8基の墓石が横一列に並んで、墓石に法名のほか俗名も刻まれていると云う。
墓石は、正面左から稲葉正則、正勝の正室、正勝、春日局、正則の正室、正通(正則の子)の後室、正則の長兄、そして少し離れたところにあるのが正勝の家臣・塚田正家の墓及び供養塔で、墓及び供養塔の型は、正則だけ位牌型で、そのほかは五輪塔が。

「長興山紹太寺」は、箱根鉄道小田原から4つ目の「入生田駅」にある。江戸時代初期の小田原藩主であった稲葉一族の菩提寺。
宇治万福寺から招かれた鉄牛和尚の開山の古刹・ 寛永9 年の1632年、
将軍家光は、自らの政権をより強固なものとするため、側近であった幕府老中職の稲葉正勝を関る東支配の鍵となる小田原城主とした。
正勝の母は、将軍家光の乳母をつとめた春日局。
正勝は、入封2 年後の寛永11年正月、38 歳で急死し、家督を相続したのは若干12歳の正則で、本来であれば、お取りつぶしという事態、正則が春日局の孫であったため相続が許されたと考えられている。
正則は、1669年、城下の山角町(南町)にあった菩提寺を入生田に移転拡大し、長興山紹太寺と名付け、父母と春日局の霊を弔いた。
往時は七堂伽藍の整った大寺院で、黄檗宗独特の広大な庭園が美しい寺院であったと伝えられる。
幕末の火災によって建物が焼失し、現在では子院の清雲院が紹太寺の寺号を継いでいる。
実子の稲葉正勝・養子の堀田正俊は、春日局のコネで、老中まで出世している。

                       東海道本線 小田原駅


小田原駅は、JR東海道本線ー熱海ーJR東海へ・東海道山陽新幹線・私鉄、小田急線・伊豆箱根鉄道大雄山線・箱根登山鉄道が





                          駅前


           神奈川県小田原市は県南西・市名ー中世から、原野を開墾「小田原」に


「早川早雲」 1432-1591 戦国武将の先駆け・小田原北条氏の初代ー京都の伊勢氏説がある、名は「長氏・新九郎」
駿河国今川氏から「興国寺城」を貰う、後伊豆国の乱入・堀越公方の子「茶々丸」を殺し、一国を平定する。後小田原城の大森氏を奪い、三浦の
「新井城」を滅ぼしー「相模国併合する」-戦略は、騙しで「鹿が逃げ込んだ・・・」・変装などを。
農民への租税は「4公6民」の善政を敷いた。88歳の長寿。

沼津は戦国時代、今川氏、武田氏、北条氏という三戦国大名による激しい争奪戦が繰り広げられた。
支配者の交代も頻繁であり、各勢力の最前線として多くの城郭が築城され、そのような中で興国寺城は各勢力によって盛んに改修が行われていった
「今川記・北条記」
長享元年の1487年、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍により富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地としたとある。
その後、早雲は、幕府管領・細川政元の足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子・足利茶々丸を将軍・足利義澄の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移った。
興国寺城は、長享元年から北条早雲が伊豆に移るまでの間、本拠地としていたというのが定説。
北条早雲が興国寺城を本拠地としていたことを示す同時代の史料は見つかっていない。
同時代の史料で興国寺城が確認出来るのは、1549年、今川義元が駿河国善得寺(富士市今泉)の末寺である興国寺に、築城用地とするために移転を命じた文書が初出となる。
また北条早雲が今川氏から与えられたとされる富士下方十二郷とは富士市北東部に当たり、沼津市の市域となる興国寺城がその範囲に含まれるかどうかについてははっきりとせず、興国寺城は早雲の領地外であった可能性がある。
このように長享元年に北条早雲が興国寺城に本拠を定めたことについては確証が持てないが。

                             北条早雲像


                         城山方面、駅ビルー左側


市内は、相模湾ー西湘バイバスー縦中央に「酒匂川」-小田原駅ー左側に一夜城のある石垣山・坊所川・久野川・南足柄・縦に狩川ー酒匂川間を
小田急線、尊徳生誕地。
相模湾に戻り、報徳二宮神社と小田原城・西湘バイバスを横浜方面酒匂川、酒匂橋・上り「勝福寺」-興津駅・JR東海御殿場線・曽我梅林に。



「石垣山城跡」
早川の河口、南岸261mの石垣山山上の台地にある。
豊臣太閣一夜城とも云う。1590年秀吉が、小田原城攻めの本陣として築いた城跡。本丸跡の基石と見晴らしよく丹沢・三浦半島が望める。

                            マップ


JRの早川と根府川駅中間に、「石橋山古戦場」がある。平家方大庭景親3000騎と源頼朝300余騎で頼朝が敗れた所も近い。

                         春の小田原城跡ー写真から


江戸時代は、大久保氏城主で、箱根・東海道の重要な拠点の「小田原宿」。家康は、ここから御殿場を経由した。



現在の小田原は、交通条件も良く、印刷・食品・フイルム・半導体・箱根外輪山の豊富な木材加工細工など。

                          東海道宿の古家


「報徳二宮神社」には、尊徳の遺品・書状類など資料館がある。



                       5月3日~5日小田原お城祭が


                           相模湾


                         熱海駅から伊豆急行へ


                            車窓から