『恋歌』を取り寄せた時、一緒に林田愼之助著『幕末維新の漢詩』(筑摩選書)も一緒に注文した。8月10日(日)の朝刊の《今週の本棚》で歴史学者の磯田道史さんが取り上げていたのが本書であった。
その中で磯田さんは、歴史人物は①日記②手紙➂漢詩など詩文④作文⑤回想録を残し、これをもとに⑥伝記⑦小説が書かれて人物像が組み立てられるが、その中で志士の情報に関して➂の漢詩など詩文が抜け落ちてきたと率直に述べている。
「江戸時代後期から幕末にかけては、日本中の庄屋、下級武士以上のエリート全体に教養主義が浸透した。だから、志士とよばれるほどの者は、みなといっていいほど、漢詩を作った。漢詩は手紙、和歌、俳句よりも雄弁だ。前近代の手紙は、時候の挨拶と社交辞令が半分ちかくにも及ぶ形式的なものが多い。また和歌や俳句は詩形が短く、多くは花鳥風月の朗詠にとどまる。うれしい、つらい、かなしいなどの、志士個人の体内からほとばしり出る真情は、漢詩にこそ吐露された。だから我々が、志士の人間臭さ、生きざまを直接に知りたければ、漢詩をみるのが、一番良い」
全国各地に埋もれていた古文書を解読することで、当時の人々のリアルな生活を浮き彫りにし『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』の著者である磯田さんの言葉は説得力があった。
そして、盆に実家に帰った際に母親の本棚を整理する手伝いをした時に、「もういらない」と出された本の中に『吟剣詩舞道アクセント付き漢詩集〈律詩・古詩編〉』があった。磯田さんの書評のことが頭にあったので目次を見ると、学習した覚えのある中国の律詩・古詩とは別に日本人の作った律詩・古詩もあった。菅原道真、伊東仁斎、良寛、頼山陽、藤田東湖、佐久間象山、勝海舟、西郷南洲、吉田松陰、高杉晋作、夏目漱石など多くの人の名があった。たまたま出合った本だが磯田さんの言葉の裏付けみたいになった。どんな漢詩だろう?と興味ある人物のページを開けたがチンプンカンプンであった。
磯田さんは志士の情報でなぜ➂漢詩など詩文が欠落していったかを次のように書いている。
「ところが、漢詩は難解で、平成のこの世になると、志士の漢詩を適切に解説してくれる書物が、なかなか現れなかった。志士研究は歴史学者の領分、難解な漢詩研究は文学研究者の縄張りだ。志士の歴史的位置づけができ、なおかつ漢詩を味わえるよう正確な解釈もできる学者は少ない。本書は、この空白をうめて、ようやく現れた一冊である。」
納得である。漢詩への理解そのものが私の中では欠落している部分でもあるのでこの本に強く惹かれた。それで『恋歌』と一緒に取り寄せたのだが、動機はそれぞれ別だった。その時には『恋歌』が幕末維新の水戸藩の内乱を舞台にしているとは知らなかった。読み終えた今は『恋歌』の内容と『幕末維新の漢詩』とがつながっていることに驚いている。
取り上げられている人物は20人である。
漢詩を道具立てとして、それぞれの人物像を歴史の中に位置づけて描いている。昨日から一日一人と決めて読み始めた。高杉晋作、久坂玄瑞の足跡を漢詩とともにたどると新たな姿が見えてくる。『恋歌』で描かれた水戸藩と長州藩を比べることができるのも面白い。先々には『恋歌』に登場した人物もいる。じっくり味わうには一日一人が最適。
その中で磯田さんは、歴史人物は①日記②手紙➂漢詩など詩文④作文⑤回想録を残し、これをもとに⑥伝記⑦小説が書かれて人物像が組み立てられるが、その中で志士の情報に関して➂の漢詩など詩文が抜け落ちてきたと率直に述べている。
「江戸時代後期から幕末にかけては、日本中の庄屋、下級武士以上のエリート全体に教養主義が浸透した。だから、志士とよばれるほどの者は、みなといっていいほど、漢詩を作った。漢詩は手紙、和歌、俳句よりも雄弁だ。前近代の手紙は、時候の挨拶と社交辞令が半分ちかくにも及ぶ形式的なものが多い。また和歌や俳句は詩形が短く、多くは花鳥風月の朗詠にとどまる。うれしい、つらい、かなしいなどの、志士個人の体内からほとばしり出る真情は、漢詩にこそ吐露された。だから我々が、志士の人間臭さ、生きざまを直接に知りたければ、漢詩をみるのが、一番良い」
全国各地に埋もれていた古文書を解読することで、当時の人々のリアルな生活を浮き彫りにし『武士の家計簿「加賀藩御算用者」の幕末維新』の著者である磯田さんの言葉は説得力があった。
そして、盆に実家に帰った際に母親の本棚を整理する手伝いをした時に、「もういらない」と出された本の中に『吟剣詩舞道アクセント付き漢詩集〈律詩・古詩編〉』があった。磯田さんの書評のことが頭にあったので目次を見ると、学習した覚えのある中国の律詩・古詩とは別に日本人の作った律詩・古詩もあった。菅原道真、伊東仁斎、良寛、頼山陽、藤田東湖、佐久間象山、勝海舟、西郷南洲、吉田松陰、高杉晋作、夏目漱石など多くの人の名があった。たまたま出合った本だが磯田さんの言葉の裏付けみたいになった。どんな漢詩だろう?と興味ある人物のページを開けたがチンプンカンプンであった。
磯田さんは志士の情報でなぜ➂漢詩など詩文が欠落していったかを次のように書いている。
「ところが、漢詩は難解で、平成のこの世になると、志士の漢詩を適切に解説してくれる書物が、なかなか現れなかった。志士研究は歴史学者の領分、難解な漢詩研究は文学研究者の縄張りだ。志士の歴史的位置づけができ、なおかつ漢詩を味わえるよう正確な解釈もできる学者は少ない。本書は、この空白をうめて、ようやく現れた一冊である。」
納得である。漢詩への理解そのものが私の中では欠落している部分でもあるのでこの本に強く惹かれた。それで『恋歌』と一緒に取り寄せたのだが、動機はそれぞれ別だった。その時には『恋歌』が幕末維新の水戸藩の内乱を舞台にしているとは知らなかった。読み終えた今は『恋歌』の内容と『幕末維新の漢詩』とがつながっていることに驚いている。
取り上げられている人物は20人である。
漢詩を道具立てとして、それぞれの人物像を歴史の中に位置づけて描いている。昨日から一日一人と決めて読み始めた。高杉晋作、久坂玄瑞の足跡を漢詩とともにたどると新たな姿が見えてくる。『恋歌』で描かれた水戸藩と長州藩を比べることができるのも面白い。先々には『恋歌』に登場した人物もいる。じっくり味わうには一日一人が最適。