素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

第4回大阪マラソン・制限時間(7時間)ギリギリでゴール!42.195kmに耐えられる足になったことが嬉しい。

2014年10月26日 | 日記
 ひょんなことから第1回大阪マラソンに応募し、運よく当選してから寝屋川公園の周回コース(4km)をメインにしたランニング記録をつけているので自分の脚力、持久力の変化はつかめている。昨年の8月末に左足の膝周りを故障してから長い距離を走るどころか歩くことさえできない日が続いた。寝屋川公園往復の10kmコースをやっと歩けるようになったのが今年の3月末、2時間2秒かかった。やはり7ヶ月のブランクは大きかった。6カ月余りで1時間5分30秒までにはなったが、コンスタントに1時間前後で走っていた頃の状態とはほど遠いものがあった。

 まだまだ左足への不安感は払拭出来ず、スピードアップや10kmよりも長い距離を走ることはなるべく控えるようにしていた。ポイント、ポイントでは20kmや30kmを試したが、持久力の衰えは記録を比較すれば歴然としていた。

 そこで今回の大阪マラソンはとにかく制限時間内にゴールすることを目標にした。スタートから1km7分~7分30秒ぐらいのペースで20kmぐらいまで粘り後は余力のあるうちにウォーク&ランで足がけいれんしないようにゴールまで行く。というプランをたてた。

 季節外れの夏日という暑さになったが、スタートから14kmまでの玉造筋、千日前通、御堂筋北行き、土佐堀通はビル陰が多くさほど苦にならなかったが14kmを過ぎた御堂筋の南行きに入ると真正面から☀を受けて、体に堪えてきた。加えて出発から2時間近く、お昼時で早朝蓄えたエネルギーも残り少なくなってきたので予定よりも4km早くウォーク&ランに切り替えた。

 給水は2km~3kmごとに設置されている給水所できっちり取ることができたが、給食は23km地点までない。この部分が前半の苦しかったことである。後半は制限時間との戦いとなった。

 関門所は、5.3km,10.5km,13.8km,20.0km,22.6km,26.5km,30.6km,34.2km,38.2km,41.6kmの計10地点である。制限時間を初めて意識し始めたのは34.2km地点の14時38分である。手前3kmほどの地点で制限時刻の予告標示板があり、今の自分のペースで計算するとあまりゆとりがないということになった。そこからは時計をストップウォッチから時刻表示に切り替えた。そこからはランを多めに入れていった。38.2km地点の15時14分をクリアした時これで関門は終わったと思った瞬間、係の人が「さあ関門はあと1つです。41km収容門を15時57分までに通過して下さい。ここまで来たら完走メダルをもらいましょう」とハンドマイクで、精神的にはこの時がきつかった。体力は温存してきたので走ることはできたが何かの拍子で痙攣に襲われる公算は大なので急ぎつつ慎重に歩を進めた。沿道では横たわって意識朦朧医師の手当てを受けている人や必死でストレッチをしている人、座り込んでいる人が多くいて、仲間に加わってはいけないと時計をにらみ計算をしながらの一歩一歩であった。

 最後の関門を抜けた後、最後は走ってゴールだといって走り始めた何人かの人が痙攣のため座り込んでいる姿を見かけたのでラスト220mのonly oneロードも歩いてゴールした。自分自身が測ったスタートからのタイムは6時間33分16秒だが、号砲からスタート地点まで約13分かかったのでそれをプラスすると6時間46分16秒。制限時間の7時間まで約14分。滑り込みセーフといったところ。とりあえず、42.195kmという距離に足が耐えることができたということがわかり満足している。今回の大阪マラソンは目標というより再出発点ととらえている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吟詠をYouTubeで楽しむ

2014年10月25日 | 日記
 昨日は、マラソン受付のほかに妻から互助組合への用事と息子からパンクした自転車を修理に持っていくことも頼まれていたので慌ただしい一日であった。幸い今日は二人とも出かけたので一人ゆっくりくつろぐことにした。

 漢詩にふれる日を続けてきたので、何となく吟詠を聴いてみたくなった。一軒とんだ隣のご主人がされているので時々家の中や裏山から聞こえてくる。

 こういう時はYouTubeである。本の中にあった漢詩の吟詠も聞くことができた。気に入った映像は須磨寺の写真をうまく取り入れた「青葉の笛」

青葉の笛~吟詠~


 吟詠を聴いていて、ふと小学校5年生の時の学芸会で「白虎隊」を踊ったことを思い出した。あれは確かに吟詠入りの歌謡曲だった。記憶はあいまいになっているが、1番の歌の後「西~鶴ヶ城を~のぞめば~砲煙~あがる~・・・」と入ったと思う。

 担任のH先生はプライベートな時は踊りのお師匠さんでもあったので練習は厳しかった。毎日毎日切腹していた。それと衣装は自分で用意するようにと急に言われて、母親が伝手をたよって剣道をしている人に借りに走ったこともあった。今思うと「なぜ?」である。

 隣のクラスは勧進帳だった。これがまた見事な出来栄えで、白虎隊はかすんでしまった。

 高校の時は、隣の皇学館大学から時々聞こえてきたとか大学では紛争の最中に一人芝生に立って朗々と吟じていた人がいたことなど連想ゲームのように浮かんでは消えていった。

 記憶の不思議さをあらためて感じてしまった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪マラソンの受付無事終了

2014年10月24日 | 日記
 今日と明日、11:00から19:30の間インテックス大阪で大阪マラソンの受付。早く済ませて明日はゆったり過ごすに限る。家からのルートはJRで北新地へ、地下鉄四つ橋線の西梅田から本町、中央線に乗り換え終点のコスモスクエアまで、そこから会場までは徒歩で約10分。

 コスモスクエア駅から道路へ出ると大阪府咲洲庁舎が目に入る。道路をはさんで隣のミズノの本社ビルがやけに小さく見える。
 受付後は高さ252m,360°のパノラマ展望台に立ち寄ることを決めている。軽度の高所恐怖症なのに地上高くから展望するのが好き。「阿保と煙は高い所へのぼる」とからかわれたこともある。

 インテックス大阪はにぎわっていた。受付会場を中心に、スポンサー企業のブースと大阪マラソンEXPO2014の出店がいっぱいでいささか疲れる。雰囲気にのまれるとお金がひらひらと飛んでいきそうになるので素早く脱出する。今年のTシャツは赤。シンプルなデザインで気に入っている。ゼッケンを手にしたらひとまずホッとする。
  駅に向かう列から離れて咲洲庁舎へ向かう。道1つ外れただけで静かな別世界となる。入っていいのかなと迷うほどである。
 1Fの受付で入場券(510円)を購入して専用のシースールエレベーターで52階まで直行し、そこから55階の展望台まではエスカレーターで行く。最後のエスカレーターは異様に長く空に吸い込まれていくような感覚になるようにつくられている。いい感じだが、地震がきて途中で停止したらちょっと怖いなと思った。
  

 エスカレーターを降りると正面下に、受付を終えたインテックス大阪の建物が見える。賑やかな人混みがうそみたいである。  目を上げると東側、生駒山と葛城山をバックにした中河内方面の市街地が広がる。時計と反対回りにデッキテラスを進む。北側には梅田方面のビル群が見える。
アップ 
さらに進むと海遊館、USJ方面になる。 舞洲と夢洲の向こうには遠く六甲山が見える。  海を臨む斜面を演出した、遊び心のあるテラス仕様のくつろぎ。眺望をあわただしく巡る、いままでの展望台とはひと味違います。とパンフレットにある通りである。西側に回るとポートアイランド、明石海峡大橋、淡路島方面となる。天気が良すぎて明石海峡大橋はけぶっていた。
 小さなドームから海上の2本の標識灯を結んだ延長上にある。3月中旬と10月上旬には明石海峡大橋の間に夕日が沈むので夕陽ウィークと呼んでいるそうだ。さらに南側へ回ると関西国際空港方面から葛城山、金剛山を背景に堺市市街地方面を見渡すことができる。
   ほぼ1周したところであべのハルカスがやはり目立つ。展望台で言えばライバルである。そちらにはまだ行ったことがないので比べようがないが、想像以上に咲洲の展望は良かった。
 今度は、あべのハルカスからの眺めを楽しもうと決めて、帰路に着いた。
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『幕末維新の漢詩~志士たちの人生を読む~』(林田愼之助著・筑摩選書)読み終わる

2014年10月23日 | 日記
 1日1人と決めて、20人の志士の漢詩とともにその人生を林田さんに案内してもらった。幕末から維新にかけて激動する時代と政治の状況に、積極的に関わり劇的な人生を送った20人である。元々は『歴史読本』での連載に登場した15人に、新たに5人加筆されているので安政の大獄、桜田門外の変あたりの記述が繰り返して書かれている。ただ、所属する藩や生まれ年の違いでそれぞれへの光の当たり方が違うので1つの事件を多角的に見ることができて良かった。

 この本のおかげで以前掘り出し物のように買い求めた『江戸300藩の意外な「その後」』(PHP研究所)に書かれていたエピソードのいくつかがより深められた。

 たとえば、「これも家臣の乗っ取り?藩主不在で行なった必死の復興活動」とタイトルをつけられた【松山藩】の家老山田方谷のことである。備中松山藩主の板倉勝清は大政奉還後、鳥羽伏見の役が起こると、将軍徳川慶喜とともに大坂から江戸に逃げ帰った。西郷隆盛率いる東征軍が江戸に迫ると、勝清は榎本武揚らとともに函館に渡り、五稜郭に籠もって維新政府軍に抵抗した。

 そのため、新政府軍から錦の御旗を渡された岡山藩が松山藩征討を命じられ、松山藩は朝敵になってしまった。この苦境を乗り切って、松山藩を戦火に見舞わせることなく安堵させたのが、その時64歳だった山田方谷である。

 林田さんは「山田方谷は、幕末維新に活躍したいわゆる志士ではない。備中松山藩、現在の岡山県高梁市一帯を治めていた佐幕派の譜代小藩に仕えて、その激動期を事なく守り抜いた儒者にして家老であった。その強堅な意志と誠実な識見は一貫して志士的であった」と方谷の漢詩とともに、その人生を紹介している。現存する12天守の1つとして、今人気のある備中松山城のことが合わされ、感銘を受けた。

 そのような人物に目配りしていることもこの本の魅力である。

 
 それでいうともう一人、『江戸300藩の意外な「その後」』で「戦いはまだ終わっていない!維新後も続いた一藩士の挑戦」とタイトルをつけられた【米沢藩】の雲井龍雄もそうである。林田さんのおかげでぐっと人物像が深められた。方谷とは真逆の生き方をしたが、そこには相通じるものを感じた。

 他にも、月性という魅力的な人物を知ることができたし、ラストの西郷隆盛、勝海舟では今まで知らなかった両者の関係について二人の漢詩を軸に見事に描き出している。

 『江戸300藩の意外な「その後」』と『幕末維新の漢詩~志士たちの人生を読む~』(林田愼之助著・筑摩選書)はセットでこれからも折にふれ読んでいくであろう。

 
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道徳「特別の教科に」中教審答申~18年度にも検定教科書導入~

2014年10月22日 | 日記
 今日の朝刊一面は『泉南石綿・国が和解方針』が紙面の大半を占めていたが左端の 道徳「特別の教科に」中教審答申~18年度にも検定教科書導入~がやはり目に入る。

 道徳教育の難しさについては何度かふれてきた。その難しさをふまえた上で論議を重ねていくのならいいが、現状はそうではないと思うのでいつも疑問符がついてしまう。21日に答申を受け取った下村博文・文部科学相は「道徳教育は、人が人として生きるのに必要な規範意識や思いやりの心など豊かな人間性を育むものだ」と話したと新聞にあったが。このような抽象的な表現のレベルでは「そうだな」と思っても「じゃ具体的にはどうなんだ」となると個々人によって『人が人として生きるのに必要な規範意識』は異なってくる。価値観に大きく関わるものほどそうなる。

 教科には①教科書②専門の免許を持つ教員➂数値による評価の3つの要素があるのが一般的である。これから①の教科書づくりを各出版社は始めることになるが、どのようなものができるのか興味はある。

 ②、➂は見送られるみたいで、それゆえに「特別の教科」と呼んでいるみたいだが、大切な部分を素通りしていていいのかなと思う。

 小学校への英語の導入でも免許の部分の整備が不十分なまま、担任がという見切り発車的な部分があった。教員養成のシステムをきちっとすべきだと考える。教員免許が、場合によって鉄のような重い存在となったりヘリウムガスのように軽い存在となるのはとても変なことだと思う。

 記述式の評価は難しいだろうな。。今まで接してきたたくさんの生徒を頭に思い浮かべながら、どんな評価を書くだろうかと考えてみたが、「不可能」という単語しか出て来ない。

 本来、教育という行為は教える側の価値観の押しつけを内包する。それに対して教えられる側は共感したり、反感しつつ自分自身の価値観を形成していくものだと思う。私塾のように教える側が個人の場合は問題が出て来ないが、学校のように組織として多くの教師が関わるようになると個人の価値観のぶつかり合いが生じる。これを調整して学校全体として一定の調和を保つ必要はある。

 そのためには、個人としても、集団としても、今押しつけている価値観はどうなのだという検証を常に行なっていくことが必要である。これはとってもやっかいなことだが避けて通れないものだと思う。

 それをすっ飛ばして国レベルで価値観の押しつけをしようとすると大きな問題が起こってしまう。その端的な例が、戦前と戦後における大きな価値観の転換であった。

 ある日を境に同じ教師が、生徒に向かって正反対のことを押しつけるということがなされた。私個人としてはそういうことはしたくないというのがずっと根底にあり続けた。先日のNHKスペシャルの中でもそのことをあらためて思う部分がいくつもあったが、広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長の銅像撤去にいたる映像と映画監督の伊丹万作の言葉は強く残った。
  

   

 歴史の事実からもっと学びたいものだ。「生き方」の教育は「ほどほど」が良い。

  



 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする