『神去なあなあ日常』(徳間文庫)を読み終えたのは4月27日。その後すぐに単行本の『神去なあなあ夜話』を読み始めた。7つ夜話からなっていて、『なあなあ日常』を補完する内容である。
第一夜 神去村の起源
第二夜 神去村の恋愛事情
第三夜 神去村のおやかたさん
第四夜 神去村の事故、遭難
第五夜 神去村の失せもの探し
第六夜 神去村のクリスマス
最終夜 神去村はいつもなあなあ となっている。
第二夜まで読み進んだ時に朝井まかてさんに浮気した。そして有川浩さんを経て神去村にもどってきたのが9月14日。『なあなあ夜話』の冒頭部分を拝借するとこんな具合になる。
《やあ、神去村。ひさしぶり! 4ヶ月以上もご無沙汰したけど、元気だったかな? 俺に読んでもらえなくて、さびしさに本棚で泣いちゃってたと思うけど、涙は拭いてくれ。 I'll be back! 帰ってきたぜ!》
その後は、毎夜一話と決め、5日間神去村アラカルトを楽しんだ。
三浦しをんさんの「仏果を得ず」「舟を編む」「神去なあなあ日常(→夜話)」の底流に流れているものは、理屈は関係なく何かの大きな引力に引き寄せられる人間の様である。その何かが文楽であったり、辞書作り、林業と異なるだけである。そして主人公は最初から高邁な考えを持っているわけではなく、ふらふらと腰の定まらない上にそのことに対してうじうじと悩む平凡な人間である。
そういう人間が、濃いキャラを持つまわりの人との交わりの中で、人生ごとそれぞれの世界に引き込まれていく様を「それが人間なのだ」と丸ごと肯定して描いてくれている。「今を生きる馬鹿な人間」の肯定があるので読後、元気が出るのである。
もう一つは、長い年月を見据えて「今」を生きる人間の尊さを暖かい眼差しで描いている。
『神去なあなあ夜話』の「最終夜 神去村はいつもなあなあ」の中で勇気に語らせている。
《自分が死んだあとも、そのひとが幸せに暮らせますようにと願うこと。死ぬまでのあいだ、飯を食ったり風呂を沸かしたり喧嘩をしたり、なんでもない生活をそのひととつづけていきたいなと願うこと。三郎じいさんが言ったとおり、そういうのがきっと、愛なんだと思う。こんなこと書くの、なんかちょっと恥ずかしいけどね。
でも、俺は神去村に来て、村のひとたちと知りあって、一緒に暮らしたり働いたりしたおかげで、やっと気づけたんだ。
この村のひとたちは、百年後を見据えて山に木を植えつづけ、先祖が植えた木を切りつづけて、生きてきた。それは、笑ったり怒ったりしながら暮らす毎日を、自分たちと同じように、百年まえのひとたちも送っていたし、百年後のひとたちもきっと送るにちがいないと、信じてるからだ。自分が死んでも、あとを生きるひとが幸せでありますようにと祈って、神去村のひとたちは山の手入れをしつづける。その信頼こそが、愛ってやつじゃないかなあ。》
地位とか名声とは無縁であるひとたちの日常の営みがこの世を支えているという人間讃歌がどの本からも聞こえてくるのである。
第一夜 神去村の起源
第二夜 神去村の恋愛事情
第三夜 神去村のおやかたさん
第四夜 神去村の事故、遭難
第五夜 神去村の失せもの探し
第六夜 神去村のクリスマス
最終夜 神去村はいつもなあなあ となっている。
第二夜まで読み進んだ時に朝井まかてさんに浮気した。そして有川浩さんを経て神去村にもどってきたのが9月14日。『なあなあ夜話』の冒頭部分を拝借するとこんな具合になる。
《やあ、神去村。ひさしぶり! 4ヶ月以上もご無沙汰したけど、元気だったかな? 俺に読んでもらえなくて、さびしさに本棚で泣いちゃってたと思うけど、涙は拭いてくれ。 I'll be back! 帰ってきたぜ!》
その後は、毎夜一話と決め、5日間神去村アラカルトを楽しんだ。
三浦しをんさんの「仏果を得ず」「舟を編む」「神去なあなあ日常(→夜話)」の底流に流れているものは、理屈は関係なく何かの大きな引力に引き寄せられる人間の様である。その何かが文楽であったり、辞書作り、林業と異なるだけである。そして主人公は最初から高邁な考えを持っているわけではなく、ふらふらと腰の定まらない上にそのことに対してうじうじと悩む平凡な人間である。
そういう人間が、濃いキャラを持つまわりの人との交わりの中で、人生ごとそれぞれの世界に引き込まれていく様を「それが人間なのだ」と丸ごと肯定して描いてくれている。「今を生きる馬鹿な人間」の肯定があるので読後、元気が出るのである。
もう一つは、長い年月を見据えて「今」を生きる人間の尊さを暖かい眼差しで描いている。
『神去なあなあ夜話』の「最終夜 神去村はいつもなあなあ」の中で勇気に語らせている。
《自分が死んだあとも、そのひとが幸せに暮らせますようにと願うこと。死ぬまでのあいだ、飯を食ったり風呂を沸かしたり喧嘩をしたり、なんでもない生活をそのひととつづけていきたいなと願うこと。三郎じいさんが言ったとおり、そういうのがきっと、愛なんだと思う。こんなこと書くの、なんかちょっと恥ずかしいけどね。
でも、俺は神去村に来て、村のひとたちと知りあって、一緒に暮らしたり働いたりしたおかげで、やっと気づけたんだ。
この村のひとたちは、百年後を見据えて山に木を植えつづけ、先祖が植えた木を切りつづけて、生きてきた。それは、笑ったり怒ったりしながら暮らす毎日を、自分たちと同じように、百年まえのひとたちも送っていたし、百年後のひとたちもきっと送るにちがいないと、信じてるからだ。自分が死んでも、あとを生きるひとが幸せでありますようにと祈って、神去村のひとたちは山の手入れをしつづける。その信頼こそが、愛ってやつじゃないかなあ。》
地位とか名声とは無縁であるひとたちの日常の営みがこの世を支えているという人間讃歌がどの本からも聞こえてくるのである。