後天の三宝とは、精気神であり、常に後天の三宝を宝とする事が出来れば、先天では自ずから、能(よ)く充実し、運化して、自然に錬(ね)られ、自然に成就する。
しかし、後天の三宝を如何にして、これを宝とするか。
多くの人が、これを宝とする方法を知らず、貪欲や不正な心を以って、その好む所、楽しむ所において、後天の三は宝を消耗していながら、それを自覚していない者が大半である。
吾が道院の修方は、先天の坐法に力を尽くしているが、あくまでも自然を以って主と為すので、人々の体質や気息には、それぞれの違いがあり、自分が正坐(先天坐)している時、こうすれば快適の境地になるといっても、必ずしもそうはいかないのである。
そこで、問題は、自分で悟ることである。
又、自ら悟る事の出来ない者は如何にすべきであろうか。
一誠不ニで変わらず工夫を用いることである。
長期に渡れば、突然に貫通するものがあり、有意無意の間に突然霊感によって、明らかになるものもいる。又、坐功の時に於いて、一たび感じて明らかになるものもいる。
又、心が空で無念の候(兆し)において、突然、機に通じる事もある。
最も大切なことは、驚かず、喜ばず、驕らず、誇らず、黙を以って貫通すれば、失うことは事は無い。
もし、意識的にこれを求めれば、体得する事は出来ないのである。
更に、大切なことは、坐らない時に於いて、心を空にして、念を起こさず、事が来れば、これに順応し、事が去れば、跡を留めないのである。
もしも、この念が不正であれば、直ちにこれを一掃し、とりわけ、喜怒哀楽、貪り 怒り煩悩、愛欲が一たび萌せば、これを自覚し一たび覚って、これを化するのである。
また、一たび妄念が起これば、これを消滅するのである。
大学の道は、その明徳を明らかにして、至善に止まるに在り、意念を誠にし、心を正し、身を修め、家を整えるので、真霊はこれによって培養され、清真の一を体得することが出来る。
もし、一日に何度も坐った(瞑想)としても、坐が終われば、それですべて、済んだものとして、事足れりとして、一切の心を存し、修め、本性を養う事を知らず、日常の言行や人倫の道に於いても、意に介せず、不敬、不誠であれば、心が不安で落ち着かず、これによって先天の坐法の上乗の効果を得ようとしても、それは、木によりて、魚を求める様に、不可能な事である。
(鬼雷述べる。世の中の瞑想者は、社会生活よりも、瞑想生活に重きを置き、社会不適合者となり、生活保護を受けている方も存在しております。されど、我々坐を為す瞑想道を歩む者は、社会生活における、生成化育の働き、学びが、神業の主体であり、瞑想はそれを助けとする、幇助の道であります。人から知られようもない、潜行なる修行なのであります。如何に素晴らしい瞑想を成しても、君の行いに、仁義礼智信が無ければ、それは、マスターベイションの自己満足の瞑想であり、道ですら無いのです。
我々瞑想道を歩む者は、瞑想した、後の行動が大切であり、そこに慈愛と社会活動が無ければ、それは、坐道ではないのであります。)