玄徳道

道を語るブログです。

孚聖訓、悪道。

2023-07-19 19:41:00 | 道院
悪とは、何であろうか。

我々の日常における想念の中に於いて、不正なる一念邪道に引き込まれるのである。

人として生まれた以上は、生まれると同時に悪(人心の欲望)も合わせ持って来たのである。

この悪の一字を具体的に述べると、人というものは、美(よ)いものを見れば、そこに惹かれて、そこで悪(欲心)が生じ、財貨というものを、手にする事ができると思えば、そこに悪(欲心)が働き、大きな勢力や高貴な地位を見れば、大いに繁栄することが出来るので、また、そこに悪(欲心)が芽生えるのである。

すべて、自分の無いところのものを、もし、これを手にすることが出来ると思えば、なんとかして、これを手に入れようとするのである。

このように、すべて、自分に無いところの、ものを手に入れようとする、欲心こそが、念々に人を邪道に引き入れて、悪業を生じる本となるのである。

悪を積み重ねて、息(や)むことがなければ、悪の濁流に押し流されて、源(もと)に帰る事を忘れ、そこから、種々の因(悪因)を生じ、それによって、種々の果(悪果)を招き、その結果、地獄鬼道(夜叉、羅刹、餓鬼等のいるところ)に淪(おちい)り、千万年にわたって、その源(もと)に回ることは、難しいのである。

そもそも、その初めの原因は何処にあるのかと言う事を突き詰めてみれば、それは、初一念の誤りによるのである。

そこで、修道の人は、この一念の懼るべきことを自覚すれば、初めて念が生じた時の、初一念のきざしを、審(つまび)らかにし、もし、それが善の一念であれば、これを押し広めて無窮(無限)にその働きを拡大すべきである。

もし、その初一念が不善であれば、その根株を取り除き、その枝葉を取り去って、その痕跡を止めず、再びこれが芽生えることのないように、するのである。

これが、「論語」でいうところの、「顔子能(よ)く過ちを弐(ふた)たびせず」、「三月(久しく)仁に違わない」ということである。


また、人の一念というものは聖賢となるのも、愚かしき者となるのも、すべては、皆、この一念にかかっているのである。

本来、善であるべき本性を昧(くら)まして、悪業を積み重ねる事は、明哲な者(賢人)がなるべき事ではない。

これが、悪を戒めるべき所以である。

悪業というものは、身の三つ(殺生、偸盗、邪淫)、口の四つ(妄語、両舌、悪口、綺語)、意の三つ(貪欲、瞋恚、邪見)で、これを十悪と謂い、これに相反すれば、十善となり、すべて、仏教の経典で、述べられている通りである。

また、人が悪に流され易いのは、その習わしによるのである。

しかし諸法は、無相(相がない)であり、悪もまた、無相である。

そこで、既に心より、生じた以上は、亦、心によって滅することを知らなければ、ならないのである。

もし、能く潛(ひそ)かに心懺悔して、外功(外に為した悪い行い)を以て、これを反省して、赦しを求(こ)い願い、内功をもって、未成(未だ生じてこない)の悪を阻止すれば、吾が本性は、本来清浄光明なのである。

そうなれば、諸天神仏が自然に感応され、たとえ、十悪の大罪悪を犯した人といえども、許されないことは、無いのである。

ましてや、一念の不正や誤りにおいても、なおさらのことで、言うまでも無い事である。

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