続・知青の丘

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俳句短歌誌『We』第18号「前号俳句ふたり合評」(2024年9月1日発行)より

2024-10-21 12:28:43 | 俳句
 <<前号俳句 ふたり合評>> 
 
原爆ドームは人類の眼球だ  豊里 友行
阪野基道 原爆ドームは近代戦争の最終イメージを象徴し、ドームが非核への監視の目を持つとの意。しかし未だに続く国家、民族、宗教間の近代戦。地域紛争もテロも国家間戦争も同じ暴力であり、悪化の一途をたどっている。核の世を止揚するのはこの人類しかないのだが…。
斎藤秀雄 《人類の眼球》は、人類みずからを見ている。ひたすら、じっと見ている。見られている側はさほど気にしている様子もない。やがて《眼球》は乾ききり、腐食し、形あるものの定めとして、灰燼に帰すだろう。それでもその眼差しだけは、ずっと残り続けることだろう。

宝石の深き疲れや水の秋  加能 雅臣      
竹岡一郎 宝石には光によって退色するものがある。また、人を癒す事で己が色を失ってゆく宝石もある。地中に在れば恒久に若々しい色を保つであろう宝石は、陽の下に曝され、人に磨かれ、疲れが深まり、遂には水の如く無色になる。水の秋とは宝石の無言の疲弊でもあろう。
松永みよこ 宝石は何千年もの孤独の中、その内側に疲 れをためているのか。それとも人間にあれこれいじられた外部からの疲れだろうか。宝石の「深き疲れ」に気づいた点に感心した。鉱物と対照的な「水の秋」という季語もうつろいを感じさせ、壮大なスケールを有する句だ。

乳房に成れと軍艦を鯨撫づ       竹岡 一郎     
男波弘志 現在の世界情勢を見渡せばこのような気持ちになることも肯えるのだが、むしろ軍艦と鯨が屹立し合っている現実を突きつつけた方が一行詩としての力は増すだろう。例えば、「軍艦と鯨の黒と峙てる」
加能雅臣 「軍艦」に対して「乳房に成れ」と言うからには軍人式の命令口調がふさわしい。しかし、この「軍艦」は沈没船ではないか。従って「乳房になあれ、乳房になあれ」と「鯨」の低い声で「撫」でられながら、大艦巨砲主義の名残は今、魚の集合住宅となっている。

惨劇が青春とはね冬紅葉   竹本 仰       
早舩煙雨 とはね、と言う時は、惨劇が明確に認識された時であり、それが自己への言及であれば、嗤いによる逃避行為か。紅葉の色は惨劇的にも見える、惨劇と冬紅葉は別物と読んだ。いずれにせよ、冬でも紅葉が赤いのは、本当はまだ何かを諦めたくないからなのかもしれない。
しまもと莱浮 社会性俳句ではないとしても、ウクライナやガザ地区が頭をよぎる。日本とて数十年前は戦争の只中にあった。【冬紅葉】は血の色を連想させ、【とはね】を「と刎ね」にも読ませる。そして【青春】の青が、なおさら血の色を鮮やかにする。

老鶯の声バターの溶け具合  林 よしこ     
早舩煙雨 夏の鶯の聲と、バターの柔らかさが共鳴している様が、避暑地のホテルの朝食のように心地よく感じる。ちょうどよいものごと、としての二物の共演として描かれていると感じたが、加えて句のリズムもちょうど柔らかく溶けていた。
小田桐妙女 現実はさておき、夏になって声に張りのなくなった老鶯と、バターの溶け具合がなんともマッチしている。ダラーと音が溶けてゆく感じ。実際には、春よりも鳴き声は達者で高らかであるという。時々、春・夏と、鶯の鳴き声を聞くが、まだまだ違いが分からない。

蝸牛一秒のなか穴だらけ        早舩 煙雨      
加能雅臣 時間とは線形的に流れているようにイメージされるが、実は「穴だらけ」で、あちこちから漏れ出しているらしい。「蝸牛」がゆっくり動くのは「穴だらけ」の時間を忠実に、もしくはそれらを修復しながら生きているからなのか。変幻する「一秒」の色彩。
斎藤秀雄 《蝸牛》は《一秒》のあいだに二ミリも進めない。「遅さ」の代表。彼らは時間をどのように感じているのだろう。ここでは移動する地面が《穴だらけ》なのではない。研ぎ澄まされた精神に対して、《一秒》という時間が《穴だらけ》なのだ。時間の空間化が詩的。

黒鳥と黒蝶 死界を避けながら  阪野 基道   
早舩煙雨 何かを避けたい時、それを見たいとも思う。不謹慎だが、テレビのニュースも、近所の火事でもそうだろう。黒鳥と黒蝶になれば、死界を覗けるのだろうか。黒鳥と黒蝶は不吉の象徴ではなく、死界よりも辛うじて現世側に存在するものとして、われわれの象徴なのだろうか。
斎藤秀雄 もっとも《死界》に近しいように感ぜられる《黒鳥と黒蝶》。しかし「近い」ということは「離れている」ということだ。彼らはずっと、今も《避け》ることができている。彼らの舞うあたりに《死界》はある。今日も彼らだけは飲み込まれることなく舞っている。

すれ違ふ男の薄さ文化の日  松永 みよこ    
竹岡一郎 その男の魂を観た訳でもあるまい。すれ違う男に対する表面的な印象だろう。薄いのは女だって良い筈だが、「文化の日」と限定する処に、男でなければならない訳があるか。文化から秩序や正義なる概念が派生する事を考えると、男性が好みそうな概念に薄さを見たか。
小田桐妙女 薄さは肉体?精神?確かに美容に気を遣う男性も多くなってきた。体の線の細い男性も多くなってきたように思う。脱毛も当たり前のようになっている。肉体は、それぞれの自由である。しかし、精神は太くあって欲しい、と思う私。互いの、文化の日である。

影つひに歩くを覚え花すすき   森 さかえ    
阪野基道 とうとう俺の影も自立して歩くようになったか。しかもその影は本体である俺の制御を受けつけない。鏡の世界へも自由に行き来する影たちの世界。お好きなように、と伝えて影とは別れた。夕日に透かされた花芒は美しい。恋でもすれば俺似の影がまた生まれてくるさ。
竹岡一郎 「つひに」から、影が自我を持ち、自身から独立して歩くと読む。シャミッソーやアンデルセンが影に関する奇譚を書いているが、昔から影は分身や魂に親和性を持つ。花芒は揺れ動き、景色の境界を曖昧にするような印象がある。影と自分の不可分性も曖昧にするか。

鬼あざみ蝶は形を選ばない  森  誠       
男波弘志 蝶が花の色や形を識別して、自分が好きな蜜を出す花へ飛来していることは、むしろ自明のことだろう。ある人間の思いを擬人化したいのであれば、蝶自身に仮託すべきだろう。例えば「蝶は姿を選ばない」
斎藤秀雄 生物を含む有限のものを「形あるもの」と呼ぶ。しかし《蝶》は有限性の彼方のものなのだろう。《蝶》は遍在する。あるときは春の野薊に、夏の夏薊に、さらに秋の鬼薊にもなる。やがて菜の花を経由して、春に再び《蝶》という《形》を借りることにもなるのだろう。

遠花火父の匂いの缶ピース  内野 多恵子    
林よしこ 缶ピースは、ちょっと高級な甘みのある煙草らしい。父の匂い、とあるから故人なのだろう。煙草を吹かしながら遠花火の方を楽しまれた方。作者は必ずしもその匂いが好きな訳ではないが今は只懐かしい。缶に残った一本を父に届けてあげたい。せめて今年の花火の夜にでも。
早舩煙雨 多重露光のよう。この遠花火は缶ピースと同時に見たものというよりは、缶ピースの奥に感じた父の匂いの、そのまた奥にある花火(父との思い出?)という、一直線上に並んだ記憶の最遠の背景だろうか。それを見る主人公も、子供や大人などの複数の形で居るように感じる。

玉砂利の音成す宇宙白い秋  江良 修   
阪野基道 神社仏閣といえば玉砂利の美しい世界。砂利の微妙な音に癒されることも。私的には暑い盛りに蝉の鳴く神社やお寺でぼんやり過ごすことが好みだが、この句の季語は白い秋。静謐な趣だ。何ものかと交信することができそうな雰囲気であり、人の死が視える場所だ。 
松永みよこ アンミカさんの「白は二百色」という言葉が好きだが、この玉砂利は絶対に白くあってほしいし、その純白さ具合は、意外と他の人の思うところと大きく違わない気がする。もし心の中に、こんな玉砂利を敷き詰めた庭を持てたなら、それ以上の幸福は存在しない。

さくらさくら噤む少女のうなじから  小田 桐妙女
林よしこ さくらさくらのリフレインは花片の散るさまを想像させる。物言わぬ少女は、本当に言葉が出せない人かもしれない。花片がひとつずつ言葉を教えている様にも思える。華奢な少女の姿と共に切なくも春の優しい美しさのある句。うなじから少女のこれからが始まる。
しまもと莱浮 景は桜の下の着物の少女だろうか、俯き加減の彼女に代わって、舞い落ちた花びらが饒舌に語っているようでもある。思えば、【うなじ】はクチの真裏に位置しているではないか。表立って言えないことを、ひそやかに顕しているのかもしれない。咲く等咲く等と。

あじさいの全ての色を諦める  男波 弘志    
阪野基道 あじさいは種類が多い。花の形もさまざまだ。花言葉は移り気、七変化とか。浮気っぽい花のよう。全ての色を諦めるとは、色道を断ち切る、ということか。「人類残照」という魅力的な題を持つこの句の本意は、無為無用の自然を見つめる、というところにありそうだ。
松永みよこ あじさいがあれだけたくさんの色をしているのは「全ての色を諦め」たゆえなのだろうか。なんだか不思議で魅力的かつ暴力的な仮説に、作者の個性の輝きを思った。「諦め」を否定的に捉えていた自分の先入観が恥ずかしくて悔しくて、地団太を踏んでいる。

薔薇百花昨日の月をふと思う  柏原 喜久恵    
林よしこ バラにも沢山の種類がある。世界中を探せば本当に百種以上あるかもしれない。バラは華やかで美しい花の代名詞のようなもの。「百万本のバラ」、一度貰ってみたいものだ。でも昨夜の綺麗な月をふと思い出した。慎ましく静けさのある月は正に大人の趣がある。
加能雅臣 〈百花繚乱〉と言うような情動に響く「百花」とは違い、どちらかと言うと博物学的な〈百科〉に近い印象を受ける。品種としてカテゴライズされてしまった「薔薇」には、その美と引き換えに失われ、決して思い起こされることのない荒野の記憶があるのだろう。

匚なくて口にしまふと海朧  斎藤 秀雄      
阪野基道 辞書に匚とは竹などで編んだはこ、とある。匚がないから口にしまうという。だが何を。「口中へ金貨を投ずるものあり」とは西脇順三郎の詩句だが、ここでは金銀財宝ではなく、漠として誰にでも存在する老病死なのだろう。口にしまえば体内深くへ、すべては朧に。
竹岡一郎 自在に動くだろう海朧を捉えられると仮定して、漢字を見れば、匚と口の違いは縦に蓋があるかどうかだ。匚ならば右の一方が開いていたのに、匚が無かったばかりに、口という閉ざされた空間にしまわれてしまう。海朧の自由さに比して、口とは何と引き籠るものか。

地の秘密抱きたるまま彼岸花  島松 岳 
小田桐妙女 地の秘密とはどんな秘密だろうか?地球のこれからの未来を彼岸花は知っている。だからこそ、情熱的な真っ赤な色を咲かせる。きっと秘密は誰にも言わない。なぜなら、彼岸花はあの世から来ているから。あの世の者たちは、秘密を決して漏らさないだろう。
しまもと莱浮 【地】を土地と解釈すると【彼岸花】に近く重畳的だと感じたので、「もともとの姿」と読んでみた。「親殺し」「地獄花」などと散々に呼ばれながら、ひたすらに田畑を守り、墓を護り、飢餓を救ってきたのは、もともとは天上に咲く花だったからなのかもしれない。

京男ばかりに降ってくるメロディ  しまもと莱浮 
加能雅臣 「東男と京女」とは良きものの謂いであり「京男」は分が悪い。この「メロディ」も愉快なものばかりではなさそうだ。などと思わせておいて実はそうではない、と言うところが「京」の「京」たる所以かもしれず、「京男」ならぬ小生、いかんともし難いのである。
松永みよこ 都の繁栄と衰退を目の当たりにした京男の優美さや気位の高さ、ずるさなどなどは私には少し遠い存在だ。だがそれだけにいくらでも想像が可能だともいえる。京男だけが感受できるメロディのワンフレーズでも知れたら、少し彼の思いに寄り添えるだろうか。

耳ひらく伸びをするとき雪女郎  加藤 知子 
男波弘志 雪女郎が耳をひらくとは、何と豊満な表現だろう。しかしそこに在る凄絶さが伸びをする、で伝わるだろうか、もっとはっきり造形できないだろうか、これは一例に過ぎないが、「耳ひらく爪立つときの雪女郎」
小田桐妙女 ねちっこくない雪女郎の句。雪国生れ・雪国育ちの自分が作ると、どうにも情念くさくなる。耳をひらき、伸びするなんて、とてもリラックスしているではないか。そういう時こそ素がでるのではないか?こちらの雪女郎のほうが、よっぽど手強いような気がする。
          ***
俳句の読みである評や評論もその人固有のクリエイティブな作品だと思うので
独自性があるほうが面白いですね~

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暑くて長かった夏がやっと終わった気がします。
半分死んでました!

ゲンノショウコが今盛り

10月18日大阪日帰り新幹線往復し、
ずっと気になっていた仕事が終わった感じです。
狭庭に咲く嫁菜
この色は縹色かな
好きな色です。


青いポスト初めて見ました!






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