素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

御嶽山のまさかの噴火に思う

2014年09月29日 | 日記
 昨夏から日本各地を襲ってきた豪雨災害、広島の市街地近郊での思いもしなかった土石流被害の後は気候の方も安定してきて、しばらくは秋景色を楽しめるかと思っていた矢先、カウンターパンチのように御嶽山噴火というニュースが飛び込んできた。土曜日の第一報ではマグマが吹きだしていない水蒸気爆発ということで事態の深刻さは伝わってこなかったが、昨日、今日と捜索活動が本格化する中で山頂付近の厳しい状況が明らかになってきた。

 どのメディアも言っている事だが、紅葉の本番を迎えた、週末土曜日の昼前という最悪のタイミングでの噴火であった。豪雨、地震、津波、竜巻そして噴火などのニュースを聞くたびに人間の無力さを感じる。

 そういう時に、必ず開く本が2冊ある。鴨長明の「方丈記」(角川ソフィア文庫)と寺田寅彦の「天災と国防」(岩波新書)である。平安時代末期、十年足らずの間に大火災、竜巻、飢饉、大地震といった大災害を連続して体験した鴨長明は「方丈記」にそのことを多く書いている。また自身の人生も思い通りに行かない挫折感いっぱいのものであった。それらの苦境の中から「無常」の人生観を創りだしていったが、決してあきらめて涙する「無常感」という情緒的に感応する態度ではなく、非情な自然界の根本原理を容認する「無常観」を持ち、対象と向かい合う態度を貫いている。どんな苦難にも押しつぶされない秘めたる強さを感じるのである。

 また、「天災と国防」は大正13年から昭和10年に書かれた文章から選ばれたものである。声高に情に訴えるのではなく、科学者としての目と心を通して静かに語られているが、奥にある憂国の情を強く感じる。

 両者に共通するのは、過去の天災について忘れることなく将来に向けて教訓を生かし、できる得る防災対策を講じていくことの大切さを述べている点である。

 「国防と天災」の中に、こういう一節がある。ただし、この本は昭和13年に発行された(定価50銭)ものを古本屋で購入したので旧字体である。勝手に新字体に変えさせてもらう。

 ≪それで、文明が進む程天災による損害の程度も累進する傾向があるといふ事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならない筈であるのに、それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。その主なる原因は、畢竟さういふ天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の転覆を忘れた頃にそろそろ後車を引出すやうになるからであろう。》

 また「津波と人間」の中の一節も鋭い。

 多くの人間は年月とともに災害の記憶や教訓は忘れ去ってしまうと嘆いた後に続けて

≪しかし、困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまはず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じやうに行なはれるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠なものはないのである。
 
 それだからこそ、二十世紀の文明といふ空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払はれたのである。》


 しかし、この2冊を読んでいると不思議と元気がでてくるのである。『2冊を手に取ることのない平穏な世の中であってほしい』は夢のまた夢か。

 

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