素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

秋の味覚 サツマイモ届く

2022年10月15日 | 日記
 昨夕、保育園の帰りに孫と娘が立ち寄った。孫の通っている保育園で先日、芋ほり遠足がありたくさんのサツマイモを持ち帰ったのでおすそわけとのこと。芋の入った紙袋を重そうに持って来て、大きな芋を取り出して誇らしげな顔で見せてくれた。なかなかの豊作だったみたいだ。
《洗はれて紅奕々(えきえき)とさつまいも》日野草城 
 娘も迎えに行った時、サツマイモでパンパンになったリュックを見て驚いたと言っていた。その日、芋ごはんとふかし芋にして食べて孫はご満悦だったみたいだ。そして「残りはじいじとばあばに」となった。今計ると3kg余りだったから当日は5kg弱はあっただろう。リュックを背負って靴を履くためお尻を下ろしたら立ちあがるのに難儀していたと娘が笑って報告してくれた。孫の焦った様子が目に浮かんだ。どんなに重くても自分で収穫したものは自分で持ち帰りたい。それが子ども心だろう。

 薩摩芋は中国、琉球を経て薩摩に伝わり、青木昆陽が普及させたことはよく知られているが、農林水産省のホームページを見ると、人類とのかかわりは紀元前までさかのぼるみたいだ。
 
 メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれ紀元前800~1000年ごろには、中央アンデス地方でサツマイモがつくられていたそうだ。紀元前200~600年につくられた、サツマイモをかたどった土器も見つかっています。ペルー北海岸のあたりで栄えたモチーカ文化のものだ。

 ヨーロッパへは、コロンブスが15世紀の終わりにアメリカから持ちかえったのが始まり。しかし、涼しすぎて気候があわなかったので、あまりつくられなかった。あたたかいアフリカ、インド、東南アジアの植民地に持ちこまれたことで、世界中に広がった。

 1600年ごろ、中国から日本にやってきた。琉球から薩摩に伝わったので、サツマイモと呼ばれた。中国から来たいも=からいもとか、中国での名前と同じく、かんしょ、とも呼ばれていたそうだ。
 
 八代将軍吉宗のころに、蘭学者の青木昆陽によって全国に広められた。今の埼玉県川越市あたりはサツマイモの産地で、江戸から十三里あったので、ここから来る焼きいも屋のことを「十三里」とよんでいた。それにひっかけて、焼きいも屋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」とふれて売っていたそうだ。

 「老いも若きも サツマイモ いいもの前に 皆笑顔」
コメント
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