毎日新聞の読者の投降欄「みんなの広場」、日曜日だけひとつのテーマにまつわる投稿が掲載される。今回は「駄菓子屋 世の中教わった」である。少年少女時代、なけなしの小遣いをにぎりしめ駄菓子屋に通った5人の方(66歳、67歳、71歳、75歳、80歳)の思い出を読んでいると私の小学校時代と重なるものがあり、所違えど昭和のあの時代、同じような日暮らしをしていたのだと思った。
中で、福岡県の池田さん(67歳)の「我慢覚え手にした財布」は共感すること大であった。
「子供の頃の小遣いは1日10円だった。母には「午前中5円、午後5円使いなさい」と言われた。10円でも結構使い道はあった。近所の駄菓子屋に行けば、より取り見取りの夢の世界。菓子パンや雑貨もあり、その中で、おしゃれな財布が目に留まった。100円だった。 高いの一言。1日10円を何回我慢すればいいのか。でもどうしても欲しい。2週間近くジッと耐えた。目標達成。100円の買い物は怖くて、父についてきてもらった。娘が小遣いをためていたことを父が伝えると、店の人に褒められたうえ、10円までもらった。 私の中では駄菓子とおしゃれ財布は分かちがたく結びついている。」
私の小学校時代も、1日10円が相場だった。駄菓子屋は小学校の前にある「東京堂」という店が一軒。単価が1円~5円の品物を前に思案するのが楽しかった。1日10円といっても不定期なので1円しかない日もあるし0円の時は友人のおこぼれを期待するなどそれなりに頭を使って生活していた。
駄菓子屋ではないが、当時の贅沢は肉屋の揚げたてコロッケであった。10円玉が手にある時「今日はコロッケを食べよう」と気分が高揚した。しかし、ここでまた思案が始まる。「牛虎」のコロッケは1個10円、「多良福」のコロッケは1個5円と2軒の肉屋で値段に格段の差があった。全部はたいて贅沢気分を味わうか、残り5円を駄菓子に使うかという選択であった。当時、床屋に行くと店のおじさんに終わると10円もらえた。それがコロッケの財源になることが多かった。月に1度ぐらいのことだったが懐かしく思い出される。
池田さんは100円のおしゃれな財布の思い出を書いているが、私の場合は露店で売っていた「拡大器」と「ほくろをとる薬」が無性に欲しかった。どちらも池田さんのように2週間近く耐えて貯えるという意志の強さがなかったので願望のまま終わった。今思うと「ほくろをとる薬」は怪しさ極まりない代物だが、当時はおじさんの口上と実演にその気にさせられていたのである。
確かに駄菓子屋、露店などを通して世の中を教えてもらっていたように思う。
中で、福岡県の池田さん(67歳)の「我慢覚え手にした財布」は共感すること大であった。
「子供の頃の小遣いは1日10円だった。母には「午前中5円、午後5円使いなさい」と言われた。10円でも結構使い道はあった。近所の駄菓子屋に行けば、より取り見取りの夢の世界。菓子パンや雑貨もあり、その中で、おしゃれな財布が目に留まった。100円だった。 高いの一言。1日10円を何回我慢すればいいのか。でもどうしても欲しい。2週間近くジッと耐えた。目標達成。100円の買い物は怖くて、父についてきてもらった。娘が小遣いをためていたことを父が伝えると、店の人に褒められたうえ、10円までもらった。 私の中では駄菓子とおしゃれ財布は分かちがたく結びついている。」
私の小学校時代も、1日10円が相場だった。駄菓子屋は小学校の前にある「東京堂」という店が一軒。単価が1円~5円の品物を前に思案するのが楽しかった。1日10円といっても不定期なので1円しかない日もあるし0円の時は友人のおこぼれを期待するなどそれなりに頭を使って生活していた。
駄菓子屋ではないが、当時の贅沢は肉屋の揚げたてコロッケであった。10円玉が手にある時「今日はコロッケを食べよう」と気分が高揚した。しかし、ここでまた思案が始まる。「牛虎」のコロッケは1個10円、「多良福」のコロッケは1個5円と2軒の肉屋で値段に格段の差があった。全部はたいて贅沢気分を味わうか、残り5円を駄菓子に使うかという選択であった。当時、床屋に行くと店のおじさんに終わると10円もらえた。それがコロッケの財源になることが多かった。月に1度ぐらいのことだったが懐かしく思い出される。
池田さんは100円のおしゃれな財布の思い出を書いているが、私の場合は露店で売っていた「拡大器」と「ほくろをとる薬」が無性に欲しかった。どちらも池田さんのように2週間近く耐えて貯えるという意志の強さがなかったので願望のまま終わった。今思うと「ほくろをとる薬」は怪しさ極まりない代物だが、当時はおじさんの口上と実演にその気にさせられていたのである。
確かに駄菓子屋、露店などを通して世の中を教えてもらっていたように思う。