実とは、虚に対して言い、幻に対して言い、また、因(原因)に対して、果(結果)を言うのである。
全ての人が生まれるには、必ず、その因があり、上は聖人から、下は愚者まで、皆、その自(よ)って来る來源や、因とするところがある。
修道の人は、その因に順(したが)い、その果に循(したが)うべきであり、人の身分の高いことを羨んではならず、また、己の身分の卑いことを嘆いてはならない。
これが、真実なる実を守るところの一つである。
また、虚に対して、実と言うのは、たとえば、現在富貴な身分にいれば、その富貴は実であり、それに反し、貧賤は虚となり、その身分が貧賤にいれば、その貧賤が実であり、それに反し、貧賤は虚となるのである。
これがいわゆる、「位に素して、その他を願わず。」ということであり、修道を歩む者は、これに勤めねばければ、ならない。
これ、また、実を護るところの道である。
また、幻に対して、実と言うのは、前に述べた富貴や貧賤そのものが、みな幻影であり、たとえば、この富貴を得ても、喜ぶに足りず、また、これを失っても憂うるに、足りないのである。(それらは、すべて、一時的な幻影であるからである。)(貧しき者は幸いである、何故なら天国は彼らのものであるから。)
修道の人は、後天的(物質世界)の一時の幻影に惑わさられることなく、先天(実相世界)の永遠の真実を守り定めるべきである。
真の実とは、いかなるものであろうか。
それは、先天の霊炁(宇宙創造の無形の炁氣気)だけである。
先天の真の実は、何を以てこれを修めるのであろうか。
それは、吾が丹田を守ることに在るだけである。
丹田を守るとは、坐に於ける、守実の初歩の工夫である。
(鬼雷注 先天坐は、上中下の丹田に着相(執着)せず、任運自然に座るだげである。されど、果として、実を自然に備わせる。故に、無為に実を守る事となるのでございます。)