散歩者goo 

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昨日記150119月(冷え情報  芸術論の具体的事例)

2015年01月20日 12時35分34秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
晴・曇 最高/最低℃ =11.4  3.6
昨日は、結果的に終日何もしなかった。
気になったことといえば、朝のTV番組で、足の冷えにお尻の筋肉(梨状筋)のコリが、神経を圧迫し足の血行を悪くして冷えになるという事例を報告していた。
それと同じ内容が「冷え性が治るツボ!梨状筋をボールでほぐす」(http://nice-senior.com/doc/1963/)に掲載されていた。
その他冷え情報を、ネットで調べると去年8月19日のNHKあさイチ(http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2014/08/19/01.html)でもやっていたが、内容は少し違う。

夕方になって、副食作り用の丼鉢を更に一つ買い足すために、運動を兼ねて天満橋まで出かけた。
途中、足が重く、一昨日の20分間のランニングがひびいていることに気付いた。
ランニングの疲労が十分回復していないようだ。
丼購入後、いつもの店で読書し、図書館から借りていた本を読了した。
1時間に5-60ページぐらい読めると思っていたが、そんなに早く進まなかった。
小説の場合は、かなり速いスピードで読めるのだが。・・・

昨日は何もない退屈な一日であったが、一つ特記すべきことは、昨日記で、普段から考え発言している、美術芸術への考え方の一部をまとめたことであろう。
先程も、昨日書いた芸術論の一部の、文章を追加修正した。
芸術に関する考え方は、古来様々な哲学者が美の概念ということで議論してきた。
しかし、芸術という概念が生まれるのは近世であり、古代では芸能の一部または職人であった。
その芸術の概念も、現在では表現ということが浸透しつつあるように思う。

昨日の昨日記でも述べたように、カテゴリーや分類そのものも、自然科学の場合は明確な定義があるが、文化芸術の場合は、人間が人間の創造した価値観の沿って決めているのであり、しかも芸術の場合様々な要素が混ざっていることが多く、更にどの視点(見方・価値観)で分類=差別化するかで、結果は異なってくる。

多くの人が、芸術の評価で頼るのは、マスコミとりわけ新聞評論であろう。
ところが先日行われた、元美術関係の記者を含めたシンポジュウムで、元美術記者から、現代美術が分からないまに、関係者に取材して必死に書いた、というような発言がいくつかあった。

その現代美術といっても定義は、曖昧なのである。
しかも現代美術の中には様々な分野があって、それぞれ全く違う見方で制作されている。
即ち価値観が違うのである。

何時も例として挙げるが、ヘビメタも歌謡曲もバロック音楽も謡曲も義太夫節もクラシックもアボリジニの音楽も京劇の音楽もインドの音楽もマサイ族の音楽もすべて音楽である。
しかしバロック音楽の聴き方で義太夫節を聞くことができない。
いわゆる、音楽としての文法、文脈といった体系が全く違うのであり、そこには民族・歴史的背景や風土の違いから生じる価値観が全く違うことに原因しているのである。

しかも、現代美術はどんどん新しい形のものが生まれている。
多分、生まれたてのものは、評価がしようがない。
時間がたって、多くの人が、その作品が分かり支持することで、新しい流れができるのである。
例えば、音楽でも、ビートルズは、当初雑音と評されたが、今では教科書にも採用されているという。
ゴッホの作品が、鶏小屋の一部(扉?)に使われていたという話もある。

ここで言いたいことは、多くの人は、現代美術を観るのに、マスコミや評論家の権威に頼っているが、そうした意見も参考にしつつ、自分の目で見て考えるのが楽しみ方をするべきであるということを思っている。
文化芸術では、権威ある人たちの考えが、常に正しいわけではない。
有名な評論家の言説やアカデミズムが、後世否定されることは、よくある。
印象派の事例もその一例である。
しかし、芸術の基礎を勉強しなくて、自由になんでも自分勝手に評価すればいいというのは、それは全く違う。
芸術鑑賞する場合、最低限の知識や教養は必要だし、出来るだけ多くの優れた作品を見聞きし、目や耳を肥やさないと、いい作品を鑑賞できない。
即ち、文法文脈を駆使して作られている作品には、それ相応の文法文脈単語を知らないと、作家の表現を読み解けないのである。
無論、美術でも見た通りの分かりやすい絵や作品もある。
芸術作品を多く鑑賞すると、反射的に適用する文法文脈や単語が見えてくるようになり、作品の面白さが分かるのである。

これは、音楽や絵画に係わらず、文学でもそうである。
俳句や短歌・和歌に多くの注釈書があるのもその表れだ。
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