精は霊根を養い、気は神を養う。
この真のほかに、更に真は無いのである。
今の世に処する上で、古(いにしえ)の道を求めるのは、多くの人がこれを迂遠と見なして笑っているし、誰もそれを為そうとしないからである。
しかし、今の世に処して、修養を知らずに、非業非数の悲惨な禍に倒れる者は非常に多いのである。
何を非劫非数と言うのであろうか。
そもそも、数(運命)が定まるのは、人に由る。
人によって定まる以上、そこに数があり、その数がある以上、必ずその劫に応じる。
これが劫数の一定なるものである。
それは、善根の大きな者はこれを免れる事が出来、陰徳を積んでいる者も、知らず知らずの内に劫が無くなる。
これは、陰徳によって化されるのであり、これらは皆、非劫非数の範囲には、入らないのである。
本来、この劫がないのに、これにかかり、本来、この数が無いのに、これに応じ、本来、劫数が無いのにどうして、かかるのであろうか。
それは、後天の物欲や魔の為に惑わされて、いながら、自ら覚らず、それを当然であると見なしているからである。
たとえ、精気神を以って後天の三宝となし、人身に賦与されても、そこには限界がある。
それは、事業の得失によってこれを消耗し、思慮や恐れを以って、これを損ない、飲食や気候の変化によって、これを乱し、喜怒哀楽を節制しない事によって、これを損ない、本来の精気神の三宝は、これらの消耗によって、疾病を招く事になるのである。
たとえ、疾病が生じても、依然として覚らず、更に言うには、自分は道を修める事について、関心はあるが、仕事や環境によって、やむなく、それが出来ないので、自分としても、如何ともし難いのであると。
この様な現象は、一時の迷いによって、霊が奪われ、主宰者が、そのいるところを失って、遂には死亡するに至るのである。
或いは、一時の憤りや、境遇の困難によって、怨みつらみが群がり生じ、自らその生を損なっている。
或いは、時代の移り変わりによって、あらゆる苦労をなめ尽くし、過去を偲んでは、その心を痛め、現在の事にとらわれて、纏わり疲れ、未来の事を憂いて、その身を損なっている。
或いは、欲をかいても、得られず、妄想は一時たりとも止むことが無く、不眠症や、食欲不振となり、精神的に疲労困憊している。
これらは、皆、その生を損なうことになり、皆、非劫非数の中に属し、人が最も愚かとなり、非命に倒れる事となるのである。
今の世に処して、文明が進歩し、知識も煩雑となり、いくらこれを、享受しても、尽きる事が無く、得れば得るほど、益々貪り、止まる所を知らないのである。
試みに問うが、限りある精神を以って、日に日に緊張して神経をすり減らすような、境遇にいて、少しも休息をとる事が出来なければ、いかに頑健な体と精神力を授かったいたとしても、また、その負担には耐えられないのである。
例えば、機械でも作られて頑丈なものでも、それを運転する時には、その速度と加熱力には、みな、その限度がある。
その限度を超過すれば危険を生じる事になる。
ある者が言うには、機械にはそれがオーバーワークにならない様にメーターがついているので、それを見ればすぐ分かると。
人身の限度を知るメーターは、自己の精神にある。
そこで、一たび疲労を感じたら、安静にして、以ってこれを養い、静坐によってこれを回復させる。
そうすると、多くの時間を費やさずして、復原する事が出来る。
ところが、人はこの時において、刺激的(精力剤)なものを服用して、早く疲れを回復させようとする。
神経が、安静を必要とする時に、これを刺激して、早く回復させようとして、刺激的なものを取れば、オーバーワークとなり、この種のものは、正常なエネルギーを超えている為に、その量は多くなくても、内に一種の毒素を含んでおり、それを長い間、服用すれば、肝火は旺盛となり、その毒素が肝臓に蓄積され、肺火が渇くものは、その毒素が肺臓に蓄積され、心脾と腎臓は、同じく損なわれることになる。
この種の毒素が蓄積されると、或いは、臓より、腑に移り、或いは腑より、臓に伝わる事になる。
この、種の蓄積されてきた、毒素は、薬によってこれを救う事は出来ず、手術によって、これを取り除く事も出来ないのである。
昔は、この種の疾病は非常に少なかったが、近代となって多くなり、将来は現在より、もっと酷くなるであろう。
吾(済仏)は各方に特に注意を喚起する。
吾が道院の静坐の功(先天の坐法)は、実にこの種の疾病にとって有益である。
思うに、毎日一定の時間があれば、安静にして坐り、気の流れをよくすれば、既に蓄積された毒素は、だんだんと、無くなり、神経も休養を得て健康となり、毒素も生じる事もないのである。
思うに、神経のものたるや、衰弱すればするほど、興奮しやすくなるので、修養上から観察すると、陰を損なうものは、思慮が度を越しているし。陽を損なうものは枯槁(草木が萎み、枯れること)になり、過ぎるのである。
陰を損なえば、魄が動き、陽を損なえば、魂が覆われる。
魄が動けば、神を損ない、魂が覆われれば炁を損なう。
炁と神が共に損なわれれば、霊は消滅して、しまうのである。
これを未然に防ぐには、静坐を究め、道を求める事にある。
静坐の功は、一度(四分)には、一度の効果があり、毎日能(よ)く八度(三十二分)、坐ることが出来れば、その益を得る事が甚だ多いのである。
それが喉が渇いてから、井戸を掘り、また医薬では、手の施しようが無くなってから、早死にする者を、どうして天命を全うしたと、言えるのであろうか。