蕪湖道院での、扶乩で言われるには、いま、修方に対して、「坐って効果があるのかどうか。」と聞けば、ある、一修方が、それに答えて言うには、「自分が精神を集中した時には、光が両目の間で輝き、白くなったり、赤くなったり、消えたり、現れたりするが、これはおそらく精神が凝って、自分の誠に感応して、現れた、現象ではないだろうか。」
達磨仏答えて曰く「まあ、座りなさい。自分は貴方に話してあげよう。貴方の修道は、まだ深い境地にまで到達していない。
それらは、幻影にすぎないし、あらゆる現象は、みな、虚妄である。
心に囚われるものがあるので、これら幻があらわれる。
そして、それら幻を見るので、妙の境地に至ることは出来ない。
妙に囚われて、かえって幻を見てしまう。」
「見えるものがあれば、「見よう」と貪るので、白くなったり、赤くなったりするものが見える。
その白や赤を見分けようとすれば、心がそれらに馳せるようになり、そこで消えたり現れたりする。
見えれば心が迷い、思えば心が乱れ、迷えば神が昏くなり、乱れれば霊が散り、霊が散れば神が薄くなり、幻より、魔に入りやすくなる。
そこで、「長い間坐っても進歩がない」と言う事も不思議な事ではないのである。
「真の光り」とは、先天の炁に根ざし、その炁が剛であって天地に塞がって光が出てくる。
炁が何故、剛であるかと言えば、坐によって能(よ)く、その欲を退けて、心を澄ますからである。
心が澄めば動静ともに、「中」を得る事が出来る。
能く、「中」を得ることが出来れば、心身ともに「妙」の境地となる。
心身ともに、「妙」の境地になれば、神霊と結ばれる。
これを儒教では「明徳」と言い、道教では、「玄珠」と言い、仏教では「円照」と言い、光があまねく行き渡り、照らさないところは無い。
これが「修道の功」の極地である。
皆さんが、静坐をして、神を凝らす(精神を全集中する。)時には、奇異な現象に囚われず、幻の境地に、のめり込んで、これを見ようとしてはならない。
その上で、上乗の境地を潜(ひそか)に修めることを深く望むのである。
「祖炁」(根源の炁)を回復するようにすれば、自ずから大円光があらわれる。」
孚聖が示して言われるには、「今日、達磨祖師が語った、坐の主旨は、意味や道理が深いので、努めて自ら参じて、悟り、詳細にこれを究めるようにすれば、心身にとって極めて大きなプラスとなる。
つかみ所のない、形式的な議論などで、これらの肝腎なところを、おろそかにすれば、達磨祖師の苦心の末に到達した、境地を失うことになる。」