天は万物を生み出しているが、そこには必ず
その用(はたらき)がある。
それは、たとえ、塵や芥のように微小なものと言えども、必ず、それぞれその功能を具(そな)えているのである。
人は天地の精をとり、陰陽の極地に造(いた)りて、万物の霊長となり、その働きの行為の功用は、どうして、朽ちた木や腐った草と同日に語る事が出来るのであろうか。
故に聖明なる人は世を化し、民を教え、天下の事を以って、己自身の任務と思っている。
愚鈍なる者(道心を持っていない人)は日が出ると働き、日が沈むと、休息し、家庭や吾が身を顧みることを、己自身のの任務としている。
たとえ天から賦与された者が同じでは無く、それによって、事業も又、異なってくるとは言っても、しかし、その行うところ、動くところ、赴くところの道は一(同じ)である。
そこで、人はこの世に生を受けて、何も為さないでいると言う事は出来ない。
何かを為そうとすれば、必ず、自分の一身と言う、覚悟が無ければならない。
この自分の一身の健全を願うならば、必ず生を保持しなければならず、その心を養おうとすれば、必ず、先天の炁を固めるのである。
それには、欲望を浄化して、清め静息の功になるだけである。
しかし、人の寝るのは、天然に息息するのに、どうして、心を養い、炁を固めることが出来ないのであろうか。
これは、その神が昧(くら)まされて漁(ち)る事に因って炁が息(や)んで人事不省の状態になるのであって、動中の静、無為にして、有為の息ではないのである。
(鬼雷述べる。睡眠とは身体と精神の活動の休息であり、気の周天が行われる事は無いと考えます。)
故に、黙坐を以ってこれを為さなければならないのである。
道院の中の各子は、ただ坐を語ることは知っていても、坐の用たるを知らないのである。
そこでほんのわずかな差によって、左から右に偏し、有形にとらわれるか、無形の枯木に偏する誤りを犯している。
左右に偏する点から言うと、二つの意味がある。
外を以って論ずれば百家の説によって迷い失われ、或いは大乗、或いは小乗など、色々の説がある。
その二は内である。即ち肝に偏し肺に偏する病がある。或いは気が躁(いら)だち、或いは心が煩らわしくなるのは、みな、その左右に偏するところの失である。
吾が道院がこの世に出来てからは、門戸の偏見が無く、境(さかい)や縄張りなどの区分がないのである。
故に己自身の自慢をせず、人を謗らないのである。
道は自然を本とするので、その全て人為で立直し造作し、他の術を用いるものは、みな左右に偏することになるのである。
かの農作物を見れば、一目瞭然である。
先ずその種を植えるのに自然に順(した)がねばならず、その成長も自然の力により、その収穫や実りも自然の働きによるものである。
それを人為によって苗の成長を促進させる為に、それを上の方に引っ張たりすると、苗は必ず倒れてしまう。
これが道を失う所以である。
形を失うということも、内外の二つに分ける事が出来る。
その坐が静で息の平なる者は、心と命が相依り任脈と督脈が倶(とも)に通じ、先天の炁息はめぐり、神が凝って白光を生じ、内形が結ばれる。
内形が得られれば、外形は必ず健やかである。
そこで、老祖は形の定まるところのある者はこれを存すと言っている。
そして任脈は前に通じ、督脈は後ろに流れる。
これを内に潤すと言う。
内が既に潤おされれば、外は適となる。
かの桃李(桃とすもも)の茂るのを見てみるに、枝葉が重なりあっており、花や蕾も隙間なく密生しているのは、その内の根が深く、固く陰陽の英(精華)を得ているからである。
また、かの精泉の流れを見てみるのに、その形は、清々であり、その性は温々である。
そこでたまり水などの涸れてしまうのとは同じではないのである。
それは上が天の正気に接し、下が地の湧脈に通じているので、外部のたまり水などとは異なるのである。
人が坐してその適を得て、内に通じる者は外は、必ず和し、内が潤うものは、外に必ず仁の働きをする。
このように、心性が一となった以上、智慧は必ずひろまり、炁息は相依りて、事物はみな明らかとなる。
故に老祖が坐功のポイントとして曰く「心は竅を離れず、身は道を離れないのである」と。
しかし、この竅と言う音は、先天の炁より来たものである。
故に全て天下万物は、この炁があれば、生気があり、この炁が無ければ枯れてしまう。
ただ、先天の炁の注ぐところ、心はこれが為に動く、心の動くところ、身を使う事になる。
そこで一身が善を為すか悪を為すか、身はこれを主(つか)さどることが出来ず、心が是を欲するか、非を欲するか、心がこれを決定する事が出来ないのは、みな、この先天の炁がそうさせているのである。
孔子の言にも終日飽食ばかりして、心を用いるところがなければ、道を修める事は難しいと。
又、孟子の言にも人は自分の家で飼っている鶏や犬が放たれて居なくなると、これを探し求めることは知っていても、自分の良心が外に放たれて不在となっても、これを求める事を知らないのである。
なんと哀しい事ではなかろうか。
これらは、みな人が身を養い命の本を保つ事を知らないので、それを嘆いているのである。
しかし、竅のあるところ、至る所みなそれが可能である。
能(よ)く心炁が相注いで神が外に馳せる事の無い様にすれば、みな竅である。
故に炁の要(かなめ)は、竅である。
全て能く炁をして凝固せしめるものは、みな竅である。
ただ、これ心気は、虎や竜の如く凶暴で思うままにならない。
そこで何をもって猿の様に飼い馴らすかが、問題となる。
そこで祖土(祖[もと]や中心)を守り黙して、潜(ひそ)かに収視返聴する功夫がある。
また坐っている諸子の夙慧いかんによって、これを収捨するのである。
道という発音は、徳奥の二字より来たもので、全ての徳の奥に至る者は、みな道に中(かな)っているのである。
そこで内が枯れない者は、外に寂(死)となれないのである。
仏(仏教)、耶(キリスト教)、回(イスラム教)、道(道教)、儒(儒教)は、みな徳奥の極を具(そな)えて、道の一端を明らかにしたいる。
そこで仏では、慈(仁)と為し、耶は愛と為し、回では清と為し、道では静と為し、儒では明と為し、これはみな坐の四つの功の如く、その中の一つを得ても定游の境地に至ることは、出来なくても、又、魔を退けて障りを避けて、寿命を延ばす事が出来るのである。
弘(ひろ)く古今の聖神、仙仏を見てみるに、これらの人は、みな強固なバックボーンによって至ったのである。
故に経(北極真経)では、静坐の功は衆生を救い、また己自身をも度(すく)うと言っており、即ち人を救い、物事を為す所以でもある。
諸子はめいめいが、坐に努力を致し、心を坐功に用いれば、人を救い、己を度(すく)う上に成果をあげる事が出来るであろう。