素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

♪里の秋♪の3番にオヤッ!?

2014年09月22日 | 日記
 『BS日本・こころの歌』でフォレスタの歌声をBGMに「余録」の書き写しをしていた。♪しずかな しずかな ~ ♪と始まった。♪里の秋♪である。いつもの9月だと残暑も厳しく、熱帯夜もあり「暑さ寒さも彼岸まで」と言いながら秋の訪れを待つのだが、今年は「扇風機をもうしまってもいいのでは」とか「運動会の練習で熱中症というニュースがないね」などと早々と秋モードになってきている。

 「♪里の秋♪がピッタリマッチする夜やなあ」と思いながら「余録」を書き進めていた。秋を代表する歌だが、私は1番の♪しずかな しずかな 里の秋  おせどに木の実の 落ちる夜は ああかあさんと ただ二人 栗の実 にてます いろりばた♪しか記憶に残っていない。

 フォレスタは省略することなく歌うので2番以後少し歌の方に意識が向いた。
♪あかるい あかるい 星の夜  なきなきよがもの 渡る夜は ああとうさんの あのえがお 栗の実 食べては おもいだす♪ 

 秋が深まりゆく山里の静かな生活を歌った歌というイメージあり、2番で「お父さんがいないんやな」と思い、真っ先に出稼ぎ、次に山の事故か何かで早逝したのかと考えた。

 そして3番が始まった。 ♪さよなら さよなら 椰子の島~♪ ここで「エッ!?何で椰子の島???」と書く手は止まり、画面に集中した。 ♪お舟にゆられて かえられる ああとうさんよ ご無事でと 今夜も かあさんと 祈ります♪

 1番、2番とのギャップに頭の中は???が100%。「余録」どころではなくなり、すぐに調べた。いろいろな資料にあたった結果、次のようなことがわかった。

 もともとは、「里の秋」ではなくて「星月夜(ほしづきよ)」という題名で、太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年に、斎藤信夫が東北の田舎を舞台に戦地の父への慰問文として書いたものである。

 それを、当時無名であった作曲家の海沼實のもとへ送ったが、海沼からは何の反応もなく、曲がつかないまま月日が過ぎ去った。

 1番、2番は今の「里の秋」と同じだが、3番、4番は異なっていた。太平洋戦争が始まろうとしていた時代が強く反映されていた。

(3番) きれいな きれいな 椰子の島     (4番)大きく 大きく なったなら
しっかり 護って くださいと         兵隊さんだよ うれしいな
ああ 父さんの ご武運を           ねえ 母さんよ 僕だって
今夜も ひとりで 祈ります          必ず お国を 譲ります
  


 終戦となり、国民学校の教師をしていた斎藤は、自分が子どもたちに教えてきたことに対して自責の念にかられ教師をやめぶらぶらとしていた。そんな斎藤に海沼からすぐに会いたいという電報が届いた。

 南方からの復員兵を乗せた第一船が1週間後に神奈川県の浦賀港に入港することを受け、JOAK(現NHK)では「外地引揚同胞激励の午後」というラジオ番組の中で「兵士を迎える歌」を流すことになった。

 その歌の作曲を依頼された海沼は、適当な詞を古い童謡雑誌などで調べているうちに以前送られてきていた斎藤の「星月夜」に目がとまった。

 1番、2番はともかく3番、4番はこのままでは使えない内容なので3番、4番に替えて新たな3番を斎藤に依頼した。

 四苦八苦してようやく放送の当日にできたのが、私の≪オヤッ!?とアンテナ》にひかかったものである。曲名も海沼の提案で「星月夜」から「里の秋」に変更された。

 昭和20(1945)年12月24日の番組で初めて川田正子によって歌われた♪里の秋♪は大反響を呼び、翌年に始まったラジオ番組「復員だより」の曲として使われた。

 今日の『BS日本・こころの歌』のテーマは《時代》であった。最初はこのテーマともそぐわないなと思ったが、曲ができるまでの背景を知ると♪里の秋♪が選ばれたことに納得した。単なる抒情歌ではないのである。そういうことをふまえて川田正子さんの歌を聴くと今までとは違う感慨を覚える。

里の秋_川田正子さん
コメント
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