玄徳道

道を語るブログです。

真の稲荷道

2022-01-11 19:05:00 | 神社道
稲荷とは、飯成りの神である。衣食住を司り、ス神が人間を思い遣り、人の為の神であられます。。。その神を宇迦之御魂神とよび、本体は、豊受大神とされる。




昔は、迷信が酷く、幽界の穢れが人の欲望に呼応し、狐蛇狸と化し、多くの人を騙し瞞し、欺した。

明治近年より、文明開化の流れにより、人から迷信が消えつつありました。

現代でも、その多くの盲信は消えつつあり、同時に狐狸に騙される人は皆無となりましたが。

されど、人は、常に自己や家族、己の一族のみを愛し、心配する。

そこに占う商売が、うまれるのです。

ある知人が、コロナ禍になる前に、インドの有名な星占術師者による占いで、仕事がはかどり、運気が上がる年と占って貰った人が、コロナ禍により、その年は仕事が出来なったなどと聞いた事があります。

占いとは、未来予測では、無いのです。

占いに執着する人間には親い人からのアドバイスよりも、占いして、金を払った人を信じるなり。

私は占いを、人への優しやであると捉えているのと、人への依存症を増し、自分自神を無くす、悪魔であるとも捉えております。

まあ、悪魔は、来たりて、魂を籠絡する。

善神は、人間独自の努力により、魂の発露を求める。


文明が発達し、迷信が無くなりつつある中でも、人間は、自然なる真神を観る事なく、自分が信じる宗教の神や占いを信じている有様ですね。。。まして、宗教教祖や霊能力者を神の如く見られる方もおられます。

近年より、伏見稲荷山には、多くの社台が存在する。

私などからしたら、伏見稲荷神社本殿が有れば善いと考えますが、実に人の欲望の数だけ、やしろは、存在します。

稲荷山自体にも多くの社台が存在しますが、近年の台風により、半壊しておると考えます。

人はいずれ死ぬ。参らなくなった、社におる、人の思念と呼応した霊は、どうなるのか。我が存在を明らかにする為に、祟るのであります。

祟るも祟らぬも、人の思念と行動次第でもあります。

人への優しさの顕現神である、飯成りの神、宇迦之御魂神は、祟らないのです。

人の欲望と感合した存在が祟るのであります。。。

人の衣食住を司る神が、狐霊と同様に扱われ、稲荷には、お願いしてはならない、お供をあげなくなったら、祟るとか、都合勝手の憶測がはびこっております。

私的には、如何なる神にもお願いはしませんが。

それと神は人の願望を叶える存在では無いと考えております。

では神社とは何の為に存在するのか。
その答えは、人それぞれであると考えますが、私は神に親しむ為にあると考えます。

出口王仁三郎聖師は、真の信仰とは神さまと恋愛する事であると、仰っておられたと思います。

神社の斎庭で神と無言の対話する、此処に神と交われる聖地は、ありがたいことであると考えます。


何度も書いておりますが、豊受大神、宇迦之御魂の神の眷族の狐霊は、神ではありません。ス神の意向の補助をしておる存在であります。

故に狐霊も祟りません。ただ、人間の欲望と悪心に染まり、思凝霊となったら、障りとなるだけの話しであります。

故に、一念三千。

己を愛する事は、よからぬ事のはじめとなるのでございます。




世の中の迷信者は多くして、狐をもって稲荷となし、誠の大神をさげしむ。愚かのいたりというべし。

稲荷の神というわけは、飯(いい)に成る神ということにて、つまり、食べ物の神と言う意なり。




宇迦逎御魂の命は、五穀や、養蚕の守り神、人の生命を繋ぐ為に、五穀をつくる事を教えたまいし神なり。(出口王仁三郎聖師、道の栞より。)










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