素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

当たり前だと思っていることができなくなって

2022年10月09日 | 日記
 今日の毎日新聞の「日曜 プライム くらぶ」の2つのコラムは期せずして「当たり前だと思っていることができなくなって」ということに関するものだった。

 松尾貴史さんの「ちょっと違和感」では、公演中の舞台「裸足で散歩」が、スタッフ、出演者から誰一人、新型コロナウイルスの感染者、陽性者を出すことなく千秋楽を迎えることができそうだ。ということからこの間のコロナ対策について書かれている。
 
 終演後、知己が楽屋を訪ねてきて盛り上がるということが一切禁じられ、差し入れの品をことづけることも原則的に無し。花が送られてきても、花屋さんに持ち帰ってもらう。楽屋での仲間への差し入れも、食品は個別に包装されている物のみ許される。かつて手づくりのものや料理自慢の関係者が、稽古場や楽屋で手料理を振る舞ったことが遠い思い出となっていることを嘆く。

 海原純子さんは「新・心のサプリ」の中で、マスク生活にふれ「マスクなしの生活という当たり前であった生活がすでに遠い昔のように感じられる」と同じような思いを綴っている。

 そこで海原さんは「当たり前のことを幸せに感じる」ということが大切ではないかと、大腸がんの手術の後なんども腸閉塞を起こして入退院を繰り返しながら家業を楽しんでしていた女性の言葉を引用している。

 「大変なことがあると幸せの閾値が低くなるんですよ。小さなことがとても幸せに思える。普通に排便することができるとアーよかった、なんてみんな思えないでしょう」

 当たり前だと思っていることの価値は失うまでなかなか気づかないものだが、たまには自分の当たり前を見つめ直すことも大切じゃないかなと2つのコラムを読んでいて思った。

 私は、小中学生の時、当たり前だと思っていることができなくなった経験をしている。当時は不運だと感じていたが、今は「当たり前にできることの喜び」を味わうことができて幸運だったのでは?と思っている。

 小学校2年の時、急性腎炎で1ヶ月入院して、運動と塩分のある食事が取り上げられた。5年生の時右手を骨折して1ヶ月ギブスで固定された。利き腕を使えない不便さを嫌と言うほど味わった。中学2年生の時大腿骨頸部剥離骨折で腰から右大腿部にかけてギブスを巻き1ヶ月入院した。腰を曲げることが出来ない生活の不便さは右手の骨折以上のものがあった。

 大腸がんの女性の話のように、困難な生活の中でちょっとしたことに幸せを感じることが多々あった。それが困難の波に吞み込まれずに乗り切る力になったのかもしれない。
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