人が道を修めるのには、自ら専一にして、集中することが大切である。
一に集中して、他のものによって、惑わされ無い者は、その内候と外功は、自ずから、深遠となって、その運用も自由自在となる。
何を専と言うのであろうか。
目に専一とするところがあり、これに集中すれば、神は渙(ち)ることなく、耳に専一とすることろがあり、これに集中すれば、その精は漏れる事が無く、口に専一とするところがあり、これに、集中すれば、その炁は必ず凝ることになり、鼻に専一とするところあり、これに集中すれば、その霊は必ず聚(あつ)まるのである。
そこで専一にして、これに集中するとは、どう言う事であろうか。
それは、みな、後天的な意識が無く、また、有形の色相も無いところから、言を尋ね、意を究めるのである。
先天の功候は、本来静定にして、安定しており、それが長期にわたって、固まってくれば、その功は純粋となり、その修は専一となり、その心もまた、内に主催者が確立するのであり、そこで、静定安定の状態から運用面に入るだけである。
この運用のはたらきは、静定の極地より、出て来たものである。
しかる後に、至善の地(心の本来)に止まることが、できるのである。
すべての運行は、循環して、またもとの、始めに復ってくる。
それには、その軌道から、はずれることは無く、これを真の専一と言うのである。
もし、後天的の人欲の妄念や、幻相の意識がはたらいているにも関わらず、これにこじつけて、これを正当な功候とみなせば、自らを欺き、人を欺くことになり、どうしてそんな事が許されようか。
大道には、所謂(いわゆる)、先天と後天の区別がなく、それを先天と後天に分けるのは、先天の天理と、後天の人欲が、修道の主体となるからである。
また、修道の面から静を天理といい、動を人欲という。
また、健にして、自ら強めるものを天理といい、自ら惑い、惰(おこた)る者を、人欲というのである。
天とは各人が生まれ、各々(めいめい)に、賦与されているものであり、そこで、天がある以上、そこには、必ずその理がある。
この、理のあるところの、その本性はかならず清く、一貫しているのである。
いわゆる、人とは、後天的な、名称でこれを人と称する以上、その霊は、万物の中で最も優れている、そこで、その人心を正して万物の霊長としての本性を回復して、はじめて、先天に返ることが出来るのである。
人は天と地の中間にいて、この中庸の道を守り、その修養の功候は、動を欲するか、静を欲するか、いずれもみな、これを決するのは、心である。
その心の動きが正しければ天理に合しないものは無く、もし、心の動きが不正であれば、妄動して、人欲となる。
静にして、正しいものは、必ず専一にして、その運用は自由自在である。
もし、静にして、これを正しく守る事ができなければ、心には主体性が無く、枯木や、燃え尽きた灰のようになって、たとえ静であっても、そこには、私心により、沈滞してはたらきがなくなり、そこには、、必ず人欲が介在しているのである。
そこで、いわゆる、修めるには、いささかも、人欲や雑念が、介在して、自己の本来の性霊を惑わしては、ならないのである。
いわゆる、坐をするにも、堅固でない者には、竅(人体の神秘)を語ってはならない。
坐して恒(不変)で無い者には、専一継続を語ってはならない。
坐して正しく無い者には、氣の運行を、語ってはならない。
坐して、心が平坦で無い者には、氣の貫通を語ってはならない。
坐して、恬滴で無い者には、氣の昇降を語ってはならない。
坐して、安寧(やすらか)で無い者には、守る事を語ってはならない。
このように、坐の工夫は、難しいことは、真に不可思議なものである。
しかし、また、坐の易しい面は、坐がその正しい軌道によって動けば、その氣は、自ずから運(めぐ)るのである。
坐をして、心が定めるようになれば、河車(丹田、チャクラ)が、自ら通じるのであり、坐をして、無心無為となれば、心神は、外に馳せることなく、坐して、執われることが無くして、任脈と督脈が自ずから、通じて、上、中、下の三丹田の純陽は、自ずから円明となり、その恍惚の間に自ずから、明心見性して、真の主宰を体得することが出来るのである。
坐の易しいことは、実にこのようなものではなかろうか。
そこで結論としては、坐の易しくもなければ、難しくもない。
ただ、心が光明正大にして、自ずから定まり、人欲のために惑わされる事が無ければ.坐の工夫は自ずから進んで自由自在となるのである。
坐に志す者は、自ら悟るのである。