散歩者goo 

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昨日記150117土(情報とQOL 内山聡展と現代美術と市場)

2015年01月18日 14時05分24秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
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昨日の朝は、前日ジムに行って、夕食が遅くなり、その上寝る前にNHKEテレの「パリ白熱教室」のピケティ教授の講座を視聴し、食事の後片付や洗濯物干しを12時過ぎにしたため、1時ごろに床に就いたので、寝る前に目覚ましを切って寝た。

寝てからも、講座を視聴した「21世紀の資本」の内容や格差について考えさせられ寝付けなかった。
これだけはっきりとした裏付けされるデータがでていて、教授があるべき方向性を暗示しているのに、貧困層や中産階級の人達からの不満の声が上がり、政治に反映しないのは、そうした情報に接していないことが原因であろう。

情報不足、無知、ということは恐ろしいと思う。
これは、経済問題に限らず健康問題やそれ以外のことでも同様であり、例えば様々な健康に関連する知識を知っているか、知らないかで、その人の生活の質(QOL)は全く変わる。
私の場合では、年収100万円余りの借家暮らしで真冬でも無暖房で過ごしている貧困層独居老人でありながら、元気にある程度充実した楽しい活動的生活を送っているのも、TVやネットから様々な最新情報(医療健康・行政サービス・催し物・・・・)を入手し活用しているからに他ならない。
端的に言えば、必要な最新情報に接するかどうかということなのだと思う。
世の中には、不必要な情報があふれかえっており、どれだけ必要な情報のみをとるかという意思決定や判断も、本人の能力次第であり、多くの人は情報に振り回され、情報の洪水に流されていることすら本人の意識にないのではないかと思う。

随分横道にそれたが、昨日起床したのは8時前であった。
ブランチにしても良かったが、とりあえずパンと牛乳と納豆とヨーグルトで軽い朝食にした。
パンは、手間と時間がかかるので、いつのころから忘れたが、多分20年以上前からパンを焼かないで蜂蜜を塗って食べている。

起床が遅くなったのですべての生活パターンが遅くなった。
昨日は、奈良市のギャラリーOUT OF PLACE(http://www.outofplace.jp/nara/)で開催中の内山聡展の作家トークに参加することにしていたので、4時に家を出た。

このギャラリーには、過去に何度か行った記憶はあるが、多分4-5回前後ではないかと思う。
毎回、道を間違えてかなり遠回りしてたどり着いた記憶がある。
昨日は、そうした経験が頭に記憶されていて、地図も何も持っていないが、おぼろげな記憶と勘を頼りに歩き、間違うことなくついた。
決め手は、古墳の横の路地の枝道の奥という記憶だった。

時間を1時間間違えて行ったので、来客はなかった。
そこで、ギャラリー担当の方やオーナーと、作品のことで話をしているうちに、作家の内山さんも来られて、詳しい話を聞くことが出来た。
ギャラリートークが始まるころには、多くの人が、会場に集まった。
その後ギャラリートークがあり、そこでもまた違った側面の話を聞くことが出来た。
聴衆との質疑応答もいろいろあり、作品や内山氏の作品に対するコンセプトや、作品制作・表現に対する考え方も知ることができた。

作品は、半年間の時間をかけて作られたものであり、1日筒区切って作業されたものだ。
そこには、時間、行為、労働、といったものが、日常消耗品として使われている包装用クッション(プチプチ)をカンバスとして美術作品として展示されている。
そこには様々な意味が込められている。
今回のテーマが「クリックする人間、動物、あるいは機械」であり、そこに作者のプチプチに穴を空けて絵具を注入する行為をクリックと見立て、アートが機械的に生産されていくということを表現しているようだ。
リーフレットの言葉を借りると、『「行為」「時間」「物質」など様々な視点から解体し再構築することを制作の中心に据えています。』ということらしい。
そこには、作家の芸術の未来観や作家自身がテクノロジ―に飲み込まれ抗う(あらがう)いながらも、それを利用するといった矛盾を抱えているという。

さらに、観客との質疑応答で、額縁入りの作品や単品の作品のことも質問があったが、これは市場と作品との関係に関する共通した問題であり、良く問題にされる。
同時に、今回の作家の話には入っていなかったが、機械化とか作品の生産性といった言葉の中に、作家が本来目指している芸術の精神性と、今回の作品を制作するにあたっての、機械的作業との矛盾と市場経済との矛盾する関係や、その結果表現しようとする精神性との乖離こそ、この作品の、作家の意識上に顕在化していない主なコンセプトとしてとらえることが出来るのではないかと考えている。

オーナーも言うように、ギャラリーは、市場経済に組み込まれているので、販売しなければ、画廊として成立しない側面を持っている。
特に周囲からの仕切りの働きを持ち作品を封じ込める額縁は、このようなコンセプチャルでありかつインスタレーション的要素を持つ現代作品の場合、46m?の巨大作品に対し、その象徴としての額縁入りの作品とみなすことができると私は考えていて、そうした発言を当日行った。
こうした話をギャラリーはやりたがらないし、現代作家も(制作姿勢の問題として)自分に火の粉が降りかかることなので話したがらない。

関係者は秘密の部分を暗黙の了解のもとブラックボックスに包んで、現代作品のミニチュア版やシンボルを販売している場合が多い。
それは、現代美術のみならず、具象絵画・抽象絵画等の作品でもよくおこなわれている。
現に有名作家の、代表作(例えば少女像)の同じモチーフの小品がいくつか描かれて販売されているのはよく目にする。
ここに芸術と市場との関係の一断面がある。

芸術と市場の関係は様々な側面や矛盾を含む問題で、しかも、利害関係が絡む問題なので暗黙の了解が多く、下手に掘り起こすと火の粉が身に降りかかるので、正面から問題を取り上げる関係者は少ない。
多分、この問題は芸術すべてに係わる問題で、市場関係に乗らない希少価値の市場問題であろうと考える。
突き詰めれば、骨董や収集マニアの市場と同じで、有力な資金を持った人(パトロン・オークションの客を含む)が支援者になれば価格がついて上がるが、多くの作品は支援者がつかない限り、市場価値はゼロと考えるべきである。
私の考えだが、オークションの価格のみが評価額と言って差し支えないと考えている。
具体的には、かつて、有力画廊が作家を支援する場合には、その画廊はその作家の作品を買い支えていた(買戻し)ので、その作家の作品価値は、画廊が買い支えた価格になったのだ。
バブル時代、従業員数人で数億円の利益を上げた画廊も多くあったので、そうしたことは可能だったのであろうし、バブル以前も官公庁の賄賂の代用品として美術作品が換金手段として使用されたことが、大きな社会問題になったこともある。
そうした構造が背景にあれば、一画廊で支援作家の作品の買支えは可能であったであろうが、今はそうした構造はない。

そのオークション価格も、時代により大きく変化する。現在高値がついているものでも100年後には、ほとんど価値がないかもしれない場合も起こりうる。
美術において、作家・画廊・コレクタ・評論家(マスコミや学芸員含む)・市場=作品価格と作品の芸術的評価の問題は掘り下げていけば、様々な問題を含んでいると思っている。

今回、画廊もこうした額縁の作品の議論を、ごまかさず正面から答えてくれたことは、評価すべきだ。
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